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2009.07.23 (Thu)

脱ニッポン…  日系オバマを!!

編集長倒れる!


北原は心臓をグシャッと大きな手で掴まれたように
鼓動がドキドキしてきた。
もともと身体の余り強くない宮崎編集長は、
年中パラグアイの薬草を煎じて飲んでいるのだが、
1、2年に一度倒れ病院に緊急入院する。
彼は北原より4歳下だから56歳になる。
しかし、この時は、嫌な予感がした。

懐具合が枯渇してきたのと大分での活動に限界を
感じていた北原はここらが切り上げ時だと覚悟を決めた。
愛知県からの呼びかけも一つの転機にもなった。

愛知県の人材派遣業者から南米就労者の直面している
様々な問題に力を貸して欲しいという要請がきたので
愛知県に選挙区を転出するとのハガキを
内外の支援者に郵送した。

事務所を閉める3日前、地元のラジオ番組の
ディスクジョキーにゲストとして招かれ
パラグアイの事をリクエスト曲の合間にしゃべる
というものだ。
これは大分KBS放送に務めている高校時代の
ラグビー部の同級生が話をまとめたものだった。

事前にディレクターが「向こうのサッカーの話で
盛り上げたら如何ですかね。ゴールキーパーの
チラベルトは日本でも結構知られていますから…」
「いいですよ」と生返事したものの、
この日の北原はどうにも気分が落ち込んでいた。

何しろ戦陣の撤退というぶざまな状況だから
意気が上がる筈もない。

若い男性アナウンサーとのサッカーの話は
何とかこなしたものの、女性アナウンサーが
パラグアイの学校教育のことに触れてきた。
日本は7月末、夏休み中である。

「パラグアイの子供たちの主な遊びって
どんなものですか?」
「サッカーですね。暇さえあれば一日中サッカーに
興じていますよ」
「塾とかピアノ等習い事には行かないのですか?」
「塾とかないですよ。子供たちは一日中気ままに
遊んでいますよ」
北原は自分の子供時代とだぶらせながら伸び伸びとした
子供たちの生活振りを話した。

「子供たちにはきちんとした規律が必要では
ないでしょうか?それじゃー、遅れますね~」
だから後進国なのだ、という侮蔑の響きが
彼女の言葉のなかにあからさまに秘められていた。
(お前らのような教育ママ的な親が蔓延するから
日本は息苦しくなって窒息死するんだよ!)。
いつの間にか、こんな価値観を持つ奴らが社会の主流を
占めていることに北原は改めて再認識し、愕然とした。
気持ちが一気に萎えた。

「やはり、自分は浦島太郎なんだ…」、
と鉛を咬んだときのような
苦味が口中に広がり胃がキリリと痛んだ。



パラグアイに急遽、帰国


大分の事務所を整理した北原は、8月、
パラグアイに帰国した。

事務机、ソファー、冷蔵庫等備品等は次の
再挑戦のために運送会社のレンタル倉庫に
保管してもらった。

パラグアイの8月は冬である。
バウチスタ病院に宮崎編集長を見舞った。

やせぎすの宮崎が更に頬がこけていた。
病名は肝臓ガンである。

「迷惑をかけてすみません…」
弱々しい声で北原に頭を下げた。
横でパラグアイ人の奥さんが所在無げに座っていた。
彼女とは恋愛結婚であった。
恋人時代が長くて結婚式をあげたのは
彼が40代半ばの遅い結婚だった。
子供は立て続けに3人生まれた。

「よぼよぼ爺さんになるまで働き続けなければ
ならないね」友人たちはそんな心配をしていた。
彼が中々結婚に踏み切れなかったのは、
彼の兄夫婦の生活が影響しているのではないかと
北原は考えていた。
アルゼンチン人と結婚した彼の兄はうまくいかなかった。
自己主張の強いアルゼンチン人の女性との生活は
誰がみてもうまくいきそうになかった。
彼の兄は結局離婚し日本人の女性と再婚した。

彼は入退院をくりかえしながら徐々に弱っていった。
自宅に見舞った時、腹水が溜りはじめたお腹を
なぜながらヤカンで煮出したアガリクスを飲んでいた。
ブラジルのアガリクスがガンに効くということで
本人も知人に頼んで取り寄せ、また北原も
サンパウロから取り寄せて渡していた。

「生命線がこんなに長いからきっと治ると思いますよ」
見舞に行ったある日、彼は、自分の左掌を見せて
自分に言い聞かせるように呟いた。

途中で日本に住んでいる彼の姉が
「日本で手術を受けさせたい」ということで
飛行機の手配もしかけたのだが、
飛行に耐えられないほど衰弱していたので
日本行きは中止になった。

パラグアイの夏2月、彼は病院で息を引き取った。
享年59歳だった。

元々病気がちの宮崎だったが、北原の長い不在が
彼の命を縮めたのかもしれない、と
北原は申し訳ない気持ちで一杯になった。

宮崎が亡くなって哀れだったのは残された
パラグアイ人の妻と14歳の長女と
10歳の男の子たちだった。

北原は宮崎の遺族に日系弁護士を仲介にたてて
退職弔意金を4年間、毎月分割して払うことにした。
というのは、一般的にパラグアイ人は一時に大金が
手もとに入ると一遍に乱費してしまうという
習癖があった。
また、彼女にその気持ちはなくても回りの親族たちが
事後のゴタゴタを引き起こすという例が多いので
弁護士をいれてきちんと手続きをした。
月づき生活費の足しになるような形で4年としたが、
これは長女が学校を出て働いて母親の手助けが
出来る迄という含みを持っていた。

それに彼女は、まだ30代半ばと若く金髪で
ちょっとした美人ということも北原をより慎重にさせた。

宮崎が亡くなってから毎月末、優子が宮崎の家に
その生活費を届けた。

数カ月を経た頃、優子が
「どうも森岡さんが一緒に暮らしているようよ」と
北原に告げた。
森岡というのは宮崎の甥にあたり病気に倒れた宮崎を
何くれと世話をしてきた独身の好人物だった。
独身といっても40近い人物で子供たちも
「ティオ、ティオ(おじちゃん)!」と懐いていた。
北原も優子と「あの彼だったら、安心だね」と、
ホッとして語り合った。


宮崎没後、北原は新聞社業務に精を出した。
編集業務は26歳の3男、翔が殆どこなすだけの力を
つけていた。
翔はこちらの高校を出て東京の私立大学に入学した。
毎日新聞の朝夕刊の配達をしながらの苦学生だった。
しかし、新聞配達は単なる配達だけに留まらず
集金業務も課せられ思った以上に激務だった。
また、パラグアイで日本語がいくら出来る、
といっても所詮、二世の悲しさ、日本生まれ、
日本育ちの学生に比べると日本語能力、一般常識、
歴史などすべてで追い付けず、やがて中退した。

北原は、翔を日本の大学入試の際、
日本人として受験させた。

翔は日本とパラグアイの二重国籍を持っていたので
外国人留学生としての資格はあった。
北原がそうしなかったのは、
翔の先輩から外国人留学生として入学すると
いろんな法律手続きで煩わしい、
という話を聞いていたことも
その手続きを怠った一つの理由だった。

外国人留学生制度を活用しなかったことを
北原は後悔した。
中退した翔を北原はパラグアイに連れて帰り
新聞社を手伝わせていた。

宮崎が亡くなって半年が過ぎた。

日本の文部省留学生としてグラフィックデザインの
勉強で東京の専門学校に入学した花梨は卒業後、
南青山の広告会社で働くようになった。
しかし、最先端の会社ではサービス残業が
常体化していた。
連日、早朝7時にアパートを出て午前零時過ぎに
帰宅する日々が続いていた。
いくら若い身でもこのままでは身体が壊れると
心配した北原はその会社を辞めさせた。
本人はまだ東京に未練があったようだが花梨も
パラグアイに帰らせて新聞社の広告や
印刷関係を手伝わせた。
子供二人の加入で業務もより強化された。
長男の賢太は、もう愛知県内の会社に勤務して
20年になる。
次男の達也はパラグアイの国際開発機構で働いており
どちらも二人の子供がいる。
子供達もそれぞれ自立した北原にとって
後顧の憂いはなかった。

パラグアイに帰った北原の元に内外の知人、
支援者たちから「本当に立候補するのかどうか?」
といった問い合わせが相次いだ。
結局、衆議院の解散総選挙はなかったが、
2004年6月の参議院選挙が来年に迫っていた。

その中にブラジルの邦字紙記者からの
問い合わせもあった。
正直な話、北原は全く再チャレンジ出来る
状況にはなかった。
資金不足は如何ともしようがなかった。




「ホント に出るの?」


その年の暮れが近付くにつれ北原は、
何れにしても自らの出馬宣言と、これまでの
選挙行脚に始末をつけなければならない、
という思いが強くなった。

2004年の年が明け、北原は今一度、
日本に行く決意を固めた。
ーと言っても資金は皆無だった。
イグアスの農地60Haも日本滞在中の資金として
売却してしまっていた。

最後の手段は借金しかなかった。
銀行は手続きがややこしいので消費者金融を
経営している梅宮社長に事情を打ち明けて相談した。
梅宮社長は快諾してくれた。
勿論、土地家を担保にしての借金である。
利息は高かったが5万ドルを借りた。

再挑戦するにしても無所属の泡沫候補では
笑い草になるだけである。
何とか既存政党の公認候補にならなければ
日本では歯牙にもかけられないということを、
先の経験で痛い程痛感していた北原は
公民党にターゲットを定めた。
南米日系社会は元々外務省、
日本政府の外郭団体などの様々な移住者支援を
受けてきただけに心情的に絶対与党たる
公民党シンパが多かった。

まずサンパウロに飛んだ北原は
「海外日本人代表を国会に送る運動」
サンパウロ支部の幹部らに相談した。

早速、ブラジル日系社会の有力団体の
幹部の協力を得て北原を公民党の公認にして
欲しい旨の公民党幹部向けの推薦状が作成された。
それと同様な推薦状をパラグアイでも
アルゼンチンでも現地日系有力団体の名前で
作成してもらった。

ロスの支援グループに北原は、
再チャレンジするため訪日すること、
公民党の公認を得るためブラジル、アルゼンチン、
パラグアイで日系団体の推薦状を作成した事等を
メールで連絡した。
                      (続く)






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