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2009.09.20 (Sun)

古代九州王朝説  

阿蘇へ 福原の迎賓館

古代九州王朝


福原の“迎賓館“は、阿蘇神社を
通り過ぎた町外れにあった。
築300年というその家はお社のような
大きな平屋で敷地が300坪程あり、
けやきの古木がうっそうと茂っている。
何でも昔、庄屋の家だったとかで北側に
5軒程民家がある他、
周囲は畑に囲まれている。
やや高台に建っているその家の縁側から
阿蘇5岳がパノラマ状に遠望出来る。

「素晴らしい所ですね~」
優子が感歎の声を上げる。
「イヤ~、例のバブルの末期頃に
買ったのですよ。買ったはいいが、
バブルが弾けて維持管理が大変ですよ」
別荘族の例にもれず、年の内
2、3週間程度しか家族で利用していない
という。
ただ、福原自身は一人で週末、
フラリと来るそうだ。
日頃の掃除などの管理は近所の
おばさんに頼んでいる。

「自分の家だと思って気ままに
使って下さい」 中は黒光りする大きな梁や
柱がその家の歴史を物語っている。
台所は今風の厨房セットが置かれ大きな
冷蔵庫には缶ビールや缶詰めが
コンパクトに詰め込まれていた。
自炊用具は一応すべて完備している。

「美味しい阿蘇米がそこに置いていますから
自由に使って下さい」
居間には掘り炬燵があった。

標高約700m、ここ阿蘇の冬は
結構厳しいようだ。
昔の家の間取りはゆったりととられている。
10数畳の部屋が3つ。
居間と台所の横に階段がある。
外から見ると平屋のようだったが、
中二階の部屋が2つある。
一つは福原の書斎になっており、
壁に作られた書棚にびっしりと様々な
書籍が並んでいた。
もう1つの部屋は国内外の珍しい骨とう品、
絵画が飾られている趣味の部屋になっている。

その夜、福原の車で家から15分程の町の
レストランに出かけた。

「面白い人物を紹介しますよ」と
地元の郷土史家をそのレストランに招いた。
熊本名物、馬刺料理を売り物にしている店で
三原久光という郷土史家に紹介された。
三原は白髪の70過ぎの如何にも
思慮深そうな眼を眼鏡の奥でしばたいていた。
その夜はとろけるような馬刺と
からしレンコンを肴に ビールと球磨焼酎で
北原の選挙談義を中心に歓談した。
北原のアルコールは付き合い程度しか
飲めなかったので専ら料理の方を味わった。

福原と三原はお互いの冗談で大笑いしながら
球磨焼酎を阿蘇の名水のお湯割りで
チビチビ盃を重ねながら気持ち良く
酔っていった。

お互いに気心が知れてくると三原が、
九州に古代王朝があった、という話を始めた。

「日本の正統の歴史では、完全に
無視されているのですが、1世紀前後から
7世紀始め頃迄、九州に王朝があったのです」
日本での文献は皆無だが、中国側の様々な
文献に明らかにその痕跡が記述されており、
近畿地方の大和朝廷と別に九州に王朝が
並立していたという。

つまり、隋や初期の唐朝の中国政権と
交渉したのは、半島や大陸との交易で
栄えていた九州太宰府の
『倭国』政権だったと主張する。

三原はさすが郷土史家だけあって様々な
中国側の「旧唐書」や「漢書」「後漢書」
など古文書の名前を挙げて説明したが
北原にはさっぱりなじみのない名前であった。

その「旧唐書」に『日本国』 は
倭国の別種なり、…或いは言う、
日本はもと小国、倭国の地を併せたりーと
記しているそうである。
三原が説くその倭国は北部九州と
中国地方西部を含む連合体だったようで
百余国に分れていたが中国の武帝が
衛氏朝鮮を滅ぼし、高句麗を建てるという
朝鮮半島の大事件が起こった
前二世紀終わりごろから、倭国にも大動乱が
起きて百余国が三十許国にまで
激減したという、 この大動乱がつまり、
古事記・日本書紀に記載されている
ニニギニミコトの天孫降臨
(てんそんこうりん)ではないか、
と三原は推測する。

すなわちニニギノミコトの天孫降臨によって、
倭国を代表する王朝が生まれたのではないか、
というわけだ。  
ニニギノミコトの天孫降臨が
前一世紀初めごろでニニギノミコトの
4代目にあたる「神武東侵」は、
一世紀初めごろだと断定している。

「この天孫降臨が実は曲者なんだよな。
一説によると、あの有名なイスラエルの
失われた10氏族だという説もある」と福原。

このトンデモ説なら北原も以前から
興味を持って調べて知っている。
この「失われた10氏族」とは、
ヤコブ(後にイスラエルと改名)の
12人の息子に起源を持つ
イスラエル12支族のうち、
10支族からなるイスラエル王国は、
アッシリア帝国によって前720年に
滅ぼされた。
このとき、アッシリアによって捕虜として
連行された10支族のその後の消息が
今日まで不明のままになっている。

つまり、日本人の先祖はシルクロードを
経て渡来したイスラエルの
「失われた十支族」の末裔ではないか
というものである。

イスラエルの失われた10部族 古来、
世界史の流れに大きな影響を与えてきた
イスラエル民族は紀元前1900年頃、
ヤコブを父祖として誕生した。
ヤコブは後に自分の名前を
イスラエルと改めた。
そのイスラエルに12人の息子がいた。
彼等12人の子孫が、それぞれイスラエルの
12部族となり、イスラエル人と
呼ばれるようになった。
そのイスラエル民族は紀元前10世紀、
カナンの地(イスラエルの土地の古名)で
ソロモン王の治世下、隆盛期を迎えた。
しかし、ソロモン王の死後、
イスラエル統一王国は南北に分裂。
北王国は「イスラエル(サマリヤ)」と
呼ばれ、南王国は「ユダ(ユダヤ)」と
呼ばれた。

今日、一般的に呼称する「ユダヤ人」とは、
この南王国の子孫をさす。
ただし「イスラエル人」と同義語でも
使われる。
その後、紀元前722年、
北王国イスラエルはアッシリヤ帝国に
征服される。
アッシリヤ帝国は北王国イスラエルの
10部族を捕囚としてアッシリヤ
(イラク北部)に連れ去った。
以降、彼等10部族は歴史の表舞台から
消え去った。




「古代九州王朝説」




「日本人のルーツはユダヤ人だ」、などと
馬刺を肴にして大いに盛り上がった
阿蘇一の宮のレストランを辞して北原夫妻と
福原はタクシーで築300年の
迎賓館へ戻った。
福原は自分の車を同レストランに残して
同夜は迎賓館に泊まった。
年間平均温度13度で高冷地野菜の
栽培を行っている一の宮町の迎賓館の朝は
爽やかだった。
カリカリのトーストに阿蘇高原牛から
絞ったミルクと香ばしいバター、
それにコーヒー、文句ない朝食だった。
40年ぶりの福原との再会だったが、
相変わらず飄々として、
とぼけた冗談をいう福原に何の違和感もなく
北原もくつろぎ、優子も笑い転げた。

「ここには阿蘇の神々が祀られている
阿蘇神社等がありますから
ゆっくり楽しんで下さい」
一の宮町は阿蘇カルデラ盆地
(東西25㎞、南北18㎞)の真中にあり
周囲28㎞の外輪山に囲まれている。
肥後一の宮の阿蘇神社の壮大な楼門は、
神社建築には珍しい二層屋根で、
見事な彫刻も施されて有名だ。

神武天皇の孫で阿蘇開発の祖神健磐龍命
(タケイワタツノミコト)をはじめ
12柱の神々を祭る 上宮は阿蘇火口に
あったとされ、現在の建物は江戸時代に
再建された。
境内には「願かけ石」や縁結びで有名な
「高砂の松」もあって人気だ。

「実は、三原さん同様、僕も古史古伝が
好きで時折、ここに隠って
調べているのですがね。どうも昨日も話に
出た失われたイスラエルの10部族が
ここ九州にやって来たのじゃないかと
信じてるんですよ」福原が真面目な顔をして
切り出した。

北原もこの日本人のルーツはユダヤ云々、
という話に興味を持って
以前調べたことがある。

「二階の書斎にそれらの関連の本が
ありますから良かったら自由に読んで下さい」
本好きの北原にとって、阿蘇の神話の地で
疲れを癒しながら古の荒ぶる神々の
エネルギーを受けられるなど
願ってもないことだった。

福原はタクシーを呼び昨日のレストランで
自分の車に乗り換え熊本に帰っていった。
熊本まで50キロ、約1時間の道程だ。

迎賓館には2台の自転車があった。
買い物はそれに乗って5分の所にある
コンビニで間に合った。
みじめな惨敗の後、夢の様な優雅な日々が
待っていた。

絶望的な暗い闇の中でもがき苦しみぬいた
人間だけが朝陽の持つ爆発的な活力、希望、
喜びを身体一杯感じ取ることが出来る。
暗闇は人が日々、死んで再生するための
必要不可欠な秘儀である。
砂漠の恐ろしい一神教の“ヤハウェ”を
頭上に掲げてシルクロードを旅して
来た人々も日本列島のたおやかな自然の
中で徐々にすべての生きとし生ける万物に
神の煌めきを見たのではなかろうか。
阿蘇草千里の高原にさやかに吹き渡る風、
揺れる可憐な草花、夫婦水入らずの
気ままな散歩、サイクリング…。
そして、書斎やテラスでの読書三昧…。

翌土曜日の午後、待ちかねたように福原が
熊本から車を飛ばしてやって来た。

「美味しい魚を持ってきましたよ。
これで一杯やりましょう」 魚釣りの好きな
福原はいつも自分でさばくのだと
言って器用に刺身にした。

やがて三原が地元の銘酒“阿蘇誉れ”を
1本下げてやって来た。
優子が野菜サラダや煮物など数品作り、
迎賓館での酒盛りが始まった。

「663年、朝鮮半島の権益を巡る一大決戦、
白村江(はくすきのえ)の戦いが
唐・新羅(しらぎ)連合軍対倭国
(九州王朝)・百済(くだら)連合軍の間で
勃発し、唐・新羅連合軍に敗れた百済は
滅亡し、新羅による朝鮮半島統一が
始まったのです。
この後、九州王朝は滅亡し、
近畿の大和朝廷が九州王朝を併合し
日本の支配権を手中にしました」
三原の説によるとそれまでの九州王朝は
朝鮮半島と頻繁に交易し様々な権益に
関わってきたという。

万葉集に謡われる歌の多くが、
九州王朝時代のものだ、とも三原は言う。
さらに、君が代についても筑紫の志賀島の
志賀海神社でお祭りの時の「山ほめ祭り」
の中でこう歌われている。

「君が代は、千代に八千代に、
さざれいしの、いわおとなりて、
こけのむすまで」と歌われている古歌だと
指摘する。

また、同様の歌詞は「古今集・巻七」に、
「題しらず、読人しらず」として、
「我君は千世に八千世にさゞれ石の巌と
なりて苔のむすまで」という歌が
記録されている。

古今集は平安時代、後醍醐天皇が905年、
紀貫之に作らせた「勅撰和歌集」である。
三原に言わせれば、「読み人知らず」とは
時の政権に都合の悪い名前の時、
「読み人知らず」とするのが
常套手段だという。 
九州各地では薩摩地方で歌われていた
「薩摩琵琶蓬莱」や、福岡・志賀島の神社の
「山ほめ祭り」の中で、「君が代」は
伝承されていた。

つまり、統一大和朝廷が九州王朝時代の
古謡をちゃっかり頂戴し、古今集に収録して
「読み人知らず」としたわけである。
 そして、明治政権の樹立と共に、
皮肉にも九州・薩摩出身の軍人によって、
「君が代」は発掘され、
近代日本の国歌となった。

そう言えば、北原もかって読んだ、
ある「万葉の謎」という本の中に
気になる歌があった。

舒明天皇、香具山に登りて望国(くにみ)し
たまふ時の御製歌 大和には 
群山(むらやま)あれど とりよろふ 
天(あめ)の香具山 登り立ち 国見をすれば 
国原(くにはら)は 煙(けぶり)立ち立つ 
海原(うなはら)は かもめ立ち立つ 
うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 
大和の国は
(万1-2)

この歌の舞台について九州王朝説を
となえる著名な作家は、この香具山は
別府に聳える鶴見山ではないか?と
疑問を呈している。
一般的な解釈としては、 ーここ大和には、
山がたくさん寄り集まっているが、
とりよろふ(語義未詳だが、
とりわけ優れている。拠り所とする)
天の香具山に登り、頂に立って領土を
見渡せば、人の住む広々とした平野には、
靄が立ちこめている。
広々とした海では、あちこちで
鴎が飛び立つ。
豊かなよい国だよ、蜻蛉島と呼ばれる、
日本の国はー。
となっているのだが、奈良にある香具山は
山というより丘で低過ぎる。
また、海原 とある奈良盆地は
洪積世末期から沖積世にかけて、
海湾→海水湖→淡水湖→盆地と変化し、
舒明天皇の頃(西暦七世紀)、
大和郡山あたりまではまだ
湿地帯だったので、これを海原と言った
(樋口清之説)。埴安の池など、
天の香具山周辺の池を言ったという説も
あるがこれも苦しい解釈だ。
いずれにしても丘のような低い奈良盆地の
香具山から海は見えない。

やはり海は海として別府湾の雄大な海に
鴎が飛交い、別府の村々に温泉の湯煙が
立ち上る様の方がはるかにピッタリくる。
豊後の国は昔、安萬(あま)と呼ばれており
仏の里として有名な国東半島の付け根に
安岐という地名が残っている。
また、鶴見岳の古名は香具山だった。

この歌が北原の故郷大分に関係した
歌だったので今でも良く覚えているのだが、
別府湾と言えば、大地震と津波によって
一夜にして海に沈没した瓜生島伝説がある。
それに関連する「豊陽古事談」や
「豊府紀聞」、「日本一鑑」にその伝説の
瓜生島の古地図も
それらの中に残されている 。
瓜生島が沈んだのは、いまよりちょうど
四百年余前の慶長元年(一五九 六)
といわれる。

瓜生島は府中(大分市)の西北三・三キロの
ところに あった。
東西三・九キロ、南北二・三キロ、
周囲十二キロの島であったという。
戸数は約千戸、多くの 船が各地から
出入りして活気があったという。
島には恵比寿神社や威徳 寺といった
大きな寺社もあった。
その被害者数は八百人前後と記録されている。
島の住人の大多数が犠牲となった。
このとき由布岳や対岸のサルで有名な
高崎山からの噴火があり、夥しい噴石が
別府 湾に降り注いだようだ。
対岸の陸地でも地震の被害は甚大で、
近くの 鶴見岳が崩落して谷を埋めたことも
記録されている。
火山活動を伴った直下型の地震と津波が
瓜生島周辺を直撃したという
ことになるのだが、これと同時期に
京都や近畿で大地震が発生している。
こちらでは余震が数カ月間も続き、
豊臣秀吉の居城であった伏見城でも建物が
倒壊し六百余人、堺でも六百余人 の
圧死者が出ているから、西日本全体に及ぶ
大災害であったことになる。

この瓜生島は元々、「沖ノ浜」と
呼ばれていたもので、戦国時代の
中国 鄭舜功(ていしゅんこう)や、
ポルトガルの宣教師である
ルイス・フロイスなどが、
この海中に没した豊後の島のことを
書いている。
フロイスがイエズス会への報告書簡の中に
「日本において1596年に起こった
いくつかの奇跡の概説」
として記録に残っている。  
それは「豊後の国について」と題されており、
地震の際”オキノファマ”などに約4mの
津波が押し寄せ、海岸から約2㎞に渡って
浸水の被害を受けたと書かれている。
フロイスは1563年に来日した後、
日本で暮らし、1597年に
長崎で亡くなった。

北原は、小中学校時代、大分港に
よく泳ぎに行った。
北原の家は国鉄の大分駅前にあったのだが、
そこから港がある春日浦まで
小1時間の道を友達と
テクテク歩いて行った。
当時、港の付け根に古鉄置き場があり
そこに零戦の残骸が無造作に積まれていた。
その零戦の風防ガラスの破片を
宝物のように大事にした。
と言うのは、それをこすると
実にいい匂いがするのだった。
港で存分に泳いだ帰途、春日神社の
境内中に木霊する蝉の鳴き声の大合唱を
聞きながら木陰に置かれた涼み台で
アイスキャンデーやかき氷を食べるのが
楽しみであった。

その大分港内に奇妙な中州というか、
小さな水没島があった。
この港には赤灯台、白灯台があり
船の入出港の合間を縫って両灯台間を
泳いで往復するのが常だった。
その港内の丁度中央部当りに、時折、
背が届く程の小さな中州が出来た。
子供の背が届く程の中州のような島が
多くの船が出入りする港内にあるのも
不思議なことであった。
今にして思えば、その水没島が
現れたのは大潮の時だったのであろうか…?  
              (以下次号)






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