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2009.09.22 (Tue)

日本に残るユダヤの風習    脱ニッポン

日本に残るユダヤの風習



迎賓館での酒盛りで九州王朝説が段々皆の
確定的な認識となってきた。
「中国側の記録にかって百余国あったと
される倭の諸豪族を征服し束ねたのが
シルクロードから中国、朝鮮半島を辿って
九州に上陸したユダヤ人部族だった
と思いますよ」日本人のルーツはユダヤ人、
だと主張する福原は、今度は自分の出番だと
ばかりに張り切って話始めた。

「勿論、正統な歴史学会では一顧だに
されませんが、日本伝統の風習が
あまりにも古代ユダヤ文化と
酷似しているのですよ」阿蘇の地酒を
グビッと呷った福原がその具体的な例を
あげていく。
「日本のお正月の行事とユダヤの
『過ぎ越しの祭』、彼等は正月より7日間、
無発酵のパン、つまりお餅を食べます。
また、門前に常磐木の枝を飾り、
苦菜(にがな)を食べます」
ユダヤの正月行事の起源は、ユダヤ人が
エジプトを脱出した紀元前1491年もの
前からのことだ。

「また、禊ぎなど清浄を何より重くみる事、
神社の鳥居、榊としめ縄等、日本には獅子
(ライオン)はいなかったのに、
神社の入り口左右に必ず雌雄一対の
石像があります。
彼等は自分達の旗印に獅子の像を用いている。
また、清めの式として塩をまく風習等、
例をあげたらキリがないよ」
溜っている言葉をもどかしそうに
紡ぎ出す福原。
ユダヤ教は一神教であり、日本の神道は
八百万の神を尊ぶ汎神論であり
全く正反対である。
しかし、何故か両極端の神を敬う両民族の
風習は驚く程、酷似している。
ユダヤ人はノア一族が選民として方舟に乗り、
地球大洪水の災厄から逃れてタガーマ州の
アララト山頂に止まった7月17日を
記念して謝恩祭を行った。

創世記第8章3節に
「これにおいて水次第に地より退き
150日を経て後水減り、方舟は7月に至り
その月の17日にアララトの山に止まりぬ」
彼等は、驚喜して踊りまくったので以降、
この祭には舞踊がつきものとなった。
そして日本では、毎年7月17日に夏祭りの
祇園祭(別名天王祭)が行われ、
また7月16、17日には日本中で盆踊りが
催される。
京都の祇園神社では毎年1週間にわたり
祭典を行っている。
これら日本の夏祭りには、神輿水中渡御の
式も厳粛に行われている。
この神輿の下部には古くから波と鳩に似た
小鳥の彫刻があり、神輿の上には左右の
両翼を広げ、その口に榊の小枝をくわえた
金色の鳥の模型を飾っている。
その際、下部を船に模し、波の模様の幕を
つけた山車を引いて町内を練り歩いている。
これ等はまさにノアが洪水の治まり具合を
調べるため、方舟から鳩を外に放し、
その鳩が口に新芽のでた青葉の枝をくわえて
帰った故事を彷佛させる。
さらに洪水の後、ノア一族が暮らした国は、
西アジアのアルメニヤのタガーマ州で
ここの古都をハランと呼んだという。
これも「高天原」を連想させる。

「阿蘇神社は12柱の祖神を祀っているけど、
これ等もあのイスラエル12部族の象徴では
ないだろうか?」
確かに日本最古とされる紀伊国熊野に
12祖神が祀られるなど日本各地に
12社神社がある。
どうやら日本古神道は古来から12と
いう数にこだわってきている。
大嘗祭の主基斎田に奉仕する者12人、
平安の都に造営した御門も12。
昭和3年に挙行された昭和天皇の即位式が
11月10日発行の東京朝日に次のように
掲載されている。
「ここに我日の本の皇后陛下を御帳台上に
仰ぎ奉るのであった。その壇下全面東方には、
御12方の各妃の宮様が孰れも御五衣、
御唐衣、御裳の御姿で、御列立遊ばされた
その最上位秩父宮妃殿下のお姿を初め、
十二単の御装束端然として並び立たせ給う
御十二方、恰も絵巻物の中の古えを現に見る
如き御美しさである」

またこれらの事象に詳しい人物によると
十二弁の菊花の御紋は古来から皇室と神社に
伝わってきたそうである。
一方、ユダヤの古典によると、
太陽をかたどった天日章の光の筋には
十二と十六の2種類あって、12は勿論、
十二部族を代表する時に使われ十六の方は
全世界に関わる場合に使われたという。
イスラエル十二部族の中にガドという
1部族があった。
ガドの長男の名はニッポンだという。
英語訳ではこの長男の名をZephonと
なっているので日本語に訳された聖書では
ゼポンと記しているが、
ヘブライ語の原書には頭文字に力を込めて
発音するニッポンになっている。
ユダヤ人はZとJを頭文字とする言葉を
正しく発音出来ないという。
従って彼等はZephonをエッポン、
または、ニッポンと発音する。
さらに日本の民謡の囃子言葉は
意味不明なものが多いが、日ユ同祖論を
探求している人たちによると、
それらのほとんどが古代ヘブル語で
意味を持つ、といわれている。

失われたイスラエル10部族を探求して
ついには京都の護王神社の見習い神官と
なったヨセフ・アイデルバーグ
(1985年没)は、日本語とヘブル語の
間に5000以上の類似語を見いだした。
その中の圧巻は、聖徳太子の「大化の改新」
の法律が旧約聖書の律法を定めたもので
あると指摘して一つ一つ比較対象している。



聖徳太子の謎




聖徳太子ほど謎に満ちた歴史上の
人物はいない。
厩の皇子誕生などその誕生から
イエス誕生との類似性。
仏教推進派、蘇我氏と神道推進派の
物部氏との宗教戦争、僅か49歳で
亡くなった早すぎるその死の謎、太子の子・
山背皇子(やましろのおうじ)等、
太子一族の皆殺し…。
太子一族虐殺は蘇我入鹿だが、
その黒幕とされる幸徳・天智・天武天皇らが
後、仏教の国教化を推進した。
哲学者の梅原猛氏は「法隆寺は
聖徳太子一族の怨霊を鎮めるためであった」
との説を唱えている。
また、この法隆寺が建てられた地は、
元々、聖徳太子の住居でありその地に
斑鳩宮(いかるがのみや)があったのだが、
この斑鳩宮は643年に火事で消失した。
ところが不思議なことに最近の調査で
その地に鳥居があった痕跡が発見された。
また、聖徳太子が建立したという
四天王寺にも鳥居がある。
聖徳太子は蘇我一族の係累とされ
日本仏教の祖と祭り上げられているが、
そこには重大な歴史の隠蔽工作が
為されたようだ。
太子一族の怨霊を鎮めるため天武天皇が
法隆寺を再建、「日本書紀」を改竄し、
聖徳太子を仏教の最大の功労者と
祭上げたのではないかと考える
学者たちがでてきた。

平安京を造ったといわれる渡来人の秦一族。
秦氏こそが失われたイスラエル十部族の
グループではないかと多くのユダヤ人
渡来説研究家が唱えている。
秦氏は古神道と基督教を融合させ独自の
神道を日本に定着させたとみられる。
聖徳太子は自分の分身ともいうべき
参謀として有名な秦河勝(はたかわかつ)
に太秦寺(うずまさてら・広隆寺)を
作らせた。
太秦寺(たいしんじ)ともいう
この言葉は中国、唐の時代栄えた景教
(東方基督教・ネストリウス派基督教・
中国語で光の信仰の意)の
教会のことである。
古代山背(やましろ)王国を支配した
秦氏が自分たちの氏寺として建立した
木島神社(このしま)や
大酒神社(おおさけ)の太秦明神などに
不思議な三柱鳥居(みはしら)がある。
日本で一番多い神社は八幡神社で
その総本社が大分県にある
宇佐八幡宮である。
宇佐八幡宮の3宮司も秦氏であった。
宇佐地方は秦氏が京都に移住する前の
居住地だった。
宇佐八幡宮が祀っている応神天皇が、
そも渡来人であった。
その渡来人、応神天皇が日々拝んでいた
神とは何だったのだろうか?
八幡という字は「ヤハタ」と読める。
この「ヤハタ」という言葉はアラム・
ヘブライ語の「ヤハダ」から
転化したもので「ヤハダ」とは
「ユダヤ」を意味する。

福原の言ではないが、例を上げれば
キリがない程、両民族の間には類似点が
多過ぎる。
北原も福原の書斎にあったユダヤ関連本を
改めて読みなおして日ユ同祖論は信じても
良い様な気持ちになっていた。

それにしてもこの世の中には如何に
”タブー“や”欺瞞“が多いことよ…。
と今更ながら思った。
北原は自分が新聞という文字、情報を
提供する立場にあることから文字、
情報が持つ“魔力的な力”を実感していた。
この力を莫大な富と権力を握った者が
行使しないわけがない。
大昔から村々の国々の権力者は文字を
情報を支配し、大衆をコントロールしてきた。
そして今や世界のスーパーパワーを掌握した
権力者が人々に暗示をかけ洗脳し
マトリックスの世界に誘導している。
世に公的歴史書は数限りなくあるが
それらの殆どはその時々の勝者が
都合の良いように書いた作文である。
歴史の真実は重層的に際限なく断片的な
きらめきを見せながらおぼろに消えてゆく。
言葉や文字は天から与えられたものであるが
時に人間を天国へも地獄へも誘う。
ひょっとすれば人間は“文字と言葉”
という魔物のパンドラの箱を開けた時から
精神の崩壊が兆し始めたのだろうか…。
その魔物は今日、コンピュータ世界が
生み出したバーチャルワールドを
嬉々として飛翔している。
その果てに待ち受ける人類の
カタストロフィーと暗黒の夜を
撒き散らしながら…。





南米でガス田開発を目論む92歳の蛭子翁






阿蘇高原の爽やかな風とロマンあふれる
古代史探求を趣味としている気の置けない
彼らとの触れ合いの中で徐々に
北原と優子の枯渇していた気力に新たな
活力が戻ってきた。
福原は三原のほかに当地の大地主、
90歳を超えて尚、海外を飛び回っている
という蛭子亮平を北原に紹介した。
福原の車で蛭子の家を訪れた
北原は意外な気がした。
福原の話では、蛭子は大地主であると
同時に数々の事業を営み熊本市に数件の
マンションや不動産を所有し、
毎年10数億円の税金を払っているという
資産家である。 
大通りからそれて車はこんもりとした
森の小道に入った。
訪ねた家は土地こそ広いようだが
普通の古びた農家だった。
車を門の前の空き地に置いて二人は
敷地に入った 門から玄関までの通路には
砂利が敷かれている。
通路の左右の小さな菜園に家族で
食べる程度のトマトやナスがたわわに
実っている。
右横の畑の奥から長靴を履きつなぎの
作業服を着た小柄な老人が出て来た。 
玄関脇の土間に置いたソファーに
北原たちを誘い
「ご覧の通りのバカ親爺ですよ」と
開口一番、蛭子は言った。
蛭子は北原のことを福原から
よく聞いていたとみえていきなり
自分の生い立ちから経歴を訥々と話し始めた。
さらに部屋から若い頃の写真や自分が
書きとめてきたという関連書類を
持ち出して北原に見せた。
北原は初対面の自分にどうしてこんなに
打ち解けた話をするのか蛭子の真意が
よく分からなかった。
蛭子の饒舌は止まらなかった。
福原が蛭子のことを北原に紹介した時 
「北原さんを高く評価していますよ」
との話を思いだした。
蛭子は養子だった。
中国戦線に新聞記者として従軍したこと、
終戦後、米軍での通訳、貿易業、
メキシコでのオパール探し、
ブラジルでの金鉱探しなど破天荒な
経歴をもった人物だった。
話は先の大戦にまで及んだ。
「ルーズベルトは大変な日本人嫌いでね。
彼と会談した英国の
ロナルド・キャンベル大使はルーズベルト
から「劣等アジア人種」の“品種改良”
というとんでもない提案を受けたと
本国に宛てた書簡に書き残しています。
インド系あるいはユーラシア系と
アジア系を、さらにはヨーロッパ人と
アジア人種を交配させ、それによって
立派な文明をこの地に生み出していく、
ただ日本人は除外し もとの島々に
隔離して衰えさせる」とね。  
「日本軍はろくな武器も無い中で
なぜあれだけ立派な戦いをやれたのか。
それは結局トインビーが言うとおり
日本人はアジアの解放、有色人種の解放と
いう大義名分があったからやれたんだと
思いますよ。とにかく初めてシナに
行った時にはびっくりしたよ。
自分の目で見るまでは嘘だと
思っていたが天津の英租界の
ビクトリアパークなどの入り口に、
「犬とシナ人は入るべからず」と、
英語と漢文で書いてある。
それを見て腹が立ったね。 
人の家に土足で入り込んで来やがって
てめえらは朝からゴルフやパーティーに
遊びまわっていやがる。
シナ人や朝鮮人や日本人を朝から
こき使って傲然としている。
こいつらー、なめやがってと、カチン!
と頭に来ましたね」

確かに日本があの戦争をやらなかったら
世界は未だに白人支配のアパルトヘイトの
ままだっただろう。
大戦後もイギリスやオランダはもう一度
マレーやインドネシアに軍隊を送り込んで
再度制圧しょうとしていた。 
しかし同じ有色人種の日本人に白人が
簡単にやられるところを一度見た
アジアの人たちは
白人コンプレックスから解放された。

ホーチミンの決起は日本人が
簡単にフランス人をやっつけたところを
見たことから生れた。

「判事も検察官もすべて連合国軍による
極東裁判は戦勝国による
”集団リンチ”ですよ」と蛭子。
この勝者による集団リンチの中である
アメリカ人弁護士は
「原爆を作り、落とした側が、
落とされた側を“人道にそむいた”と
言って裁くのはおかしい」
ということを言った。
しかし、この発言は通訳されず
日本社会に伝わらなかった。 
また、大統領の対日宣戦を議会に求める
演説を熱烈に支持した下院議員
H・フィッシュは、後日「ハル ノート」
の存在を知って それを
「恥ずべき最後通牒」と批判した。
「これでは日本には自殺するか降伏するか、
さもなくば戦うか、という選択しか
残されていなかったはずだ」とー。

もし日本が「ハル ノート」をのんで
屈服したら日本が日露戦争以前に
戻るだけではない。
今日のアジア諸国も19世紀のままだろう。
相手はとっくに35年前から着々と
戦争の準備をしていたのだ。
日本がアメリカの真珠湾を攻撃したから
アメリカが立ち上がったなどという
単純なことではない。
東京裁判でもインドのパール判事は
アメリカの歴史家の言葉を引用して、
「ハル ノートのようなものを
突きつけられたらモナコ公国や
ルクセンブルグ大公国といった極小国でも
アメリカにホコを取って立ちあがっただろう」
とまで言った。

ハル ノートをアメリカにあてはめると
「アメリカは ハワイは当然のこと
西部のカリフォルニアやニューメキシコ、
テキサスなどもメキシコに返して、
東部13州に戻れ」ということに等しい。

「ヨーロッパからカナダ、アメリカ、
メキシコ、ペルー、ウルグアイと世界中を
歩きましたよ」
「日本は社会主義国ですよ。こんな国に
住んでいるとケツの毛まで抜かれて
しまいますよ」
「新聞を出すというのは大変ですよ。
一言一句記事に責任を持たなければ
なりませんからね」中国戦線に従軍記者
として派遣されていた蛭子は遠い昔を
思い出すように天井を見上げて
北原の苦労に理解を示した。

どうやら蛭子の世界行脚は持てる者の
悩みから海外に資産を移し蛭子家の財産を
守る一心から出たもののようだ。

「やっと見つけた国がカナダと南米の
ブラジルです」
「寒いのが苦手なので毎年、11月から
2月一杯、ブラジルに逃げていますよ」
ブラジルの日系2世の娘を
長男の嫁にもらっている。
当地では牧場と米作りを手広く
やっているらしい。

「パラグアイに行きますよ 
いろいろ教えて下さい」
今年も11月からブラジルに行くという
蛭子は12月、パラグアイ訪問を
北原に約した。
              (以下次号)








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