2017年10月/ 09月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫11月

2005.10.22 (Sat)

とんでも説としての明治天皇すり替え説

メルマガで「新・ノアの方舟」始末記を掲載しているが、話が右翼の親分による
「明治天皇すり替え説」を紹介した所、下記のようなメールが届いた。
この人は郷土史家なのだろうか、実に詳細に大室家の系図を調べている。
あまりにも微に入り細にいっているのでその辺は省略してポイントに絞って紹介する。
裏明治維新史として非常に興味深い。

大室明治天皇

1. 天皇すり替えに関しての疑問
天皇(院)の存在自体知らない、あるいは存在は知っていても、
現代の様にテレビがある訳では無いので顔は知らない、
と言うのが庶民レベルなのかなと思いまして。
だとすれば顔が変わっても、庶民には分からないのかな?
と思った次第です。

2.解説
いやいや、実は、テレビが無い時代庶民は情報を
得難かったと思うでしょう。
それがどうも違うみたいなのです。
と言うのは、孝明天皇暗殺事件や井伊大老の
暗殺事件等はとっくのとうに京の庶民の間に噂が
広まっていた訳ですし、古くは菅原道真の時代
(平安時代)等も、一般庶民の間に道真の怨霊(天神様)
の噂があった位ですから。
 案外庶民と言うものはばかじゃないのですよ。
鹿島氏の著書に、京都御所内だから天皇を大室寅之祐に
すり替えた所でばれない等と書いてありましたが、
正しくは、鳥羽・伏見の戦で薩長軍が勝ったからこそ、
(勝てば官軍)旧暦明治元(1868)年1月15日に、
大室寅之祐が京都御所で「新明治天皇」として迎え入れられ
即位した訳です。
それまで玉(大室寅之祐)は京都の薩摩藩邸に
待機していた訳ですが、仮に京都御所内ですり替えられた
としたら、公家や女官が何百人もいる訳で、
全員の口を塞ぐ等と言う事は無理な話ですし、
まえに書いたとおり孝明天皇暗殺の噂と同様に、
瞬く間に天皇すり替えの噂が京の庶民に広まるでしょう。
ですから、田中光顕が三浦天皇に語った通り、
明治天皇はすり替えられたというより何度でもいいますが
鳥羽伏見の戦いに勝利した薩長軍が睦仁(京都明治天皇)
を御所から追放し同じく京都御所に維新の時、
大室寅之祐が迎え入れられたと言う方が正しい。
慶応3年(1867)年1月、京都明治天皇(睦仁親王)は
即位しました。しかし京都明治天皇の方も中山慶子が
流産したため、人さらいを使って拉致してきた子を
京都明治天皇(睦仁)にしたてたから睦仁が即位した
次の日から京都御所内はパニックになった。
そこで睦仁は中山忠能と中川宮朝彦らに
京都御所のまつりごとをまかせ、約1年間中山慶子の
実家の中山忠能邸でひきこもり過ごすことになった。
慶喜は、斉昭の息子中川宮朝彦(自分の兄)を
上皇にするつもりで自分は雄藩連合の長、
いまでいう総理大臣になるつもりだった。
だから慶喜が勝をつかって勝が坂本と相談し、
坂本が慶喜を総理大臣にするため木戸と西郷を
引き合わせ薩長同盟をむすばせた。

つまりはじめは、いまふうにわかりやすく例えたら
薩摩党と長州党と慶喜党の3党連立で慶喜内閣を
作ろうとした。
がその後長州(木戸)がこれに反対。 
木戸も西郷も寅之祐に権力もたせたいが為、
慶喜と中川宮双方に消えてもらう必要があった。
慶喜に権力を持たせると幼帝(寅之祐)の命が危ないと。
さらに慶喜の背後にフランス軍がついて
薩長の背後にイギリスがついていてイギリスは日本が
フランスの植民地になるくらいならイギリスの植民地に
したいと考えイギリスのパークスが、
慶喜と背後のフランスをつぶすために
「開国を認める天皇(寅之祐)の元で
薩長藩閥政府を作り慶喜を排除せよ」と命令。
坂本と中岡が慶喜追討に反対し邪魔になったため
伊藤、山縣、井上馨ら3名に暗殺された。
(龍馬暗殺を指示したのは木戸)
(勝も暗殺される予定だったが必死になって逃げ、
命だけはたすかった。)
薩長軍にイギリスが加担し慶喜軍にフランスが加担し
戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)勃発。
兵の数では慶喜軍のほうが薩長軍のより3倍もいたが
薩長軍の新型兵器アームストロング砲で慶喜軍と
中川宮は敗れ去った。
上野の戦いでは家達と玉の東武皇帝を打ち破り、
寅之祐が天下をとったわけ。

(1868年1月15日以前の) 即位当初の少年京都明治天皇(写真  
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/
bakumatu3/meiji.html
睦仁親王(京都明治天皇)は幼少の砌(みぎり)、
裕福であったので種痘を受けた。故に疱瘡(天然痘)には
罹っておらず、顔面に「あばた」は無かった。
睦仁親王(京都明治天皇)は、右利きだった。
御所の女官達の中での温室育ちであった睦仁親王は、
充分に教育され帝王学を学んでいた訳であり、
当然躾(しつけ)も厳しかった。故に、左利きになる訳が無く、
ひ弱で喩(たと)えは悪いが女癖も悪くは無く
(育ちが良かったので)、右利きであった。
基本的に「佐幕攘夷」。
(親徳川=公武合体派) 先帝・孝明天皇の政策「攘夷」を
継承。 この場合、「神風」でも吹かない限り、「攘夷」の
実行は不可能。
英・仏と言った欧米列強とまともに戦った所で、
日本が負ける事は端から分かり切っている。
つまり、天皇=現人神(あらひとがみ)が
不可能な事を命令した事になり、
倒幕開国派(薩長)にしてみれば、
天皇をすり替える必要に迫られた。
元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際、
砲声と女官達の悲鳴に驚いた睦仁親王(当時13才)は、
「失神」した。睦仁親王は幼少より「虚弱体質」で、
毎年風邪をこじらせていた。
又、16才になっても、宮中で女官と一緒に「遊戯」に
いそしんでいた。睦仁親王は16才になっても、
書は「金釘流」、つまりは「下手」であった。
又、政務にも無関心であった。

即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。
つまり、馬には乗れなかった。
即位後1868年1月15日からの明治天皇
◇明治維新後の大室寅之祐の東京明治天皇(写真)
  http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/
bakumatu3/meiji2.html

明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、
2歳の時、痘瘡(天然痘)に罹った。
その結果、口の周りに「あばた」が残った。
その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、
わざわざ、キヨソーネに描かせた「肖像画」を写真に
撮らせて「御真影」とした。
又、「あばた」を隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。
明治天皇(大室寅之祐)は、左利きだった。
左利きになったのは、寅之祐がかぞえ5歳の時、
母親が離婚した為で(『大室寅之祐(明治天皇)の出自と
近代皇室について』を参照の事)、
母親が息子寅之祐にかまってあげられる余裕が無かった
結果として、左利きとなった。
又、維新後の天皇は良い言葉で言えば艶福家であった。
基本は「倒幕開国」派。
(薩長派=目的実現の為には、「天皇暗殺」をも
厭(いと)わない自称「勤皇派」)
 孝明天皇の政策「攘夷」を180度転換。
この場合、天皇=現人神の「御聖断」
(攘夷放棄と開国承諾)により、
日本の開国・近代化が実現。国策としての殖産興業・
富国強兵によって、アジアで唯一、列強の地位を獲得。
明治天皇は威風堂々、馬上から近衛兵を閲兵し、
自ら大声で号令した。体重24貫(約90Kg)の巨漢で、
側近の者と相撲をし、相手を投げ飛ばしたと言う。
明治天皇は、書が「達筆」であった。
又、学問にも熱心であり、教養豊かであった明治天皇は、
明治時代軍隊を馬上豊かに閲兵した。

大室寅之祐の東京明治天皇(写真)(薩長同盟成立の記念写真) 
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu/ishin.html




ランキングに登録しました。
良かったら、クリックして下さい。


タグ : 明治天皇すり替え説

21:24  |  エッセー  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

Comment

コメントを投稿する

URL
COMMENT
PASS  編集・削除するのに必要
SECRET  管理者だけにコメントを表示
 (現在非公開コメント投稿不可)
 

▲PageTop

Trackback

この記事のトラックバックURL

→http://saketobara.blog50.fc2.com/tb.php/94-6af32dfe
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

この記事へのトラックバック

▲PageTop

 | HOME |