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2009.06.16 (Tue)

新連載 8、「日本人移住者によってパラグアイの明治維新を!」と大統領

8、
「日本人移住者によって
パラグアイの明治維新を!」
と大統領





北原たちは、翌日午後、釈放された。
岡本龍之介が大統領府のジョランダ官房副長官に頼んでくれたらしい。
ジョランダ官房副長官は、ケビン・マクローリー大統領の愛人だ。
ドイツ系移民二世のマクローリー大統領は、1954年陸軍大佐時代、
南部の第3旅団を掌握しアスンシオンに侵攻しクーデターで大統領に
なった。以降、強力なカリスマ性で長期独裁政権を維持してきた。
ジョランダ女史は日本人移住者発祥(1936年初入植)の地、
ラ・コルメナで小学校の先生をしていた。
その当時、大統領に見初められたらしい。
ジョランダ女史は大統領に日本人移民の優秀さを伝えた。
以後、大統領はジョランダ女史を官房副長官に引き立てた。

「日本人がいろんなトラブルに巻き込まれたらお前が全て解決しろ。
お前の手に負えない時は俺に言え」と女史を日本人移住者の擁護者
とした。
以降、日本人移住者たちは何か問題が発生すると大統領府の
ジョランダ官房副長官に陳情に行くのが慣例となった。
大統領の親日振りは有名だった。
生え抜きの軍人だっただけに世界の戦史を塗り替えた日本の
奇跡的な日露戦争の大勝利のことも熟知していた。
日本から政府関係の高官などが大統領に面会した時、
大統領は好んで日露戦争の話題を取り上げた。 中には日本人が
知らない秘話や軍人の名前等を知っていて冷や汗をかいたなどと
いうエピソードが巷間伝えられていた。

日本人のパラグアイ移住は1936年にスタートしたが
第2次世界大戦で中断した。
敗戦後、日本は海外からの引揚者630万人を含め狭い
日本列島に閉じ込められた。戦後の廃虚と食料不足の中、
1952年、海外移住が再開されると新しい天地を求めて
奔流のように海外へ流れ出した。
56年~58年には移住者数は年間1万人を超えた。
よりよい生活、より生き甲斐のある生活の場を求めて自由に
移動することは太古の昔からの人間の本能的欲求である。
日本の憲法22条は、国民の基本的権利として「移住、
移転および職業選択の自由、外国移住および国籍離脱の自由」
を保証している。
これは世界人権宣言第13条にも謳われている。

マクローリー大統領は1954年大統領になると、
「日本人の優秀な血をパラグアイに導入してこの国の明治維新を
果たしたい」と考えて1959年(昭和34年)
日パ移住協定を締結した。
この移住協定は向こう30年間に日本人移住者を85000人
受け入れるというものである。
この協定は1989年に一旦期限がきたが、
85000人満杯になるまで期限を設けず受け入れる、
との再協定が結ばれた。


少年兵たちは、留置場騒動の後、いなくなり
ゴンザレスも再び現れなくなった。
やはり、日本人同士のゴタゴタにつけこんで乗り込んで
きたものであろう。
ゴンザレスの乗っ取り騒動、留置場騒動などから北原たちは
改めて自分達の不安定な立場に不安を覚えた。
些細な事で留置場へ放り込まれるという厳しい現実に直面して
早急に弁護士をたてる必要に迫られた。

「ノー、下手な弁護士を頼んでもこの国では、弁護士同士が
裏で手を握り法外な弁護料を取られるのがオチだよ。
それよりここにも日本人社会があるんだから彼等の協力を
得る方がいいんじゃないかね」とのキムさんのアドバイスで
アスンシオンの日系社会と接触することにした。

まぁまぁばぁちゃん、深田兄、北原、寺岡ら4人が
アスンシオンに出かけていろんな人物に協力を求めた。
最初、彼等の反応は鈍かった。
というのも彼等移住者は皆、政府間ベースの移住で
パラグアイの原始林に入植して辛酸を舐めた人達だったので
イパカライ農場の住人を多少の警戒感と奇異な目でみていた。
無理もなかった。
いきなり集団でアスンシオン近郊の国際道路沿いの
恵まれた土地に入った連中の一部が日本に引き上げて
「詐欺云々」とマスコミを賑わせていることを彼等も知っていた。

「どういう宗教かね?」
彼等は異口同音に聞いた。
「別に宗教団体でも何でもないんですよ。
ただ、宗教心を持った人達が集まってきただけです」
中々、彼等移住者の理解は得られなかった。
しかし、まぁまぁばぁちゃんたち4人の人間性が
分かってくるにつれて理解者も増えてきた。

岡本も北原たちが千乃女史の構想に賛同して寄付した事実を
知っているのでお金の返還や土地の権利を訴えても
「難しい」と否定的だった。
北原達は元よりお金の返還はあきらめていた。
それでイパカライ農場90ヘクタールを
アスンシオン日本文化協会に寄付して欲しいとの嘆願書を
千乃女史に出すことにした。
早速、アスンシオン在住の日本人達に賛同の署名集めを開始した。
この動きが千乃女史に伝わったのか農場にパラグアイ人弁護士が
現われて「3カ月以内に農場から出て行くように」
との勧告をした。

アスンシオンには、農場を出て生活していた女史シンパグループが
いるので彼等から連絡がいったのだろう。
署名活動は急ピッチで進められた。

ある日、北原たちが乗ったアスンシオン行きバスが途中で故障した。
また、翌日、乗っていたバスの前を走っていたトラックが
対抗車線をはみだしてきた車と激突した。
間一発だった。
「千乃さんがすごい念で妨害してきてるようね」
まぁまぁばぁちゃんが目を閉じて止まった
バスの中でボソリと言った。
千乃女史が本性をむき出してきたようだった。


女史とのサイコキネシス戦争



きわどい バス事故はその後も2~3度続いた。
いずれも北原たちに直接被害はなかったが女史が呪詛を
強めてきたのは間違いなかった。
まぁまぁばぁちゃんは、バスの中で常時、瞑目して
盛んに口の中でブツブツと何事かを唱えていた。

北原が千乃女史に最初、中野サンプラザで会った時、
彼女が秘めている暗い「魔」の翳を感じ取った第1印象は
間違っていなかった。
女史は矢張り邪悪な力を持っていたのだ。
北原は彼女が持っている力が世間一般に言われている
いわゆる一種の超能力であろうと考えている。

彼は離婚後のある時期、宗教書や哲学書、心理学、
またいわゆる超能力を謳った書物を乱読した。
その乱読は今も農場の新館にある数千冊の書庫で続けられている。
その結果、超能力も人間に備わった「足が早い」とか
「記憶力が優れている」とかの身体能力の1種であるとの
結論を得ていた。
近代生活の中で埋没してしまった超能力といわれる特殊能力は
大まかに2つの側面を持っている。
その1つが激烈な「憎悪」から生まれるものと無償の「愛」から
生まれるものの2種類ある。
憎悪から生まれるパワーはドロドロした怨念となって
秘密の呪詛となった。
日本でも樹木に藁人形を打ち付ける丑三つ詣でというのがあるが、
ブラジルのマクンバ(Macumba)が最も有名である。
マクンバはヴードゥ(Voodoo)と並ぶ
世界2大黒人宗教だが、宗教というよりも殺人を目的とした
憎悪の呪いそのものであろう。
アフリカからブラジルに強制的に連れてこられ牛馬のように
顔面や背、腕などに番号やイニシャルを銀製のコテで焼き印を
捺され酷使された黒人奴隷達の「怨」が「呪殺」
宗教マクンバを生んだ。
そして一方、現実逃避の手段として熱狂的に歌い踊る「サンバ」
を生んだ。
そのいずれもが白いキリスト教徒たちに対する呪詛であり
自由への鎮魂歌であった。
女史のこの呪詛パワーがどういう彼女の生い立ち経歴から
生まれたのかは不明だ。

一方、まぁまぁばぁちゃんも柔らかな一種の超能力を
備えているようだった。
花や鳥、夕焼け空を見ては「まぁまぁきれい!」
と心から感嘆していそいそと絵筆を持ってスケッチに
勤しむばぁちゃんはそれらの生命と対話していた。
女史が農場の整理に現われた時、女史がまぁまぁばぁちゃんを
苦手としている理由が北原に何となく理解出来た。
怨の闇パワーは明るい太陽の下では雲散霧消してしまうのだろう。

「全て善し。結果全て善しなのよ」ばぁちゃんの口癖だった。
ばぁちゃんの全てを前向きに明るく肯定する考え方は
北原たちにも大きな影響を与えた。
やがてバス事故などのトラブルも自然になくなった。



北原、アメリカへ女史と対決


署名運動は順調に進んだ。
それらの署名を持って北原がアメリカの千乃女史に
直談判に行く事になった。
女史はサンフランシスコの近郊フレズノにアメリカ人の夫と
住んでいるということだった。
北米に本部のあるプロテスタントの教会がアスンシオンにある。
そこの日本人の太田牧師と親しくなった北原たちは、
その牧師からフレズノに住んでいる同教会の日本人信者を
紹介してもらった。

9月、紹介状を持ってロス空港に降り立った北原は
乾いたロスの風と日差しに女史と会った2年前の夏の日を
思い出した。
あの時の女史はソワソワと落ち着かない素振りで
作り笑いを浮かべて北原や優子、賢太、達也を迎えた。
あの時点で女史の「ノアの方舟」構想は既に崩壊の兆しを
見せていたのだ。

ロスからサンフランシスコに向って北上、フレズノまで
荒涼とした景色の中の1本道をバスで約5時間。
フレズノは元々乾燥地帯なのだろう、 周辺の大地が白っぽい。
ターミナルで近藤の自宅に電話して到着を告げた。
「OK、すぐ行くよ」
電話口の向こうから野太い声が返ってきた。
やがて大型のフオードのバンで現われた近藤民雄は
眼鏡をかけたガッチリとした体躯の60年輩の人だった。
20分程度で平家建ての家に着いた。
人の良さそうな奥さんと2人住まいだった。
「太田牧師は元気かね?」
「ええ、元気に頑張っていますよ」
「5年前パラグアイに学校建設の奉仕団のメンバーとして
行ったんだよ」。
その宗派はアスンシオンで寄宿舎付きの学校を経営しており
地方の日本人移住者の子供達が寮に入って勉強している。
「簡単な話は太田牧師から電話で聞いたけど、
騙されたんだって?ひどい女だね」
「いえ、別に騙されたというわけでもないんですが…」
「だってそりゃ~詐欺だよ」。
いかにも厳格なプロテスタントらしく一徹な人だ。
込み入った話はこの人には通じないらしい。
近藤さんの頭の中には詐欺師千乃幸恵という固定観念が
既に出来上がっているらしい。
「大体の住所は見当がついているんだけど、
生憎明日は忙しいので明後日でも一緒に行こう」。
「土からとった有機物などそれと同量か、
出来ればそれより少し余計に土に返してやれば自分の畑を
酷使しないで済むのだよ。一文惜しみの100両損という
言葉があるように、ほんの何ドルかの費用を畑に惜しんで
数十倍もの見返りを損する農民が多いのだよ」
10月に小麦の種子を蒔くという。
その夜は食卓を囲んでアメリカ農業について話が弾んだ。
メキシコ人の季節労働者がカリフォルニアの農業を
支えているという。
彼等の大半は正式な就労ビザを持っていないが、
移民局も黙認しているらしい。
翌早朝、目覚めた北原は家の周辺を散歩した。
家の裏にはトラクターに大型コンバインがトタン屋根の
倉庫の下にデンと収まっていた。
今は端境期らしく広大な畑にはクローバーやアルファルフアー
などの緑肥が広がっていた。
アメリカ北西部は農業には素人の北原が見ても肥沃な土地とは
言い難かった。
近藤の周辺もそうだがポツンポツンとまばらに民家が建っている。
半乾燥地帯特有の白っぽい大地が続く中、時折、青々とした
オレンジ畑が現われてくる。
1時間も走っただろうか、西部劇に出てくるような
白いペンキがはげかかった木造の平家建ての前で車は止まった。
「多分、これだと思うんだが…?」訪問の趣旨は電話で近藤が
今朝、千乃幸恵に伝えていた。
(随分、くたびれた家だな)と北原は拍子抜けした。
日本での告訴騒動の前、日本の新聞のインタビューなどに
カリフオニアにオレンジ農園を160ヘクタール持っている、
などと豪語していたではないか…。
また、新ノアの方舟の乗船希望者向けに
「会員になるとオレンジ樹に会員の名前が表示され、年1回、
オレンジまたはレモンがクリスマスプレゼントとして10年間
届けられる」などと謳っていた。
古ぼけた家に住む主宰者のあまりにも侘びしい現実に
千乃女史の傲岸不遜な虚像が音もなく崩れていくのを北原は感じた。

玄関に現われた女史は色黒のボッテリとした顔が引きつったような
卑屈な笑いを浮かべて居間へ案内した。
「どうぞお座り下さい」
6畳程の居間にソフアーはなく絨毯の上に北原と近藤は
べたりと座った。
女史も足を斜に崩して座った。
「元気なようね」
「皆元気に頑張っていますよ」
「よくここまで来れたわね。どんな用事があったの?」。
(どんな用事も何もないもんだ。全部知っているくせに…)。
北原はかいつまんで用件を述べた。
今さら寄付した金を返して欲しい等とは言わないが、
あの農場をアスンシオン日本文化協会に寄付して欲しいとして、
集めてきた賛同書を女史に見せた。
女史はしばらくその賛同書文面と数十名の日本人賛同者の
サインを見ていたが、「出来ません」と冷たい口調で言い放った。
「あんたもまだ若いし、日本のことや日本人のことを真剣に
考えているのなら現地の公共団体にその土地を寄付して
活用してもらった方がいいよ」と近藤も口添えしてくれた。
北原と近藤は口を酸っぱくして公共団体に寄付する
メリットを説いた。
そこにはあの自信たっぷりな饒舌なかっての女史の姿はなかった。
ただひたすら「出来ません」とかたくなに拒否するだけの
意固地な平凡なオバサンしかいなかった。
(勝った…)と北原は思った。
そして“ノア”という大役が自分にバトンタッチされたことを
魂の深奥でズシリと確信した。
この“ノア”という大役が如何に北原の後半生に
重くのしかかってくるか、この時点で知る由もなかった。

「北原さん、こりゃ~ダメだよ。あんたらもあきらめな」
近藤がついにさじを投げた。
結局、交渉は決裂し北原は具体的な成果を上げ得ないまま
パラグアイに帰国した。
しかし、北原はこれで千乃女史との関わりは終わった、
と心の深い所で納得していた。
北原を出迎えた農場のみんなも北原の交渉経過を聞いて納得した。
こういう結果になる事はみな出発前から予測していたことだった。
そしてそれぞれが身の振り方について覚悟をきめた。
その意味ではノアに乗ってきた人達は世上の欲得から
離れた人達だった。

まぁまぁばぁちゃんは、アスンシオンのプロテスタント系の
学園の絵の講師として毎日、農場からバスで学園に通った。
深田兄と弟はアスンシオン日本文化協会が経営する
学校の先生として勤務するようになった。
寺岡家族はアメリカに再転住することを決めた。
寺岡和人は日本で建築士だったので最初からアメリカで
その分野の仕事をやりたいとアメリカ移住を希望していた。
西川みきと大野恵子の二人はカークペに小さな家を借りて
ケーキを作って売りたいとの希望を持っていた。
イルカこと西条英二は「日本に帰りますよ」明るい声で言った。
                         (続く)





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タグ : 新連載 第二の祖国で 日系オバマを

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