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2009.06.22 (Mon)

新連載  11  最後の秘境 グランチャコ

11
チャコブーム! 
4000ヘクタールの土地がタダ同然で



 新聞社創立3年後の1983年、チャコブームが
現地日本人社会の間で起きた。 国防省主導でボリビアとの
国境近くに4000ヘクタールもの土地をほとんどタダ同然で
分譲するという話が広がり、気の早い2~3の日本人が既に
入植した。
北原も新聞でチャコ特集を組み、ブームをあおった。
やがて日本大使館、国際開発事業団、日本人会、農協共催で
チャコ視察団が編成された。
 何しろその分譲対象地は首都アスンシオンから最も遠い
ボリビア国境近くで約千キロもの遠隔地である。
国防省が軍用機を出すことになった。
 「チャコ」はパラグアイ全国土の60パーセントを占めている。
このチャコ地方は「グランチャコ」とも言われ、パラグアイ人が
畏怖し誇りにしている格別な思い入れを持っている地域である。
太古、チャコ地方は海だった。
その海底が隆起して干上がったのが現在のチャコである。
したがって、そこの地下水は塩辛い。
半乾燥地帯で背の低い灌木が多い。それらのほとんどの灌木が
トゲのある樹木である。

 チャコ視察団18人は朝6時40分、チャコ開発長官
チャベス大佐の案内で双発の軍用機でアスンシオン空港を離陸。
8時40分、メノニタ移住地のフイラデルフィアに到着。
近辺視察後、再離陸。ボリビア国境寄りの
ラ・ヘレンサ・ナンシ移住地に着いた。  
チャコ開発はパラグアイ国あげての一大国家事業で
サマニエゴ国防大臣が総責任者となっている。
分譲対象総面積は500万ヘクタール。
日本人向けは40キロ×70キロの28万ヘクタールである。
4000ヘクタール分が23区画。
2000ヘクタール分が24区画。
大型分譲の2万ヘクタール分が1区画となっている。
 当地で生産可能なものは落花生、トウモロコシ、綿、大豆、
ひまわり、ヒマ、ポロト、スイカ、メロン、陸稲、
サトウキビなどがある。
 ボリビア国境寄りの当地は、乾期6月~10月までは
陸送(24時間)出来るが、それ以外は月1回ア市との間を
往復する軍用機(DC3)、または別に1回飛ぶ航空郵便を利用。
この交通の便が最大の泣きどころである。
したがって政府は、最初の入植者たちに対しては
手厚い援助をしている。
つまり、森林を切り開き、家を建ててやり、また一戸当たり
1万5000グアラニー(1万5000円)の現金の他、
次のような食料を支援している。 砂糖9キロ、塩6キロ、
食用油6リットル、マイス12キロ、マテ茶10キロ、
粉ミルク1缶、肉缶詰1ダース、胡椒少々、白米6キロ、
ガソリンも必要に応じて支給されていた。
また、驚いたことに牛も一頭づつ各移住者に支給されていた。
その至れり尽くせり振りには全く恐れ入った。

 北原たち18人が訪れたここラ・ヘレンサには、
南部を代表する日本人移住地ピラポと同じく海抜300メートルだ。
 当地には、1個中隊の軍隊とチャコ県の県知事代行たる
検査官が1人いるのみでいわゆる一般住民なるものはいない。
あくまでこれから開拓入植して徐々に町を作り上げていくわけである。
原生林の中でわずかに開いた土地に軍隊の宿営地がある。
原生林とは言っても鬱蒼たるジャングルではない。
高い樹木がまばらに林立して背の高い雑草はない。
したがって陽がよく当たり意外に明るい景観で北原は好印象を持った。
ここに既に入植している2人の日本人がいた。
矢部秋男と星野健作だ。
二人はパラグアイ東部のフラム移住地に当初、入植した後、
3年前に一念発起ここに入ったという。  
「チャコは、不毛の地、という先入観がありますが何でも
よく出来ますよ。と言ってもまだ自給自足程度ですがね。
それに南部のように牛につくビショ(皮膚に食い込む虫)が
いないのも魅力ですよ」
と赤黒く日焼けした顔をほころばせて矢部。

 南部のテーラロッシャ(ロシアの黒土、中国の黄土、
そして当国の赤土・世界3大肥沃土壌の一つ)は、
30年間無肥料で作物が出来るが、牛にビショが入る。
 当分譲は5年前に開始されたそうで現在、ピラポ移住地や
イグアス移住地の日本人が19人契約していると言う。
 支払い条件は、1ヘクタール当たり500グアラニー
(当時のレート・500円)で頭金は10%、残額は
4年据え置きの12年払いとなっている。
二人とも各4000ヘクタールを契約しているが、
まだ土地代は払ってないと言う。
4000ヘクタールもの広大な土地がわずか200万円で
手に入るということに北原も魅力を感じた。
ーとは言え、「1日、洗面器一杯の水で調理、歯磨き、
洗面から身体を洗うんですよ」と矢部の話を聞くまでもなく
現段階で現地に入植するのは無理と言わざるを得ない。
何しろここは、陸の孤島状態で交通の便と水不足は
致命的な欠陥なのだ。
 当地から約50キロメートル離れた所に「セロ・レオン」
(ライオンの丘・公園予定地78万ヘクタール)という
小高い丘陵地がある。
その周辺でアメリカのテキサコ石油会社が
ボーリングしている時に地下水が吹き出した。
それが「アグアヅルセ」(甘い水)と呼ばれる
唯一の水源となっている。
矢部らはそこまでジープやトラックなどにドラム缶を乗せて
水を補給に行く。
 さらにはっきり言えば、これらの入植は国境線を接する
ボリビアに対する屯田兵の意味合いが大きい。
 国境線を隔てたボリビア側には石油の埋蔵が確認されており、
セロ・レオン周辺を国際石油メジャーが盛んに試掘を行っている。
既に彼等メジャーは石油の埋蔵を確認したが国際市場への
アクセスの問題からそれらのパイプ全てに蓋をしているー
という話が流布している。
つまり彼等メジャーは石油価格が国際的に高騰し採算ベースに
乗るまで秘匿しておくつもりなのだろうーと北原は思った。
セロ・レオン周辺を国立公園指定地域にするというのも
これで納得出来る。

 当地にはウエハイ(グアラニー語で大酋長の意)農協があり
54戸の組合員が8トントラック1台、タンク車1台、
ブルドーザー1台、トラクター1台を政府の管理下で農協と
共同使用している。
 北原たち18人は、軍隊の宿営地でマンジョカ(イモ・タピオカ)
と豚骨でダシをとったポロト(豆)とトウモロコシ入りの
スープを御馳走になった。
 同地を16、45分に出発して17、40分、チャコ要衝の地、
第6師団の駐屯地マリスカル・エスティガリビアに着いた。
ここは首都アスンシオンから535キロ、ここからボリビアとの
国境まで285キロとチャコ地方の中心部に位置する。
この駐屯地には、ジャンボ機も発着出来る長さ3000メートル、
幅60メートルの滑走路がある。
 不毛の地チャコに何故こんなバカでかい滑走路を造ったのか
一見不思議だが、対ボリビアとのチャコ戦争(1932~1935)
は、わずかここ40数年前のことなのだ。
 チャコ地方の領有権をめぐって起きたこの悲劇的な
戦争の一因としてあげられるのが内陸国という
ボリビアの事情がある。
1883年、チリ、ボリビア戦争の結果、ボリビアは太平洋への
出口を失った。  その結果、ボリビアが目をつけたのが
パラグアイ河であった。
パラグアイ河を通過して大西洋に出口を確保しようとしたのである。
ボリビアはチャコへの植民政策を強化した。
これがパラグアイ側を刺激してチャコ戦争へとつながっていった。
戦局はパラグアイ軍の有利に展開したが最終局面では両軍とも
国力を極度に消耗して、米国、アルゼンチン、ブラジル、
ペルーなどの調停を受け入れて1935年6月12日
平和議定書が締結された。
 一応、この戦争はパラグアイが優勢裡に終息した。

 パラグアイ軍が有利に戦いを進めた要因の一つとして
「テレレ」があげられる。
これはパラグアイ原産の国民的愛用茶「マテ茶」の効能が
力を発揮したというものである。
 つまり、チャコは不毛の荒野で水がほとんどない。
あるのは泥水の小さな沼だけである。
パラグアイ兵士はこの泥水を壷やコップなどに入れた
マテ茶で漉して飲んだ所、マテの殺菌力により腹痛も
何も支障がなかった。
これが夏に冷水をマテ壷に入れて飲む「テレレ」の
始まりとされている。
因に冬は熱いお湯を注いで飲む「マテ」となる。

 この駐屯地にカピタン(陸軍大尉)金田
(後のパラグアイ国軍の最高司令官)がいた。
一行18人は、軍のマイクロバスで軍隊宿舎に入りシャワーを
浴びて一息ついた。  同夜、アスンシオンから駆け付けた
サマニエゴ国防大臣主催の夕食会が催された。
席上、チャコ開発長官チャベス大佐の挨拶があった。  
 「日本人、パラグアイ人が手をたずさえて次の若い世代のために
より良い世界を作っていこうではありませんか」
古武士のような風格を備えたチャベス大佐のしみじみとした挨拶が
北原の胸を打った。
 チャコ原野の夜空は今迄見たこともない大粒のダイヤモンドを
バラまいたように燦然として眩しかった。
軍隊の宿舎で熟睡した翌日、チャベス大佐、カピタン金田らに
見送られて12、40分同地を離陸した。
 一行は、軍用機DC3の昨日同様、上下に激しく揺れる
チャコダンスに酔いしれながら14、15分アスンシオン空港に
到着した。



チャコに一大コロニーを築いた「メノニータ」



 インディオしか住まないこの不毛の地チャコに
メノニータ教徒たちが今や一大コロニーを建設している。
 当時のチャコ地方には、鹿、猪、バク、狐、山猫、
ピューマ(アメリカライオン)、ワニ等様々な動物がいた。
また、モロ族、チュルピー族、グアラニー族、レングワ族、
チリグアス族、グワアスランゴス族、タピエステス族、
アンガイテス族、サナパナ族、トパス族などのインディオが
散在していた。
 チャコには、南部パラグアイにはないパロ・サント(聖木)、
ケプラチョ、グアジャカン等の貴重な有用材が沢山あった。
パロ・サントは、パロ=木、サント=聖、の意味で木の断面に
十字架の形の模様が浮き出したことから聖木と呼ばれている。
また、非常に芳香があり、そのエッセンスは香水の原料として
ヨーロッパに輸出されている。
ケプラチョは、ケプラ=割れる、アチョ=斧、の意で、
斧も割れる程の堅い鉄木でブランコ(白)とコロラド(赤)の
2種類がある。
 メノニータとは、今から470年前、欧州でキリスト教の
改革の嵐が吹き荒れていた頃、プロテスタントのうち、
洗礼を重視するバウティスタの中から分かれた一派が
北ドイツからオランダにかけて広がった。
メノ・シモンズを指導者とする一派で、以後、彼の名前をとって
メノニータと呼ばれるようになった。
戦争絶対否定の徹底した平和主義、徴兵忌避、公職就任拒否、
幼児洗礼、宣言否定の信仰を貫く。
この一派は次第にカトリックや他のプロテスタントから
圧迫され東方に移動し、19世紀にはロシアのウクライナ地方に
コロニーを建設して繁栄した。
 しかし、1874年、ロシアに兵役制度が制定されるにおよんで、
殺戮者たることを断固拒否した彼等のうち、最も信心深い
グループ6万4000人はついにロシアを捨ててカナダに移住した。
 ところがカナダに於いても第一次大戦終了後、高校教育以下には
英語を学ばせねばならぬという法律が適用された。
ドイツ語教育が不可能になり、母国語の継承を図りたいとする
一団は再び安住の地を求めて調査団を海外に送った。
そして1921年、彼等の最終安住地たるパラグアイを見いだした。
 それに呼応して国際連盟は人権擁護の見地から各国政府に対して
メノー派教徒の受け入れを要請した。
その過程でパラグアイ政府はチャコ地方への入植を提案した。
これを受けてメノー派教徒はパラグアイ政府に対して、
信仰の自由、ドイツ語教育と伝統的生活習慣継承、
平和主義遵守のための徴兵忌避と公職就任拒否の保証を求めた。
 当時のチャコ地方は、「緑の地獄」と呼ばれ、人跡未踏の地と
して恐れられていた。 アスンシオンから奥地への道路もなく
どこまでも原生林が続く未開地であった。
わずかに原住民の部落が点在していた。
しかし、彼等の多くは部落外のよそ者を敵対視して好戦的であった。
 そして1927年、カナダから第一陣がチャコに分け入り
メノニータ移住地の建設にとりかかった。

 チャコ要衝の地、第6師団の駐屯地
マリスカル・エスティガリビアは、メノニータ移住地
フィラデルフィアから西北に約70㎞の所に位置する。
第1陣に続いてフイラデルフィアに入ったメノニータたちは、
ロシア、ウクライナから満州鉄道で中国を南下し、上海から
船でブエノスアイレスに上陸した。
 入植当時の総面積は5万6000ヘクタールであった。
現在は80万ヘクタールとなっている。
パラグアイ全土に約3万人のメノニータが住んでいる。
しかし、この入植当時、1765人中、実に194人もの人々が
この途中で死亡した。
 陸の孤島で過酷な自然、風土病、伝染病、そして原住民の
襲撃など筆舌に尽くしがたい困難と戦い移住地建設が
進められてきた。
彼等はソ連やカナダなどの経験を生かし、
牧畜業に活路を見出してきた。
協同組合活動を通じて生産、販売活動も軌道にのり、
現在、同移住地はパラグアイの代表的な酪農産地となり、
牛乳、バター、チーズ、などクローバーマークの商標は
ブランド品となり高い評価を受けている。
また、アスンシオンまでの道路485㎞
(東京~京都間よりやや短い)も環チャコハイウエイと呼ばれ、
鋪装されている。
 一方、ロシアに残ったメノニータたちは、1917年の
共産革命により宗教の禁止と財産国有化という悲惨な
運命にさらされ、故国ドイツに帰還した。
しかし、敗戦後のドイツは彼等を収容しきれなかった。
このためドイツのメノニータたちは1930年、
パラグアイに渡り、チャコのフェルネイム移住地を創設した。
また、ソ連からの脱出は第一次大戦後も行われ、
その多くが1947年ネゥラン(チャコ)、ボレンダム
(サンペドロ県)の移住地を建設した。
一番新しい彼等の移住地は、1950年、カグアス県に
出来たソンメルフェルとベルタール、またチャコから分かれた
フリスラン移住地がある。
 現在、パラグアイ全土に約3万人のメノニータが住んでいる。  
彼等の分布は、北米に30万8000人、ヨーロッパに
9万7000人、アフリカに8万3000人、
アジアに7万3000人、ラテンアメリカに
6万5000人となっている(1977年現在)。
メノー派教徒は現在、世界中に62万6000人と推定されている。

 北原は、メノニータの世界流浪の旅と、モーゼに連れられて
エジプトを逃れた200万人ものイスラエル人の民族大移動が、
フトだぶった。
  あのイスラエル人たちも次々と襲い来る苦難にたまりかねて、
エジプトの虜囚時代に戻ったとしても、あの温かいスープが
飲めるだけましだ、と時に愚痴る弱い集団であった。
 また、イギリスの清教徒の一団が新天地を求めてたどり着いた
新大陸アメリカは、東海岸でも最も自然条件の過酷な
ニューイングランドの地であった。 モルモン教徒が東部から
西へ西へエデンの地を求めて与えられた約束の地は、
砂漠のソルトレイク(塩の湖)のほとりであった。

 いつの時代でもユートピアを求める子羊の群に最初に
与えられるものは、常に楽園とは似ても似つかぬ不毛の荒野であり、
砂漠であった。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地であるエルサレムが
イスラム教のメッカがそうであるように…。
この何者かが仕組んだ大いなるパラドックスに
何故か北原の胸は痛んだ…。
                        (続く)





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タグ : 新連載 第二の祖国に 日系オバマを

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Comment

●チャコダンスとは

6/22の記事にお書きになった、チャコダンスとは、バロック時代に一世を風靡したチャコーナのことですか?
とすると、チャコーナの語源はやはりチャコでしょうか。
チャコーナについて調べていますが、なかなか事典以上の知識が得られません。詳しいことをご存知でしたら、どうぞ教えてください。
志波みのか |  2009.07.17(金) 08:57 | URL |  【編集】

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