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2009.09.04 (Fri)

脱ニッポン  日系オバマを  主戦場日本

主戦場日本、大分・愛知・東京


大分の選挙カーは昨夜、東京事務所から
フェリーと陸路を乗り継いで大分事務所に
到着していた。
6月30日、大分事務所を取り仕切っている
優子が泊まっているホテルに北原が
着いたのは夜11時過ぎだった。

さすがタフが売り物の北原も疲労の色を
隠せなかった。
翌7月1日、午前9時半から大分事務所の
出陣式だ。
この出陣式には大分選挙区の
広田としや候補応援のため帰省していた
佐藤博子参議も出席した。
また、北原の選挙事務所から300mと
離れていない広田としや選挙事務所の
スタッフも駆け付けた。
広田事務所は北原の事務所と比べ物に
ならない程広く大通りに面しており
駐車スペースには軽く
40~50台程度駐車出来る。
建物はプレハブだが選挙スタッフは
20人程度が常駐している。

この場所は、過去2回、公民党候補が
使用した非常に便利の良い
選挙事務所用地だが、2度にわたり
連敗しているので世上、ジンクス的に
「どうかな?」と首をひねる人が多かった。

東京選挙区の黒川信男候補の応援演説に
狩出された時、北原は所詮、俺たちは
「刺身のつま」だと自嘲した。

また、選挙区候補者の事務所規模などを
目のあたりにすると一層、その思いが
強くなった。
本来なら大分選挙区の広田候補と
北原は同じ出身県同士、二人三脚で県内を
共闘すれば相乗効果で票数も伸びる筈だが、
公民党比例区公認候補者33人の中の
1人だけ特別扱いに出来ないとの党本部の
方針なのか、大分県連の扱いも33人の
中の1人に過ぎないという扱いだった。

つまり、比例区候補者のライバルは
他の政党候補者ではなく、同じ公民党内の
候補者たちだった。
さらに大分では、政権与党の天明党との
選挙協力があり、選挙区は公民党、
比例区は天明党に投票するとの
取り決めがされていた。

また、比例区候補者33名のバックに
ついている各種支援団体の突き上げも
あって地元候補者を特別扱いに
できないのではないか、とも思われた。

事実、大分文化センターでの
広田としや候補の総決起大会に
比例区候補者も例によって
30秒アピールをすることになった時、
7~8人の比例区代表が壇上から挨拶した。
北原を除いて全員が地元の支援団体の
代理人が壇上に上がって挨拶を行った。
会場にはそれぞれの支援団体が
気勢を上げていた。

北原の応援団は中学、高校、元職場の同窓生、
同僚たちに過ぎなかったが、
一番気合いの入ったエールを送っていた。

北原の公民党公認が一旦、30人で
閉め切られた後の滑り込み
公認だったこともあり、公民党大分県連は
既に比例区候補者30人に
それぞれ同党県会議員、市会議員の
担当割り振りを済ませていた。

北原が初めて県連に挨拶に行った時、
「今頃、来ても遅いよ」と憮然とした
表情で事務局長が言った。
勿論、その後、おざなりに担当県議、
市議を割り当ててくれはしたが、
彼等は掛け持ち担当なので全く、
北原の応援には無関心だった。

以後、大分での戦いは全く個人ベースでの
戦いを余儀なくされた。

安藤幹事長が広田としや候補者の
応援演説に着た時、佐藤博子参議が
選挙カー脇でウロウロしている北原を
選挙カー上に上げるように関係者らと
話したが結局駄目だった。

地元支援団体を動員しての総決起大会だから
県連も彼等に遠慮して
だめ押しをしたのだろう。
止むなく北原は大会が終わった時に
支援者たちが公園の外に出て来る
一番目立つ場所に陣取り、
「安藤幹事長ご苦労さまです。
比例区候補者ジロウ北原です!」
自分の選挙カーのマイクを手に大声で
挨拶をした。

北原は、(俺だけが比例区候補者唯一の
地元候補者なのに、何故、
共闘できないのか…)、と
何とも虚しい気持ちに襲われた。

この共闘という意味は、公示前、
選挙区候補者は県内各地で集会や
決起大会をあちこちで開催する。
その時、同行させてもらい、せめて壇上で
1分間演説でも出来れば選挙区は広田候補、
比例区はジロウ北原とワンセットで名前を
覚えてもらえるわけだ。

地元での選挙戦で最後迄釈然としない
思いが残った。

ここ何回かの選挙区選挙で大分は
民政党に負けている。
大分は伝統的に労組勢力が強い地域だ。

北原がホテルと事務所を往復する際に
タクシーの運転手に話を聞くと今回の選挙は
「公民党にお灸をすえる」などと公民党に
逆風が吹いていた。

これは大泉総理の「人生いろいろ…」などの
発言にみられるやや荒っぽい発言等も
マイナス評価になっているようだった。

広田としや候補の民政党の対立候補は
大分鶴雄高校の北原の後輩だった。
北原の同窓生たちも選挙区は民政党、
比例は「お前…」という具合に
ねじれ現象が起きていた。
民政党候補は今回の候補者を入れて
3人とも北原の後輩たちで全員当選している。

大分市を代表する進学高校は歴史の古い
大分清泉高校と戦後創立された
鶴雄高校の2校である。

しかし、ここ立て続けに鶴雄高校の
OBばかりが政界に出ているので
「また、鶴雄高か…」と、
やや白けムードも一部にはあったようだ。

7月1日、出陣式の後、選挙カーに
乗り込んだのは、優子、
世界緑化協会熊本支部の工藤泰治、
ブラジル帰りの田中貞造と夫人の恵美子。
運転手は、世界緑化協会の首藤一郎。
さらに以前、パラグアイに
JICA派遣専門家として赴任していた
後藤俊二夫妻がマイカーで伴走する。
北原は運転手横の助手席が定番だ。
佐藤参議が「ウグイス嬢は?」と
不審そうに聞く。
「カセットテープに録音しています」
経費節減のため東京で録音したものだ。
そのテープをかけていざ出陣。

初めて北原もその録音テープを
聞いたのだが(さすが、プロ、美声、
うまいものだ)と感心する。

「日本に勇気と活力を!
海外からの新しい風、ジロウ北原、
ジロウ北原!」広田としや事務所前、
「広田候補の検討を祈ります!」
マイクを握って広田事務所に
エールを送って手を振る。
同事務所スタッフが飛び出して
一斉に手を振る。

大分メインストリートの繁華街を走り
大分駅前に向かう。
大分第1日目は出発が遅かった事から
近郊団地を重点的に回る。

 北原はパラグアイに移住する
35歳までの数年間、山林買収交渉から
宅地建売り分譲で駈けずり回っていたので
近郊の団地群は詳しかった。

それらの団地は今、歩道や生け垣の
樹木も成長し、しっとりと落ち着いた
町並みを形成していた。
昼下がりの団地は人通りが全くなく
閑散としている。
中には赤ちゃんを寝かし付けている家庭も
あるだろうからあまりボリュームを
上げられず手ごたえがない。

「唯一の地元大分市出身の
公民党比例区代表候補ジロウ北原!
大分と世界を結ぶ海外日本人代表
ジロウ北原!」

地方で海外日系人や世界情勢のこと、
食糧危機問題などアピールしても
全然意味がない。
地方での選挙公約はやはり地元の問題に
限定しないと全く関心を示さない。

大分で一番苦慮したのが何を訴えるか
ということだった。 この点が東京などの
大都市と地方意識のギャップだ。

日本帰国後、初の大分での選挙カーによる
遊説は比較的静かにスタートした。

大分での遊説予定は7月1日から4日迄の
4日間しかなかったので、県北は外し、
臼杵、津久見、佐伯等の海岸沿い、
それに竹田市、湯布院、別府、日出、
杵築方面を重点的に回った。

北原は大分駅前が出生地だが中学2年の時、
城崎町に転居した。
城崎町は大分県庁、大分城址公園に
隣接しており、中心街まで歩いても
15分とかからない閑静な住宅地であった。
自宅から歩いて15分の碩田中学へ通った。
北原は当地で20年以上過ごした。

当住宅地での遊説はまさに
SENTIMENTAL CAN´VASS
(センチメンタル遊説)となった。

当時、中学校男子が昼休みにすることと
いえば校庭で円陣を作って相撲をとるのが
毎日の日課だった。
また、鉄棒も流行った。
蹴上がりや大車輪などをきれいに
出来る生徒はクラスの花形だった。
北原は相撲のランクはクラスで3本の指に
入る程強かった。
右4つで組んだ北原は下手投げで
崩した相手を2枚蹴りで仕留めるのが
得意技だった。
この技は百発百中の必殺技だった。
鉄棒の大車輪は鉄棒の回りを
ぐるぐる大回転する大技でクラスでも
2~3名程度しか出来なかった。
北原はこれも得意だった。

ある日、その北原が鉄棒の上に座って
後ろ向きに倒れ両膝を鉄棒に「く」の字に
引っ掛けてクルリと地面に立とうとした時、
失敗して顔面を地面にぶっ突け、額、
鼻の頭、唇、顎をベロリ、すりむいて
数週間みっともない顔になり恥かしい
思いをした事がある。

3年生になった時、北原はサッカー部を
作りキャプテンとなって市大会に
出たりしたが、余り強くはなかった。

その中学校は市内で唯一、
ラグビー同好会があったのでサッカー部と
掛け持ちでラグビーもやった。

北原がラグビーに興味を持ったのは
小学校低学年の頃、近所の高校生たちが
「清水さんは2~3人を引きずって
トライしたんだよ~」と畏敬の念を込めて
話しているのを聞いて男らしいスポーツだな、
と心に刻み込まれていたことが大きい。

「城崎町の皆様、この町の住民として
20数年過ごしたジロウ北原が
ふるさとの皆様に恩返しするため
南米から戻って参りました」

その町の一角にニキビ華やかなりし
中学生の北原が胸をときめかした
初恋の女の子の家があった。
彼女は1学年下の首の長い
ほっそりとした娘だった。

いつも首を前に傾げながら歩く姿が
何とも優雅さを醸しだしていた。
当時、ハリウッド映画の人気女優だった
ジェニファー・ジョーンズに
似ている娘だった。
用事もないのに友達と別棟二階の
2年生の彼女の教室前を通り過ぎたり、
下校時、彼女の家まで後をつけて行ったり、
コッソリ写真を撮ったりして喜んでいた。
今ならストーカー行為で問題になっただろう。
大らかな時代だった。

中学時代、何度か友達に頼んで
ラブレターを渡したこともあったが、
返事をもらったことはない。
お互いが高校に進学した時、北原は
進学校に入り彼女は商業高校に入った。
高校生になった北原はラグビー部に入って
毎夕遅く迄泥だらけになって
練習に明け暮れていた。
練習が休みの日曜日、やっと彼女と
ささやかな交際が出来るようになった。
町の喫茶店で初デートの約束を取り付けた
北原は踊り出したい様な喜びに包まれた。
やがて時々、洋画を2人で観に行ったり
するようになった。

しかし、北原が東京の大学に進んで
彼女とは何となく縁遠くなってしまった。
無骨な男の子の初恋は手も握れない
誠に不器用なプラトニックラブに
金縛りになった
自己陶酔ワンダーランドだった。

社会人になった北原が初めて秋桜に
心惹かれたのは会社の慰安バス旅行で
蓼科高原に行った時であった。
風にそよぐ秋桜にふっと少年時代の
淡い思い出が蘇ってきた
あの秋色の風の中で年がいもなく
心ときめいて以来、コスモスは
北原のお気に入りの花となった。

彼女の家は今でも前の住所にあった。
今は住んでもいないだろうその家周辺に
差し掛かった時、北原は当時の彼女の
面影を偲びながら
「ジロウ北原が皆様にご挨拶に参りました」
と大声を張り上げた。


野生猿で有名な高崎山裏、山村の小道を
遊説中、小雨が煙る農家の生け垣に
アジサイの紫の花が鮮烈に目に入った。
日本を支えているのは東京や大阪などの
大都会ではない、こういう名も知れぬ
田舎の素朴な人々だと
北原はしみじみ思った。

かってパラグアイに赴任している
青年海外協力隊の青年と歓談した時、
偶々、日本人のモノ作りの素晴らしさに
話が及んだ。

自動車にしろ家電製品にしろ世界の
トップ製品をメイドインジャパンが
占めている。
「どうして日本人はこんなに
素晴らしいモノを作る事が
できるのでしょうか?」と
隊員がポツリと呟いた。
同席していたAさんが、
大企業が下請けに発注する時、
徹底して細部までこだわり抜く
大企業勤務時の体験談を話した。

北原は、飛鳥、奈良、平安の昔から
日本人が素晴らしい神社、仏閣建築を
建立してきた歴史を上げ、太古からの
モノ作りのDNAが連綿として
受け継がれてきたのではないか…、
と述べた。

そう語った後も、これは真の答ではない、
というわだかまりがいつまでも
つきまとっていた。
小雨に煙る中に咲き誇る鮮やかな
紫色のアジサイを眺めていると
得も言えぬ安らぎを覚えた。

そうか!この優しい自然が日本人の
DNAを育んできたのだ、と豁然と悟った。
長い長い日本の歴史の中、
無数の外国人が日本列島に流れ込んで来た。
彼等はこの世界でも希有のメリハリの
きいた四季の移ろい…、優しい日本の
自然風土に癒されながら段々「日本人」に
なっていったのであろう。

南米の荒涼とした乾ききった自然風土で
カラカラに乾いた心身が徐々に
融けるのを北原は感じた。

北原は戦争中、高崎山近在の親戚の家に
母親らと疎開した。
父親は大分市内に残って仕事をしていた。
あれは終戦前だから4歳か
5歳頃だっただろうか、親戚の家に
行くため朝、一人でトボトボ峠道を
歩いて行く途中、道端に朝露に濡れた
真っ赤な椿の花が目に止まった。
なぜかその美しさに惹かれて
近寄って赤い花びらを見つめた。
真っ赤な花弁に朝陽にキラキラ輝く
小さな水晶のような露が宿っていた。

幼い彼は金縛りにあったように
いつまでもその赤い花と朝露に見入った。
その神秘的な鮮烈な印象は、
大人になって後、何十年経っても
鮮やかに蘇ってくる。
あれが自然の中に生命(いのち)を見た
初体験だったのであろう。
その体験以降、椿の赤い花は、
薔薇やコスモスと並ぶ好きな花
ベスト3となった。

まさに故郷大分での遊説は
自然回帰の旅となった。

投票日まで一週間を切った5日、
北原は優子と2人、次の重点選挙区
愛知県に向かった。
大分空港発午前9時15分。
大分で使った選挙カーは大分選挙事務所の
近藤秀雄事務局長が前日、別府から
深夜フェリーで名古屋港へと向かった。
近藤がその選挙カーで
名古屋空港に迎えに来た。

近藤が運転する選挙カーで
三河安城へ向かった。
そこに世界緑化協会愛知県支部の
担当者が待機しており、近藤は運転を
バトンタッチして大分へとんぼ返りした。

国政選挙の候補者には中央選管からJRと
国内飛行機便の無料券が交付される。
つまり、選挙期間中、乗り放題というわけだ。
これを使って候補者だけでなく
選挙事務所のスタッフも全国を飛び回る。

但し、北原の海外遊説は日本の
選挙史上初めてのケースで想定外だったから
勿論自費であった。

三河安城では、世界緑化協会会員企業を
重点的に訪問する。
最初、訪問した会社では、社員教育が
行き届いているようで社長が社員全員を
社屋前に整列させた。
北原は彼等の前で持論を滔々と展開した。

当初から愛知県は、重点選挙区として
北原は考えてきた。

彼は長年、世界日系新聞協会の年次大会、
世界日系人大会等の参加を通じて内外の
様々な日系人問題に触れてきた。

その解決に心を痛めてきた彼は、
日本国内の日系就労者が抱える問題に
知らん振りは出来なかった。
1980年代後半から日本への
出稼ぎブームが始まった。
今、日本で就労している日系人は
約35万人(日本人1世、
二重国籍者数は不明)と言われている。
中でもトヨタに代表される
自動車関連企業が集結している
愛知県は特に多い。

世界は今や労働力の国際的移動時代に
入ってきた。ヨーロッパは勿論、
アメリカ大陸はアメリカ大陸で、
アジアはアジアで労働力送りだしと
同時に受け入れ、という重層的な
労働人口の流出入現象が起きている。

日本は江戸時代以降、
鎖国政策をとってきたし、単一民族の
島国で外国人受け入れは馴染まない。
ーとする、かってのような
日本特殊論は成立しない。
外国人労働者なくして日本の3Kの仕事、
製造業は支えられない。
急速な少子高齢化時代に突入した今日、
外国人の受け入れの是非は日本の根底の
重要な問題となっている。

さらに憂慮すべき日本の問題として、
先進国中最低の日本の
食糧自給率が上げられる。
世界の食糧生産基地たる南米と日本を結ぶ
非常時の食糧安保体制の構築とともに、
日系人(外国人労働者)就労者問題は
北原の最重要の政策提言だった。

これらの問題は、今回の立候補者の中で
海外日本人代表の北原にしか
出来ないことだった。

北原はかねてより、日系人を日本に
スムーズに受け入れ、彼等との共存の仕方を
学習する必要があると主張してきた。

日本と外国、両方の文化、習慣を
理解出来る彼等と向き合うことによって
ホントの外国人労働者を受け入れる
心構えと法体制などを構築出来るわけだ。

しかし、日本は当初から今に至るまで、
すべての面であいまいなまま
外国人労働者を景気の安全弁として
好況時には増大し、
不況時に縮小してきた。
企業や地元社会と日系就労者との
摩擦は絶えない。
勿論、柔軟な政策をとり彼等と
共存共栄している地方行政もあるが、
頭から毛嫌いして「嫌なら南米に帰れ!」と
暴言を吐く首長もいる。

地元の地域社会も文化習慣の異なる
国からきた「ガイコクジン」に秩序安寧を
犯されて対応に苦慮している。
また、日系就労者側も差別的な就労条件、
雇用不安、子供達の教育問題などを
抱えている。

日本の人口は、かつて1900年に
4300万人だった、100年で3倍の
約1億2700万人になった。
その間、日本の経済力は80年を
ピークに飛躍的に拡大し、成長した。

しかし、バブルは弾け、
日本は少子高齢化問題という未曾有の
危機を迎えている。

「子供の割合、30年連続で低下」(朝日)
子供は減り続け、超高齢化社会が
年々進行する。
2014年には25%台に達し、
日本人口の4人に1人が65歳以上
人口となる。
2050年には、35・7%の水準に達する。
すなわち2・8人に1人が65歳以上人口と
なるものとみられる。
日本の人口は2006年にピークを迎え、
その後、減少に転じる。
従って今後、日本は好むと好まざるに
関わらず何らかの形で外国人を
受け入れなければならないだろう。

現実は既に外国人労働者が
日本国内に定着し、日本社会の一部を
構成しているのである。
日本はこれまでまともに向き合って
こなかった外国人問題にいつまでも
目をつぶっていられない。
確かに外国人が地域社会に入り込むように
なって日本人は大きく戸惑っている。

「日本語を真面目に勉強しようとしない」
「外国人ばかりで固まる」
「地域に溶け込もうとしない」
「気味が悪い」等々…。

これらはすべて日本人移民が海外に出て
体験した逆現象である。
日本は、かって棄民として蔑み、
切り捨ててきた海外の日系移住社会から
学ぶ必要がある。

その日は、豊田市の北東部にある勘八山の
中腹にある世界緑化協会中部
日本研修センターに優子と泊まった。
当センターは、「国際村」計画の一環として
市から誘致を受け、
昭和61年(1986年)10月、
西尾市から当地に移転した。
海外からの研修生も100名程度収容出来、
訪問者の宿泊施設も完備している。
当日もアジアから数十名の研修生が
入所していた。
当夜の夕食も北原と優子は彼等研修生達と
一緒に食べた。
夕食後、サロンに近辺の
世界緑化協会支援者が数十名集まって
話をすることが出来た。

7月6日(火)朝、北原は
「よかったら?」と所長に誘われて
玄関前に行った。
既に研修生と職員たちは、
玄関前のグランドに集結しており、
やがて体操、各国の国旗掲揚、
朝礼が行われた。
職員の日頃の指導の成果だろう、
キビキビした研修生たちの行動は
気持ちのいいものだった。
午前8時、当センターを辞し、
豊田市近郊の世界緑化協会支援企業を
次々訪問した。 養鶏工場、部品工場等々…。

自動車の部品製造会社では丁度、
昼食時間に重なり男性工員の方達が
続々食堂に集まって来た。
みんな黙々と食事をしている。
「食事しながら耳だけはこちらに
向けて聞いてくれ…」、食事中の皆に
社長が北原を紹介する。
クタクタに疲れているように見える
彼等は食事が終わると食堂脇の畳敷きの
休憩所でゴロンと横になったりテーブルに
うつ伏せたりしている。
現場で油まみれになって1分でも身体を
休ませようとしている
彼等に美辞麗句は空々しい。

「南米から立候補している風変わりな奴が
いたな…」といった感じで「ジロウ北原」と
いう名前だけでも覚えてもらえれば上出来だ。

昼休みが3時間もあるシェスタ(昼休み)の
話や強い円を持っていれば悠々自適の生活が
出来ること、
「グラマラスな美女が多いんですよ」など
他愛のない楽しい夢のある話をした。

休憩時間が終わって職場に戻る中の数人が、
「お金を貯めて南米に行きますよ。
頑張って下さい!」と握手を求めてきた。
次に訪問した豊橋の会社では、午後、
就業時間中にも拘わらず副社長が
従業員全員を社屋前に集めた。
南米から来ている人も何人かいるようだ。
昨今、事業所の従業員は
全員強制加入となった 厚生年金保険に
ついて北原は話したかったが、
わずかな時間で固い話をしても
意を尽くせない。
ここでも柔らかく漫談調を交えて
何故南米からわざわざ立候補したのか
分かりやすく説明した。
あとはひたすら「お仕事御苦労様です!」と
握手、握手。

南米からの出稼ぎの人達は、
従来、2、3年で帰国する積もりで
来日しているので厚生年金には
殆ど入っていなかった。
また、雇用主側も負担が軽減出来るので
敢えて加入を勧めてこなかった。
全員強制加入になったことは両者にとって
かなり厳しい問題だった。
従って北原は、海外からの就労者は
任意加入にして民間の共済保険などに
加入するように柔軟な政策が
必要だと考えている。
             (以下次号)





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