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2009.06.11 (Thu)

第二の祖国に 日系オバマを  6

5、乾いた風の匂い ロス

空港にはやせぎすの日本人女性が迎えにきていた。
24~5歳だろうか? 「北原さんですか?鈴木です」
千乃女史の秘書をしている女性だ。
タクシーで小さいがこざっぱりした郊外のホテルに着いた。
10歳の賢太と9歳の誕生日を3日前に迎えたばかりの逹也は始めての
海外に緊張と不安で口数が少なかった。
優子はそんな二人をかばうように終始二人の肩を抱いていた。
彼女もまた自身の不安を二人を抱くことによって紛らわせているのだろう。
ロスには1泊することになっていた。
鈴木という秘書は、千乃女史が後でホテルに来る事、
ロス滞在中の予定やパラグアイ便の出発時刻、注意点などを
てきぱきと北原に伝えると帰っていった。
ホテルの周辺は見なれたマクドナルドやコカ・コーラ、Essoなどの
看板が広い道の向こう側に連なっていた。

平べったい街だ。 千乃女史は、午後、ロビーに現われた。
「よく来たわね。子供達も元気?」
脂ぎった顔に笑顔を満面に浮かべて握手をしてきた。
小太りの身体に合ったぽってりした掌だった。
千乃女史はコロコロ笑いながらハイトーンの声でよく喋った。
「挫折して日本に引き上げた人達はそれぞれが抱える宿命です。
仕方ないわね。残っている人達は頑張っているわよ」
「パラグアイの太陽の下で育ったらこの子たちは大物になるわよ」
二人の頭をなぜて優子にも愛想笑いを向ける。
おかっぱの髪の毛から覗く目は笑っていない。
大人しい性格の優子は一言も口を開かなかった。
怖がっているな、と北原は感じた。
確かに女史の目は恐い目だ。
仁王像や不動妙王のような憤怒の目に似ている。
あの講演会の時の自信に満ちた彼女の態度と違うなと北原は思った。
女史はよく喋り笑ったが、明らかに落ち着きがなかった。
作り笑いで優子や子供達に愛想を振りまいてもビリビリと苛立っていた。
彼女の波動がこちらにも伝わり和やかな空気は最後迄生まれなかった。
先発隊の一部の反乱者たちがマスコミなどに告発し、
ことは刑事事件になりそうな日本国内の空気だった。
女史は日本の騒ぎを後にアメリカに逃げて来たのだった。

翌日、北原たちはディズニーランドに行った。
どの館も人で一杯だった。
ポップコーンやハンバーガーを食べたり巨大鮫ジョーズに
歓声を上げたりしていた子供たちだが、
心から楽しんでいる風はなかった。 無理もないと北原は思った。



「土人の国よりもアルゼンチンに来ませんか?」



ロスからブラニフの飛行機でペルーのリマに寄って
パラグアイへ飛ぶ。 アンデス上空で機は上下に激しく揺れた。
「どこに行くのですか?」日系二世のスチュワーデスが話し掛けてきた。
「パラグアイです」と答えると
「そんな土人の国にいくよりもアルゼンチンに来ませんか」
と勧めてくれた。
優子と子供達も気分が悪いらしくグッタリしている。
「土人の国」と聞いて優子の顔はますます蒼白になる。
やがて機は下降体制に入った。
下を見ると今迄のアンデスの赤茶けた山肌から一変して
緑の草原が続いている。
点々と赤い屋根瓦の民家が見えてきた。
ガガーッと飛行機は草原に着陸した。パラグアイの首都、
アスンシオン空港だ。
これが飛行場か?平家のバラック建てが入国審査を行う
空港事務所らしい。 大体想像はしていたが、
予想以上の後進国だな、と北原は思った。

空港には30代の男女3人が笑顔で出迎えた。
いずれも気難し気な陰気な顔だった。
首都アスンシオンからイパカライファームまで40㎞。
「これが国際道路2号線でサンパウロに通じています」
国際道路といっても片側1車線しかない。
バスや大型トラックとすれ違うのもヒヤヒヤものだ。
1時間以上走っただろうか?郊外の町を抜けて左右に
草原が広がってきた。

「そのペプシコーラの看板から我々の土地です」
案内の広瀬という男性が陰気な顔をほころばせた。
笑うと一変、人の良さそうな笑顔になる。
悪い人ではなさそうだ。
優子は飛行機からずっと半病人のような青い顔でうつむいたままだ。
子供達は道中珍しそうに左右をキョロキョロしていた。
レンジローヴァーのそのジープは相当の年代モノで揺れがひどい。
ジープは舗装路を右にガタンと下りて木製の門の前に止まった。
広瀬が飛び下りて門のかんぬきを外し、
その木製門扉を奥に押し開く。
その門の左右にユーカリ並木が続いており正面に見える
赤れんがの白い平家建ての家まで
約300m~400mの並木道が続いている。
この並木道はいい、と北原は思った。



パラグアイ・イパカライファーム



ユーカリ並木を抜けると正面のレンガ建て平屋からバラバラと
数人のエプロン掛けの女性達が走り出て来た。
「いらっしゃい」「いらっしゃい」「疲れたでしょう」
口々に声をかけてくる。 子供達も元気に車から飛び下りる。
優子は青い顔にムリヤリ笑顔を浮かべて皆に挨拶をする。
北原も「ウ~ン!」と背伸びをして
このイパカライ・ファームの大地に立った。
1976年8月12日、この日を俺は絶対忘れない、
と改めてその日時を心に刻み込んだ。

パラグアイの8月は日本の2月の冬になる。
だがその日は、夏を思わせるようなポカポカ陽気だった。
正面の平家建ては「本部」と呼ばれているらしい。
その本部右、50m程離れた所にやや大きな白い平家建てがあった。
北原たちの部屋はその建物内にあるらしくそちらに案内された。
その建物入り口前のポーチで数人の若者たちが車座になって
座り込んで豆の枯れ枝を棒で叩く農作業を行っていた。
「やぁ、いらっしゃい!」全員が笑顔を向けてきた。
中に白い顔をしたパラグアイ人もいた。

その建物は、新館と呼ばれていた。
若者達の横を通り抜けホールに入ると何とまーるくベニヤ板で囲った
中にヒヨコがピヨピヨ騒がしく鳴いている。
青いジーパンに長靴の如何にも度の強そうな黒ぶちの
眼鏡をかけた小柄な日本人男性が忙しそうにヒヨコの世話をしていた。
「やあ~、お疲れになったでしょう深田文雄です。
すみません、こんな所でヒナを飼っていて…」
苦笑いしながら深田は言った。
「近所に住んでいる韓国人の養鶏家キムさんが分けてくれたんですよ。
4~5日ここで飼ってアスンシオンのメルカード(市場)に
売りに行くんですよ」 数百羽いるだろうか?
糞や飼料の混じりあった独特の臭気がした。
ヤレヤレ、これはもう一度覚悟を決め直さなければ、
と北原は気を引き締めた。
子供達は珍しそうにヒヨコを覗きこんで触ろうとしていた。
一旦、気を取り直したように見えた優子は再びガックリと
落胆している様子だった。
ホールは約15m四方だろうか、左右に各2部屋づつ計4部屋ある。
玄関ホールの正面奥にトイレとシャワールーム。
右手に台所があった。シャワールームは未だ工事中で
パラグアイ人の中年の左官が1人、口笛を吹きながら壁塗りをしていた。

「ここが北原さんたちの部屋です」と広瀬。
「隣が近藤さん親子、向い側が僕らの部屋です。
深田さんの部屋は僕の隣です」 この新館は家族持ちの部屋ばかりらしい。
木製のドアを開けると8畳程度の広さだ。正面に観音開きの窓が一つある。
白い壁、天井はなく屋根瓦の下地と木の梁がむき出しの殺風景な部屋だ。
タイル張りの床に粗末な木製のベッドが4つ置いているだけだった。
毛布と枕がそれぞれのベッドに置いてあった。
トランクを部屋の中央にドカッと置きベッドに腰をかけると
ギーギー軋む音がした。
マットを上げてみると金網だった。

「パラグアイ時間は今、3時です。夕食は7時からです」
と言って広瀬は去った。
日本とパラグアイの時差は13時間。 すると今、日本は午前4時か…。
北原は腕時計を修正した。
優子は北原に背を向けてベッドに寝て黙り込んでいた。
子供たちも所在なさそうにベッドに腰を下ろした。
「外に出て見るか?」北原は子供たちを誘って部屋を出た。
北原は子供2人を連れて青年達が車座になって座って
農作業をしているポーチを通って表に出た。
さっき入って来た並木道は右手にある本部の建物から
国際道路2号線に真直ぐ伸びている。
ユーカリ並木の影がこちらに向って長い影を落している。
道路側が北西に当るのだろう。
ユーカリ並木の左側は一面畑が広がっている。
新館前20~30mまで芝が植わっておりその先一帯が畑だ。
遠く離れた畑の左端の方で一人の青年がトラクターに乗って
頻繁に往復して畑を起こしている。
確かこのファームの広さは90町歩(27万坪)と聞いている。
子供と一緒に本部前に行った。本部前から北側、
つまり本部を背中に正門に向って立った
右側方向にユーカリの林がある。
そのユーカリの林と本部との真中辺りに奇妙なものが見えた。
モッコリ土盛りした上にアルミトタンが夕陽を受けて
キラキラ反射している。
近寄って見るとそれはアルミトタンで周りを囲んだ
円形貯蔵プールだった。
子供が緩やかな勾配の土盛を駆け上がった。
土盛が高さ1、5m、アルミの囲いの高さ1m40cmで
直径約15mの貯蔵プールには3分の1程、水が溜まっていた。
そのプールのすぐ傍に井戸がありその隣に4隅を鉄柱で支えられた
高さ10m程の大きな風車が回っておりタンクが取り付けられている。
井戸水を風車で上のタンクに汲み上げて
ホースでその貯蔵プールに入れている。
井戸の近くに小さな小屋があった。
傍に近寄って見ると若い女性が1人、
しゃがみ込んで炊き口から薪を放り込んでいる。
「もうすぐお風呂が湧きますから、
今日は北原さん家族に一番に入ってもらいます」
その風呂場は、明らかに素人がレンガを積んで作ったと見えて
レンガを積んだ間のセメントがむき出しだった。
屋根も瓦ではなく家畜小屋などによく使われている
粗末な素材を使っていた。
手作りの木製の入り口の戸を開けて中を見ると何と五右衛門風呂だった。
中は3m四方しかなく中で衣類を脱ぐようになっていた。
五右衛門風呂はセメントで周囲を固めており床には
一応簀の子が敷いてあった。
この風呂に何十人もの人が入るのだろうか?
この風呂を見たら優子は、またまた ショックを受けて
寝込むかも知れないと北原は不安になった。



イパカライ・ファーム  ー粗末な夕食会ー




貯蔵用プールからユーカリの林に向って立つ右側に
風呂小屋と風車があるのだが、その横、
林の方に細長い長家風の平家建てがあった。
白くペンキで塗られたその建物は、女子寮だ。
そして林に向って左側に青年の家があった。
つまり女子寮と青年の家は、サッカーが出来る位の
芝の広場を前にして向い合っている。
女子寮は多少なりと住居の趣きはあるのだが、
青年の家は10cm巾の木材を組み合わせて作った荒削りな
馬小屋を改造したものだった。
窓もガラス窓などではなく、戸板を上に押し開いて
突っかえ棒で支えるという風だった。
この冬の時期はさぞや寒いだろうな、と北原は思った。
青年の家の裏は、国際道路まで畑になっている。
そして女子寮の裏は木柵と針金で区切られた牧場になっている。
このイパカライファームを俯瞰すると90町歩(27万坪)の内、
国際道路に面した方、3分の1が農作地で奥地3分の2弱が
牧場となり住居部分は約3町歩(9000坪)、
ユーカリ林が2町歩(6000坪)となろうか。
その中に結構大きな池もある。
首都アスンシオンから41kmでブラジルに通じる
国際道路2号線に面している
当ファームの立地条件は恵まれているといっていい。

千乃女史の日本での説明は、車や建物の数など多少、
大風呂敷を広げた感があるものの全くのデタラメとは言えないな、
と北原は思った。
北原は子供達とユーカリの林に入った。
ユーカリ特有のいい香りが漂う。
枯葉をカサコソと踏みしめて歩くとあちこちに枯枝が落ちている。
これらが風呂の薪になるのだろう。
北原は二人の子供達が嬉々として木々の間を走り回る姿を見ながら
ここ数カ月間の目まぐるしい出来事を思い返した。
これまでの安楽な世俗的な生活を棄てて、
日本の反対側のパラグアイの地で精神的な生活を始めることの
意味を考えてみた。
日本出発前に北原を襲った怒濤のような荒波は何とか乗り越えて来た。

全員が本部サロンにボツボツ集まって来る。
北原は着席して人数を数えてみた。
8人がけの長テーブルが4つ。 30数人いる。
新館ホールでひよこの世話をしていた深田文雄家族
(30代の夫妻に5才の男の子と2才の娘)。
50年輩の小島夫妻。寺岡家族(30前後の夫妻に4才の女の子)、
近藤家族(60年輩の両親に20代後半の息子)、
二宮家族(40代の夫妻に10代の兄妹)、
安藤父娘(50代の父親と19才の娘)、
片山母娘(50代の母と20代の娘)、
そして70才近い小柄な後藤老人、
どうやらこの老人が東京の講演会で千乃女史が自慢げに話していた
頭に毛が生えてきたという人らしい。
確かにホヤホヤと細い毛が前頭部に生えている。
それと独身男性が5人。 独身女性が7人。
深田文雄が立ち上がって挨拶を始めた。
どうやらこのフアームの責任者らしい。
北原家族が到着したことを報告すると全員から歓迎の拍手が起きた。
北原家族も立ち上がって頭を下げた。
そして今日1日の報告が各担当者から発表が行われた。
牧場担当の小柄な磯崎博が口を尖らせてはきはきとした口調で
牛やミルクの出具合等を報告した。
大柄な朴訥とした久保健夫から畑の耕作状況が報告された。

一通り報告が終わると 若い女の子が
1人立ち上がって本の朗読が始まった。
「マラバー農場」というアメリカの開拓時代の大農場の物語だ。
この「輪読会」というのは、毎晩、交代でこの本を
10分程度朗読するらしい。朗読が終わると、食事だ。
食事当番の女性達がアルミカップに入れたスープを配る。
御飯は、どんぶり茶わんに7分目の玄米御飯だ。
スープには骨付き肉とキャベツが入っている。
テーブル上には、畑で収穫した野菜だろうか、
ピーマン、玉ネギ、ジャガイモなどの油炒めが大皿に盛られて
ドンドンと置かれている。

北原は「こんな粗末なものをよく食べているな…」
と働き盛りの青年や子供達が可哀想になった。
北原たち家族は、到着日初日、夕食前、
五右衛門風呂に最初に入る事が出来た。
その夜の夕食で優子は全く食べなかった。
確かに喜んで食べられるような食事ではなかった。
夕食後、食事当番の女性たちがバタバタと片付けに取りかかった。
北原たちは新館ホールの自分達の部屋に帰った。
ホールには相変わらずヒヨコがピヨピヨとうるさく鳴いており、
匂いも強かった。

そのホール左右の壁に手作りの本棚があり、
数千冊の本が並べられていた。
ここには電気は入っていない。
モーターで電気を起こしており消灯は10時だった。
真っ暗になった部屋の窓から星空が見える。
星空を眺めながらベッドに横になると、
疲れていた北原たちはたちまち深い眠りに落ちた。
朝食はパンとミルク、バター、グァジャワのジャム。
パンは固くポロポロとパンクズがこぼれる。
ミルクは勿論、今朝の絞り立て牛乳だ。
これは味が濃くうまい。バターは牛乳を発酵させて作ったものだ。
独特の香気があるグァジャワは、当ファーム内に数本ありうまい。
午前9時から本部サロンでスペイン語の勉強会が始まった。
全員がノート、筆記用具を持って思い思いの席に座る。

「皆さんがパラグアイ人から、usted(ウステ)…
と呼ばれる時はまあまあ敬意を払われていると思っていいのですが、
vos(ヴオ)と呼ばれた時は軽く見られていることになります。
まあ、これは友達言葉で、あんた、とか、お前というように
親しみを込めて呼ぶのですけどね」 講師は山南進(20才)、
スラッと背が高く色白の紅顔の美声年だ。
北原はこの青年の赤い唇の口辺に時折、
驕慢の色が浮かぶのを見逃さなかった。
「彼が天才山南か…」北原は千乃女史の話の中で再三出ていた
女史お気に入りの青年だ。
スペイン語講座は結構進んでいるようだった。
「スペイン語日常会話集」で簡単なフレーズをいくつか
付け焼き刃的に覚えただけの北原にとっては非常に興味深く覚えられた。
勉強会は30分程度で終わった。
男性は営農班、牧畜班に別れて小春日和の陽の下で
それぞれの作業にとりかかった。
山南は渉外を担当しているようだった。
経理責任者の秋山明子(43才)と一緒にボロジープで外出していった。



―農作業―




いつもつなぎの作業着を着ている後藤のじいちゃんは、
本部裏の自分の畑に行きマイペースで農作業に励む。
牛糞、鶏糞をたっぷり作物の根や畝にかけた畑には
自慢のピーマン、茄子などが大きな実をつけている。
朴訥とした久保健夫は黙々とトラクターに乗って開墾中の畑に向った。
女性たちは食事班、掃除などにとりかかった。
ユーカリ林に薪を取りにおばあちゃん達が
小さな子供達の手を引いて出かける。
賢太と達也は慶応大学卒業の近藤克利(29才)に
個人授業で勉強を教えてもらうことになった。
近藤は両親と一緒に当ファームにきており、
彼の父親は東京の民放ラジオ局のオーディオ部長を
定年で退職した人だった。
14才の二宮勇は深田英二に個人授業を受けていた。
彼はリーダー深田文雄の弟で独身、早稲田大学を出ている。
北原は青年の家の裏の畑に深田兄や空港に迎えに来た広瀬らと
一緒に向った。 畑にはピーマン、トウガラシ、
トマトなどが植えられていた。
作業は草取りと堆肥作りに分かれて行われた。
これらの作物はアスンシオンの市場に売りに行くという。
リーダーの深田兄は、北原と同年令の35才だった。
黒ぶちの厚手の眼鏡の奥の眼が鋭い。
分厚い両唇が笑うと人懐っこい笑顔をつくり出す。
彼は東京の中堅印刷会社の部長職を辞めて妻と幼い2人の子供、
それに弟と4人で当地に来たのだった。
彼は在職中、印刷機械の製本行程のシステムを
画期的に変えて通産大臣賞を受けたという博士号を持っているインテリだ。
彼の畑作り、堆肥作りなど科学者らしい工夫が随所に凝らされていた。
北原にとって農業は初めてだったが、
じっくりと土に取組むのもいいものだ、と思った。



バスで首都アスンシオンへ



当ファームに入って3日後の8月15日、定期バスで全員、
アスンシオンに出かけた。
パラグアイのバスは、タクシーのように手を上げればどこでも停まる。
首都アスンシオン市まで41㎞、約1時間半。
この15日は、Nuestra Senora de
 ASUNCION(我らが聖母マリア昇天の地)の祝祭日で
盛大なパレードが行われる。
1537年のこの日にアスンシオンが建設された。
因にパラグアイの独立記念日は1811年5月15日。
全員が乗るとバスは一杯になった。
乗客が眼を丸くして東洋人の一団を見守る。
パレードは各国の大使館、領事館などが立ち並ぶ
マリスカル・ロペス通りで行われた。
大通り両側の歩道に大勢の市民が立ち並んで
パレードを見守っている。
空軍や海軍(海はないのだが一応海軍と呼ばれている)、
陸軍の装甲車両、工兵隊、イギリスの騎兵隊のようなきらびやかな
甲冑を身に付けた騎馬隊や儀仗兵などが次々行進していく。
北原は夢中でシャッターを切った。
ーと、群集を整理していた警備の兵士からカメラを取り上げられた。
まだ10代であろう少年兵士がきつい眼で何か言っている。
北原もやっと飲み込めた。
そうか、この国は軍事独裁政権だった。
軍事パレードなどは機密扱いとなり撮影禁止だ。
結局、中のフイルムを抜き取られた。
北原は改めて自分が永住しようとしている国の厳しい現実に目覚めた。
帰りのバスは満員だった。
途中で優子が真っ青になっているのに北原は気づいた。
途中の小さな町で北原たちはバスを降りた。
日本で看護婦をしていたという原田智子が 付き添いで
一緒に降りてくれた。
白い壁が剥げ落ちた古びた小さな食堂に北原たちは入り、
優子は椅子に座るとテーブルに顔を埋めた。
そこのトイレを借りて暫く休んだ後、北原たちはファームに戻った。



パラグアイと日本 不思議な因縁




北原達が到着して最初の日曜日、メンバー全員が
バスでパラグアイ最大のカアクペの教会に行った。
パラグアイはカトリックを国教としており、
マリア信仰が盛んだ。
ファームの前の国道2号線を東方向ブラジル側国境に向って
小高い丘を登り10㎞行った所にカアクペの街がある。
国土の殆どが平野で大きな山脈のないパラグアイで
峠道となっているのはこのカアクペ位のものだ。
このゆるやかな峠道から振り返るとパラグアイ最大の
イパカライ湖が見える。
この湖は琵琶湖とほぼ同じ面積だ。
北原たちのファームからイパカライ湖は車で15分位である。
カアクペの教会は昔、あるパラグアイ人が山賊に襲撃された時、
木陰に隠れて聖母マリアに必死に祈った。
「もし、私を助けていただいたらこの地に教会を建てます!」
聖母マリアは降誕し、彼の祈りを聞き入れ、彼を匿った。
山賊たちは、その彼の周辺を散々捜しまわったにもかかわらず
彼を見つける事は出来なかった。
その加護に感謝して彼は小さな聖堂を建てた。
この小さな聖堂横にこんこんと尽きる事のない
清冽な奇跡の泉が湧き出るようになった。

ここカアクペの下には、南米大陸を縦横断する
巨大な龍のような地下水流、グアラニー水脈が走っている。
従ってカアクペは「水の聖地」でもある 以後、
この地に大聖堂が建立され、
いつしか毎年12月8日、
聖母マリア降誕の大祭が行われるようになった。
この日はパラグアイ中から数十万人もの参拝者が訪れる
パラグアイの大祝祭日である。
この大祭にはフランスの奇跡の地、ルルドの泉のように
病気や怪我に苦しむ人々、御利益を祈願する人々が参拝する。
パラグアイの12月は夏である。
炎暑の中、人々は遠くから苦行僧のように歩いて歩いて
カアクペを目指す。
世界中の聖地巡礼と同じように難行苦行で苦労する程、
御利益は大きい。 因に首都アスンシオンの建設記念日が
聖母マリア昇天の地とされる8月15日で、
カアクペの地に聖母マリアが降誕したのは、
12月8日であった。
これらの日は、日本の重要な日時に奇しくも符号する。
日本が真珠湾を奇襲し大東亜戦争が始まった日が12月8日、
この日に日本の反対側の地、パラグアイに聖母マリアが降誕すると
いう奇瑞を起こしている。
日本の敗戦の8月15日は、聖母マリア昇天日で
首都アスンシオン建設記念日である。
さらに日本とパラグアイの関係で面白いのは、
時のマロニー大統領が、世界でも有数の親日家で
「自分は明治天皇の生まれ変わり」だと信じ込んでいることだ。
マロニー大統領の誕生日は明治天皇と同じ11月3日である。
単純と言えば単純だが同大統領は、軍人だけに日本の明治維新、
日露戦争、日本海海戦に精通している。
日本からの要人が大統領に会見した際など、
大統領は好んで日本の戦い振りを賞賛する。
日本人の方が知らない事が多く、大統領の該博な親日家振りに
皆、舌を巻いたという。

当農園栽培の野菜を主体にした自然食の献立は相変わらず続いた。
ダイエット志向派にとっては、もってこいの
健康的なファーム生活だろう。
しかし、育ち盛りの子供や青年達にはつらい食事だ。
夕食後の「マラバー農場」の輪読会も淡々と続けられた。
この「マラバー農場」の著者ルイズ・ブロムフィールド
(1896~1956)は、アメリカ人作家で1933年には
ピューリッツア賞(小説部門)を受賞している。
彼は作家であり、農業者でもある。彼は青年の頃からアメリカの
商業主義的文明に反発していた。
彼は第一次世界大戦に参加し、18才の頃からフランスの
ブルターニュの自然の中で当地の農業者が土と共生する
精神的な農業を行っていることに共鳴していた。
自身も小さな農園で農業をやりながら作家活動をほぼ25年間続けた。
しかし、ナチズム、ファシストの荒波がヨーロッパを襲い、
彼はそれから逃れアメリカに帰った。
そして先祖が住んでいたオハイオ州のプレザント渓谷で農場を始めた。
それが、この「マラバー農場」である。
彼が目指したものは化学肥料などを排した今日でいう有機農法である。
食料穀物、飼料穀物、牧草の栽培、家畜の飼育等が計画的に実行された。
やがてその内の一部を5家族による共同経営にして同農場は規模を
拡大し大農場となった。
このマラバー農場の名前はアメリカのみならず、
ヨーロッパにも広まり、連日訪問客が訪れ、
休日には1000名にもなった。
このマラバー農場が千乃女史の理想の農園の姿なのであろうことは
北原にも段々分かった。  



「キムさんが来たヨ~」




 ファームに毎日、外部から1人のお客が古いジープで
ブロンブロンやって来る。  
「キムさんがきたよう!」と深田リーダーの5才になる健ちゃんが
バタバタと皆に大声で知らせる。  手の空いている
小島登美婆ちゃんや片足が不自由なその主人が足を引きずりながら
ニコニコと表に出て来て浅黒い顔のキムさんを出迎える。
深田兄弟や北原たちもキムさんを囲んで談笑を繰り広げる。
 みんなの人気者キムさんは50歳代だろう。
当ファームからカアクペに向う丘の上で兄さんと
養雛場を経営しており、連日、そのヒナをアスンシオンや近郊に
販売に出かける。ここのヒナもキムさんから譲り受けたものだ。
新聞もラジオ、テレビもないここではキムさんが唯一の情報源だ。
キムさんはいわばお隣さんである。  
「卵の値段が上ったよぅ~。どうしてかねぇ~?」
キムさんの日本語は韓国語がそうであるように、
つばをはき棄てるような独特な強いイントネーションで話す。
みんな 「ホゥ~、ホ~…」と聞き耳を立てる。
 連日、キムさんを囲む情報交換会が繰り広げられた。

ある日、キムさんのジープに乗せてもらって
アスンシオンのメルカード4(4番市場)に
農場のヒヨコを売りに男女6人で出かけた。
キムさんは、自分の養鶏場の卵をメルカードの卵業者に卸しに行く。
メルカードは汚くて臭くて多くの人でごったがえしている。
北原たち男性3人は、信号の一角で段ボール箱を
手ごろな大きさに切ってヒヨコを入れて、
通るパラグアイ人に「Pollito(ポジィト・ヒヨコ)~
Pollito~!」と呼び込みを始めた。
子供連れの母子が足を止めて「ケ ボニータ!(可愛い)」
と覗きこんで買って行く。

女性達は両手で御盆に乗せた手作りケーキを売っている。
こちらも結構売れているようだ。
日銭商売は馬鹿に出来ない貴重な農場の収入源だ。
メルカードを往来するパラグアイ人たちは、
いかにも生活力旺盛な太っちょおばちゃんが多い。
この国の住民の90%がスペイン人とグアラニーインディオの混血だ。
アルゼンチンやチリが原住民を皆殺しにしたのに比べて
パラグアイのコンキスタドール(征服者)たちは、
進んで彼等と混血化したため今日のパラグアイ人が誕生した。
彼等は背丈も顔の色なども日本人と変わらないので親近感がある。
これがアングロサクソン系やゲルマン系の人種の中に放り込まれたら
圧倒的な体格差でコンプレックスを感じるだろうが、
その点、パラグアイ人との付き合いは気楽に出来る。
北原は、結構、この国が気にいってきた。
2人の子供たちは、北原家族到着後、3日目に青年の家に移った。
優子も洗濯板で手洗いする洗濯や五右衛門風呂、
テレビもラジオも新聞、週刊誌もない、原始生活に徐々に慣れてきた。
北原たちの農作業もどちらかといえばゆるやかなペースで行われていた。

そんなある日、「先生が来るらしい」という話が広がった。
                           (続く)


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