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2009.06.20 (Sat)

新連載 9 南米ジャーナル発刊

9、
南米ジャーナル 発刊!



農場追放! 新たな旅立ち

北原がブラジルのサンパウロに所用で数日、農場を留守にした時、
突然、パラグアイの判事が警察官数人を連れて農場にやって来て
立ち退きを迫った。
農場には深田家族と弟、それに北原家族だけが未だ残っていた。
3カ月の最終期限をまだ10日残していた時だった。
優子と深田らは1日だけの猶予をもらって翌日、
わずかばかりの手荷物を持ってアスンシオンに出た。
行く所がなかった彼等は安宿を探してとりあえず
簡素なホテルに泊まった。

夜、サンパウロのホテルに戻った北原は泣きじゃくる優子の
電話に愕然とした。
急遽、ホテルをキャンセルしてバスターミナルへタクシーを
飛ばし深夜便でアスンシオンに戻った。
サンパウロからアスンシオン迄約18時間。
リクライニングシートを倒して眠ろうと務めたが
中々眠れなかった。
農場で誕生した乳飲み子の翔(3歳)と花梨(1歳)
それに賢太と達也を連れてトボトボと肩を落して
農場を去る優子たちの姿が窓ガラスの向こう側にほのかに見えた。
ガラス窓に雨のしずくが優子や子供たちの涙のように
止めどなく滴り落ちていた。

アスンシオンのバスターミナルには午後3時過ぎに着いた。
北原は出口前に止まっているタクシーに乗って
優子が泊まっているホテルの名前と住所を告げた。
後部片側ドアをひもで動かないように縛ったタクシーは
ブォッブォッと喘息のような排気音を響かせながら
水しぶきを上げて走った。
床の一部が破れており、はね上がった水が北原の靴を濡らした。
ネズミ色の雲が低くたれ込め、横殴りに吹き付ける雨が
閉まらない窓ガラスから車内に侵入してきた。

ホテルはウルグアイ公園の傍にあった。
鞄を頭上にかざしてそのホテルのドアを開けると
狭いロビーのカウンターの陰で新聞を読んでいた
中年の男がうさんくさそうな顔で北原を見た。

「ドンデ エスタ ファミリア デ キタハラ?」
(北原家族はどこだ?)と聞くと
「215号室だ」と顎で階段を指した。
(サービス精神のひとかけらもないな、
これが安宿の定番応対か)北原は心の中で舌打をして
薄暗い階段を上がった。

北原は薄暗い愛想の悪いそのホテルを出て
セントロ(都心)のこざっぱりした別のホテルに
優子達を連れて移った。
深田兄家族と弟は学校側が探してくれた1戸建ての家に
引っ越していった。
やがて都心からちょっと離れた住宅地に手頃な家が見つかった。
夏12月、北原たちはその家に引っ越した。
パラグアイの夏は長い。
11月から3月頃迄30度を超える日が続く。
中でも日本の7月、8月に当る1月、2月が盛夏といえよう。
真夏のクリスマスもお正月も盛大な爆竹のような
花火の音の中で迎え、そしてあっと言う間にすぎていった。



新たな出発「南米ジャーナル」発刊



北原はイパカライファームの署名活動を
アスンシオン在住の日本人移住者たちに依頼して回った時、
藤山治という男性と知り合いになった。
彼はピラポという移住地に入植後、家族共々、
アスンシオンに出て日系企業のサラリーマンをしていた。
東北出身の彼は北原より2歳年下の芸能人のような
甘いマスクを持った好人物だった。
その彼が邦字新聞をやりたいという希望を持っていることを知った。
何でもピラポにいた青年時代は、音楽好きの仲間と楽団を
結成してボーカルを担当したり、日系ラジオの
アナウンサーもしていた。
北原もこの国に来る前パラグアイの国情や日系社会の情報が
殆ど分からず閉口した。
日本側に正しい現地情報を発信するためには邦字新聞が
不可欠だと痛感していたことから一緒に新聞社を
立ち上げる事になった。
ただ問題は資金がないことだった。
幸い北原が8年前に買っていた水関連メーカーの株が上昇していた。
その売買手続きを日本の弟に頼んで売却した。
金額は大した事はなかったが何とかガリ版刷りに
毛の生えた程度の新聞は発行出来そうな見通しが立った。
タイプライターや小型の印刷機は移住事業を推進してきた
海外事業団に古い和文タイプライターが2台あった。
それを藤山が払い下げてもらう事になった。
このタイプライターは以前あった日本語新聞社が使っていたもので、
廃業の際、事業団への借金が払えなかったので事業団が、
押収したものだった。 事務所は藤山の家の1室をあてた。

北原は郊外に安い家を借りた。
その家は道路に面した間口は7m程度しかないが、
一応車庫もあり、奥行きが長く25m程度あった。
裏には芝生の庭もありちょっとした焼肉パーティーも
出来る広さだった。
子供達は午前中、近くの現地の小学校に通わせ
午後はプロテスタント系の三光学園の日本語教室に通わせた。
どちらも家から歩いて30分程度の距離だった
。 真夏のクリスマスもお正月も盛大な爆竹のような
花火の音の中で迎え、そしてあっと言う間にすぎていった。
その一方で国内の移住地回りをして移住地内の新聞取次ぎ店を
引き受けてくれる人も探さねばならなかった。

北原は従来の事業団ベースの移住社会からみると全く異色の
移住パターンできたから、各移住地に血縁も知り合いも
いなかった。
その点、藤山はピラポ出身だけに顔が広く支局探しの時、
助かった。
「新聞なんてそんなもん儲からへんきに。やめときや!」
ある移住地を訪問した時、そのコロニアの有力者に
にべもなく言われたこともあったが、
ぼちぼち協力者も出来てきた。
アスンシオンの日系社会でも新しい新聞社が出来るらしい、
という噂は口コミで広がっており、
徐々に日本人の出入りも多くなった。
簡単に新聞を発行するといっても関係官庁の許可を
得なければならない。
事務所に出入りする人の中に宮崎純一という人物がいた。
彼は日本の商社のパラグアイ事務所の現地採用社員だった。
北原たちよりも20年早くパラグアイ移住してきた。
彼は両親とブラジルとの国境の町、ペドロファン・カバリェロ市
にあるアメリカ人経営のカフェ耕地に家族と一緒に雇傭農
として入ったが、そのジョンソン耕地(通称)が入植後、
数年を経ずして倒産した。
社長ジョンソン氏はアメリカのジョンソン大統領の
従兄弟だということだった。
その後、彼は両親と離れてアスンシオンに出て来て
アルバイトをしながら高校をでて商社に入った。
宮崎は商社の仕事柄いろんな役所に顔がきき、
彼が新聞発行許可書をとってくれた。
北原たちはタブロイド判 8ページの週刊紙として出すことにした。
藤山の住居兼事務所隣には韓国人の食料品店もあり
日常の買い物にも便利だった。

新聞の名前は「南米ジャーナル」とした。
海外の邦字紙はその国の名前や土地の名前をつけるのが
普通だが北原たちは敢えて大きな名前で勝負したかった。
南米中を制覇したいという心意気だった。
印刷は外注に出す事にしていたのでパラグアイ人の
印刷屋を何件かあたった。
ラッキーなことにある日、
「この先に住んでいるレイサモンが印刷をやってるらしいよ」
と隣の韓国人の主人が教えてくれた。
そのレイサモンは太った190センチはあろうかという
気のいい大男だった。
バイトで半日現地の新聞の翻訳をやってもらう日系二世の
女子大生も見つかった。
新聞社のスタッフは北原と藤山治、藤山夫人、女子大生
花岡由紀恵の4人でスタートすることになった。
北原は移住地の日本人会や農協、商店などを回り、
新聞取次ぎ店や購読依頼をするためパラグアイ中をバスで飛び回った。 アスンシオンからどこの移住地に行くにも5~6時間かかった。
倒産したジョンソン耕地のペドロフアン・カバリェロは
1晩がかりで11時間かかった。
途中、鋪装していない部分が数十㎞もあり、
雨でも降ろうものなら何日も足留めを食らった。
取材やアスンシオンでの新聞配達は北原本人がすることにした。
その足として中古の50ccのホンダカブを買った。
そのカブでアスンシオンを走り回り、日本文化協会の
会員名簿等を頼りに口伝てに住所を確認して回った。
大体準備体制が出来たのは3月に入ってからだった。
南米ジャーナル特別見本版を出すことにした。
見本版は、印刷の仕上がり具合、購読者を正式に募ることと
移住地へのバス送付、また、内諾をもらっているアスンシオンの
購読者への配達状況等を知る狙いがあった。

3月中旬、取りあえず見本版4ページをレイサモンの所で
印刷して移住地にバスで送り、アスンシオン市内は
北原がカブで配達して回った。
アスンシオンは文化協会会員で住所が分かった人達に無料で
配付したので200軒あった。
配達には2日かかった。
見本版配付で大体の要領が分かったので創刊号を
1980年4月1日とすることにした。

「象の花子がそちらに行くからよろしく」と日本の知人から
手紙が北原に届いた。
南米ジャーナルの発刊準備を進めている時だった。
手紙によるとその象は北海道の動物園にいたのだが、
右後ろ足がクル病にかかって歩くことも困難になったので
薬殺される寸前、ある奇特な老人に引き取られた。
その老人はやがて花子を連れて暖かい南の方に転々と
移動していった。そして広島県の田舎の協力者の所で暫く
療養をしていたが、どういう経過か、南米の暖かい
パラグアイに象の花子を送ろうという話がでてきて
全国的に「花子をパラグアイに送る1円玉募金運動」
が広がった。
その1円玉募金が1千万円以上集まったので
今回実行されたものだった。
その運動に知人が関わっていたのだった。
見本号を出した数日後、花子がアスンシオン空港に到着した。
ニューヨーク、サンパウロ経由で来たものでニューヨーク空港の
乗り換え時、クレーン操作のミスでまた良くなりかけていた
前足を痛めた。
花子と一緒に北海道からずーっと一緒だった
森田孝太郎老人(68才)も一緒だった。
「子供たちの1円玉募金で花子、パラグアイへ!」という
美談記事が新聞、週刊誌、テレビなどで日本中に
大きく報道された。
鳴りもの入りで花子は、日本を出発したのである。
アスンシオンに着いた花子は、一旦、動物園に引き取られた。
北原は郊外にあるアスンシオン動物・植物園に単車を飛ばして
見に行った。
園内の空き地に花子はベタリとへたりこんでおり、
その傍で白髪の森田老人がホースで花子の身体をブラシで
ゴシゴシ洗っていた。

「今日は!大変ですね。南米ジャーナルの北原です」
「あ、どうも御苦労様です。ニューヨークでまた
足を痛めたものですからね~」
森田老人は腕まくりした手で眼鏡をずり上げながら
笑顔で明るい声で答えた。

南米ジャーナル4月1日付け創刊号は、
「花子、歩け南米の大地を!」との大見出しと
花子の写真がトップページを飾って発行された。
花子がアスンシオン動物園に引き取られて数日後、
花子後援会の田中信子後援会長(48歳)と娘(19歳)さん
の二人が広島県からやって来た。
田中会長は広島県で花子を保護して全国に
「花子を南米パラグアイに!愛の1円玉募金」運動を
全国に展開して1000万円以上集めたカリスマ主婦である。
色白のややソプラノ気味の声でテキパキ話す田中会長母娘は
暫くアスンシオンに滞在するようで日系旅行社の世話で
永住権を申請した。
その時、森田老人も一緒に申請した。
3人はアスンシオンに1戸建の家を借りて住むようになった。

 南米ジャーナルは週刊紙として 取材、記事タイプ、
配達集金は北原が担当し、藤山はタイプ、編集、台紙への
切り張り、印刷等を担当した。
藤山夫人は家事の合間にタイプを手伝った。
パラグアイの日本人移住者は、8000人足らず、
所帯数にすれば2000前後だろうか、
そんな中での日本語新聞の発行が生易しいものではない、
というのは作る前から分かっていた。
実際に発足して購読者数、集金の数字が出てくると、
とてもじゃないがやっていけない、という厳しい現実が
目の前に突き付けられた。
毎月の僅かな新聞代、広告代、印刷代等の中から
北原の給与は出ない。
経営的には全くお先真っ暗の南米ジャーナルだった。
 
新聞社発足3カ月後、北原は、メルカード・クワトロ
(4番市場)近くの山田旅館の下にあった4畳程の
物置きを借りて優子にカサ・ハポンという雑貨店をやらせた。
その物置きは、山田旅館の玄関脇にあり、長い間シャッターが
閉じられていたものだ。 和食レストランもやっていた
山田旅館はセントロからメルカード4番に上る途中にあり、
その前には社会保険庁の8階建のビルがあった。
社会保険庁の道路を1つ隔ててバスターミナルがある。
保険庁前は早朝から年金をもらう人々で毎日ごった返していた
 優子は翔(4歳)と花梨(2歳)の二人を連れて毎日バスで
その小さな雑貨店に通った。翔と花梨は、パラグアイ移住後、
イパカライファームで生まれた子供だ。
優子の陣痛時、キムさんのオンボロジープでアスンシオンの
産婦人科病院まで連れて行ってもらった。

開店当初、雑貨店の品物は棚半分も埋まらなかった。
品物は北原がブラジルとの国境沿いのフリーポートの街、
ストロエスネル市から仕入れて来た僅かばかりの日本の
雑貨品を並べた。
やがてある日、北原はバスでサンパウロに行った。
サンパウロまでアスンシオンから約18時間かかる。
 サンパウロの日本の書籍を扱う卸店から書籍を仕入れることに
なった 支払いは毎月末払いということにしてくれた。
これは北原が新聞社を経営しているということからくる
信用取引きだった。
新聞社というものは、たとえどんなに貧乏であろうと
「社会的信用」だけは、絶対的なものがある。
金儲けは出来ないもののこれが新聞に携わる者の「志」に
対する無形の勲章であろう。  
賢太と達也は、ミッション系の三光学園中学部に通学していた。
そこでは午前中スペイン語学校、午後は日本語学校の
授業が行われていた。
優子は二人を送り出した後、二人の夕食を準備しておいた。
北原は勿論、優子も翔と花梨を連れて小さな店に出かけるので
帰りはいつも夜遅かった。
自分達と北原の昼食と夜食用4つの弁当を持って翔と花梨を
連れて雨の日も風の日もバスでカサ・ハポンへ出かけた。
家から大通りのバス停まで10分程歩かねばならない。
雨の日はさすがに優子も出かけるのが億劫になっていると
4歳の翔が雨合羽を着て長靴をサッサと履いて
「ママ、おしごとにいくよ」と促したりしていた。
幼い子供二人を連れて4食分の弁当を持って
雑貨店カサハポンまでバスで30分、通うのは大変だった。
山田旅館には開発事業団のミッションや専門家などが
大勢利用していたので、パラグアイの土産物なども揃えて売った。
時には日本米や花や野菜なども売り、まさに何でも屋の
観を呈していた。
 この小商いで結構、日銭が入った。
北原は印刷の支払いや紙代の支払いなどに困ると
オートバイでお金をせびりに行った。
新聞社は創立当初から金欠病が運命づけられていた。
しかし、この小商いを通じて優子の新たな面を北原は見出した。
それまでおとなしいばかりの内気な性格だと思っていた優子が
意外にも社交的で商売上手、さらに結構、蓄財の才に長けている
と言う事が分かってきた。
同旅館に長期滞在している事業団の専門家グループと
すぐに打ち解けて冗談を言い合ったりして身体を折って
コロコロとよく笑っていた。

結婚直後からまどかとの確執、そして見知らぬパラグアイへの
移住。 農場での慣れぬ集団生活、農場追放と立て続けに
起きた苦難のこの時期は優子にとっての氷河期だったのだろう。
少しづつ氷が溶けて本来の楽天的な性格を
取り戻したのかも知れない。
翔や花梨は旅館のパラグアイ人の女中さんたちの人気者になり
小犬のように店の周辺で遊んでいた。
まだ2歳の花梨はその小さな倉庫の様な店の陳列棚がベッドだった。
 北原は台所兼食堂で優子の作った弁当を昼夜、藤山の家族と
一緒に食べた。藤山は夕食時、晩酌に好きなワインを
ニコニコと上機嫌で飲むのが常だった。
夫人は手八丁口八丁の明るい性格で二人の子供たちも
学校や友達の話題で盛り上がり食卓はいつも賑やかだった。
そんな賑やかな夕食に元商社マンの宮崎純一も時々加わった。
彼の奥さんはアルゼンチン人なので和食が食べたくなると
夕食時フラリと現れるのだった。
金髪美人も若い時はいいが、歳をとるとどうしても
コテコテの肉食よりもアッサリとした和食が恋しくなるようだ。

 優子は翔と花梨と一緒に持って来た弁当を店の中や
前の社会保険庁の花壇の際のコンクリートの縁に腰かけて食べていた。
 毎週水曜日が発刊日だったが、あっと言う間に発刊日が迫ってきた。
毎晩夜中の12時過ぎまでポトンポトンとタイプを打つ日が続いた。
体力には自信があった北原だったが1年過ぎに過労から血尿が
出るようになった。 気のいい藤山と彼の家族との付き合いは
和やかな日々が続いた。
しかし、経営面からいうと全くお先真っ暗だった。
まぁまぁバァちゃんに感化されて“結果全て良し”を
モットーとしてきた北原だったが、
さすがに眠れない夜が多くなった。
ある日、北原はセントロ(中心街)に配達に行った途中、
河辺に面したカテドラル(大聖堂)に入った。
中は薄暗くステンドグラスからの淡い光彩が正面聖壇の
十字架上のイエス像やマリア像を浮き彫りにしている。
ガランとした教会内中程の長椅子に年老いた女性が
ひざまずき頭を垂れて祈っていた。
北原は最前列の長椅子に座り深々と頭を下げて祈った。

 その日の夜、藤山が
「ケンさん、僕ら日本に引き上げようと思うんだ…」
とポツリと言った。
北原は彼等家族から「ケンさん」と呼ばれている。
日本でヒット曲を飛ばした北原謙二という歌手にあやかっての
ニックネームだった。
想像もしていなかった寝耳に水だった。
そういえば、ここ最近、藤山夫婦はピラポに何度か往復していた。
親戚にも相談していたのだろう。
北原は驚いた反面、どこかホッとしていた。
そうか、こういう道があったのか…。
今さらながら天の配剤の妙に感じ入った。
                          (続く)





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タグ : 新連載 第二の祖国に 日系オバマを!

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