2017年07月/ 06月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫08月

2017.05.03 (Wed)

あの石原慎太郎が、憲法について述べている。

憲法論議がようやく堂々と議論出来るようになった。
誠に喜ばしいことだ。

日本の論客 石原慎太郎氏が、下記のような主張をしているので
以下紹介しよう。



【石原慎太郎 日本よ】
白洲次郎が明かした「吉田茂の最大の間違い」とは?
 あてがいぶちにすぎぬ憲法を考え直す季節が到来している

石原慎太郎氏
 今ようやくその改正を問われている日本国憲法の生い立ちについて、
大方の国民が忘れていると言うより
迂闊に知らずにいる歴史的事実があることをこ の
今こそ思い起こすべきと思われる。
それは共に同盟国として敗戦し連合国に降伏したドイツと
日本の敗戦に際しての姿勢の決定的な違いについてだ。
未曽有の 新兵器原爆によって瞬時に二度も数十万の
市民を殺戮されて腰を抜かした日本が無条件降伏をしたのに
比べて、ドイツは降伏に際してあくまでも三つの条件をつ け、
それが受け入れられぬ限り徹底して戦うと主張した。

 その三つの条件とは第一に、敗戦の後の国家の基本法の
憲法はあくまでドイツ人自身の手によって作る。
第二は戦後の子弟の教育指針はドイツ人自身が決める。

第三はたとえ数はごく少なくとも国軍は残すというものだった。

 この国家民族の主体性を踏まえた主張は勝者の連合国側にも
受け入れられ、ドイツは他国による完全支配を免れた。
それに比べ日本は他国による奴隷的な支配の
甘受を許容することになった。
その国家民族の没個性的な状況を象徴するのが
現憲法に他ならない。

  混迷し、暗黒だった中世が終わった後の世界の歴史は
白人による有色人種への一方的支配だったが、
唯一の歴史的例外は日本という国家の存在だった。
白人によ る他地域への支配を象徴する強大な
帝国海軍を保有した有色人種の国家は唯一日本であり、
世界一巨大で強力な戦艦『大和』や『武蔵』を
保有するに至った日本 は白人支配に対する
歴史的『NO』を示す目障りな存在だった。

アメリカによる戦後の日本支配はその復活を
半永久的に封じるためのものに他ならなかった。
そ れを象徴するものが彼等が即製し
強引にあてがった現憲法に他ならない。

白洲氏「吉田茂の最大の間違い」

 今は亡き江藤淳がアメリカの戦後日本 における
言論統制を痛烈に批判した論文『閉ざされた言語空間』に
あったように日本人の正統な日本語による為政者への
統制批判を封じるものの象徴的存在は、
間違った日本語で綴られた前文に始まる憲法に他ならない。
かつてシェイクスピアを全訳もした優れた英文学者でもあった
福田恆存が指摘していたように憲法の
前文には明らかに慣用の日本語としては
間違いの助詞が数多くある。

たかが助詞と言うなかれ、一つの助詞は言語の本質からして
それ一字だけで文章全体の品格 を左右しかねないものなのだ。

 文章の芯たる助詞の誤訳

 かつ てドナルド・キーン氏であったろうか、
昔の優れた叙景歌人だった永福門院の名歌
『真萩散る庭の秋風身にしみて夕日の影ぞ壁に消え行く』を
翻訳して見せられ た時、なるほどと感心して読みなおした私に、
「でもあそこの一字だけはとても難しくて、
英語に訳すのはまず無理ですねえ」と慨嘆してみせ、
私も「あれは難 しいでしょうな」と相槌を打ったものだが、
ここの禅問答みたいな会話の芯は夕日の影ぞの、
「ぞ」という間投詞の味わいなのだ。

この歌は夕日の影「も」でも 成り立つが
「ぞ」という助詞一字の味わいがなくしては
帝の寵を失った女の悲しみは伝わってこない。
それほど助詞というものは
文章を支える芯の芯にも値する ものなのだ。

しかしアメリカ人が英語で即製して日本語に翻訳した
憲法にはわれわれが日常使う日本語としては
なりたたないような助詞の誤訳が随所にある。

  例えば多くの問題を含む九条を導き出すための
前文『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して
われらの安全と生存を保持しようと決意した』という文言の
「公正と信義に信頼して」の一行の助詞の『に』だが
これは日本語としての慣用からすればあくまで『を』で
なくてはならず誰かに高額の金を貸す時に
君に信頼 して貸そうとは言わず君を信頼してのはずだろう。

さらに後段の『全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ』
云々の『から』なる助詞は『から』ではな しに慣用としては
恐怖『を』免れのはずだが英語の原文の前置詞が
FROMとなっているために『から』とされたに違いない。

たかだか僅かな助詞の話ではないかと言う筋も多かろうが
正統な国家の正統な基本法はあくまで
正統な国語で綴られるべきであって、
この日本語の体をな していない前文なる文章は、
悪さをなして先生にひどく叱られ恐縮してひたすらに
お詫びする生徒の卑屈な姿勢を象徴していると
いわざるを得ない。

日本がひき おこした太平洋戦争について
ナセルとスカルノは期せずして同じことを述懐していたものだった。

曰くに『われわれが独立を果たすことができたのは、
敗れはし たが日本が白人とあれだけ戦ったという事実のおかげだ』と。

日本という有色人種による軍事国家の誕生が
中世以来の白人支配という歴史の原理を変えたことは 間違いない。
それは歴史の本流を歩んできた白人たちにとって
看過できぬことだったに違いない。

そうした歴史観に立ったかつての為政者によって
現憲法が一方 的に作り与えられたことは間違いない。
われわれが拝領させられた憲法の歴史的な背景を考えれば
民族の主体性が及んだ痕跡などどこにもありはしない。
 読み直し考え直す季節だ

  私は幸いにしてごく若く世の中に出られたおかげで
当時まだ存在していた文壇なるものにも顔が出せ、
さまざまな行事を通じて多くの先人たちとまみえることができたが
小林秀雄と親交のあった白洲次郎氏ともゴルフの会などで
親しく話す機会も得た。

そんな会話の中で印象的だったのはかつて
吉田茂総理の側近中のだれ にもまして側近だった白洲氏が、
「吉田茂の犯した最大の間違いは自分も同行していった
サンフランシスコの日本の独立がみとめられた
講和条約の国際会議でア メリカ制の憲法の破棄を
宣言しなかったことだ」と言ったのは極めて印象的だった。

 この現世紀にいたって日本を囲む諸状況は緊張を増し
新し い危機の到来が予感される今日だが、
はたしてわれわれは今の憲法を墨守しそれを与えた
かつての支配者にすべてを委ねることで
国家民族の主体性を保持できる のだろうか。

『天は自ら助くる者をのみ助く』という人の世の原理を
われわれは今ようやく憲法を見直すことで
思い起こすべきではなかろうか。

現憲法にはその成立の過程を含めて
日本という国家の主体性を疑われる節が多々あることは否めない。
だけではなしに官僚支配という民主国家としての
体質を損 ないかねぬ条項がいくつかあるのだ。

例えば予算を通じて官僚が国民を欺きかねぬ事態を
保証している国の会計監査に関する第九十条は
『国の収入支出の決算 は、すべて毎年会計検査院が
これを検査し』とある。役人が役人たちの税金に関する
所行を検査してその矛盾を厳しく指摘するなどということは
考えられまい。

そのせいで今もってこの日本だけは国家の会計制度は
先進国の中でいまだに非発生主義の単式簿記という体たらくで、
特別会計制度なる利権の巣窟が温存されつ づけているし、
まさに藪の中の体たらくで役人天国の温存にもなりかねまい。
それらこれらも含めてわれわれはようやく本気で
あてがいぶちでしかなかった憲法 を、
われわれの子孫の繁栄のためにも、
自分の目で読み直し考え直す季節が到来しているにちがいない。









ランキングに登録しました。
良かったら、クリックして下さい。


10:12  |  エッセー  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

Comment

コメントを投稿する

URL
COMMENT
PASS  編集・削除するのに必要
SECRET  管理者だけにコメントを表示
 (現在非公開コメント投稿不可)
 

▲PageTop

Trackback

この記事のトラックバックURL

→http://saketobara.blog50.fc2.com/tb.php/751-0411a4da
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

この記事へのトラックバック

▲PageTop

 | HOME |