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2009.07.22 (Wed)

脱ニッポン…  日系オバマを!

所詮、浦島太郎 初めての辻説法


ーとは言え、日本国内の新聞、週刊誌は同業のよしみか、
この南米パラグアイのドン・キホーテ北原の訴え
「在外日本人選挙権問題」を異例の扱いで大きく取り上げた。

10月、沖縄で行われた「世界ウチナンチュー大会」
に出席した北原は、郷里、大分市に戻り選挙事務所を
立ち上げた。

大分市では、高校のラグビー部OB会、友人、知人関係を
中心に後援会作りに励んだ。

同市中心部で初めて辻説法をする時には、
さすがに勇気がいった。
だが、一旦、ハンドマイクを持ち、通行人に話し始めると
度胸が座り、いくらでも大声で話す事が出来た。
同市一番の繁華街のデパート前に自転車を止め、
その自転車に
「草の根海外日系ネットワーク・北原ジロウ」と
青地に白く染めた幟をくくりつけてその前で辻説法を行った。
晩秋の大分にも冷たい北風が吹くようになった。

北原は勢い込んでマイクを握ったものの地方都市の人たちに
何をアピールするかで頭を悩ました。
物理的にも意識的にも海外と縁遠い大分で海外日系社会の
事を話してもピンとこない。
やむなく最初は傍目八目という言葉があるように
次の様な海外から見た日本の問題点を話した。

「皆さんの税金であるODAが海外でドブに
捨てられているのをご存じですか?」

「中南米を切り捨て、アジア、中国一辺倒になることの
危険性」
「グローバルグローバルと唱えながら、日本は未だに
江戸時代以降、精神的な鎖国体制から脱し得ていない」

「政治家にとって国際問題や外交が選挙で票にならないから
誰も真剣に取り組まなかった。そこにあの五郎さんが
外務省を牛耳りODAを食い物にしてきた。
今の選挙制度が続く限り国際関係に精通した
政治家は生まれない」

「東の千葉、西の大分が金権選挙の双璧といわれる
風土をなくそう」

「生まれた時から有り余るモノに囲まれた生活を過ごしてきた
若者たちよ。何もない途上国でボランティア活動に励もう」

「活力に満ちたシニア世代も数十年の人生で蓄積した
経験技術を途上国で活かそう」等々…。

これらは確かに正論ではあるが聴衆の反応は
今一つ鈍かった。


ある人が北原に「もっと地元に関係ある話題を訴えた方が
いいのでは…」と、アドバイスした。

北原は周辺市町村を路線バスで回った。
北原が居た26年前に比べて県内のあちこちに
高速道路が出来ていた。
それに比べて周辺市町村の寂れ様が気になった。
バス旅行から帰って見聞した周辺市町村のこと、
市内商店街の衰退ぶりを辻説法の時の話題にした。
これには確実に聴衆の反応があった。
皆一様に聞き耳を立て、時には同意の拍手も起きた。

「全国3千数百ある市町村の3分の2以上で過疎化が
進んでいる。
交通が便利になることは周辺市町村の過疎を促進する。
郊外の大型ショッピングセンター栄えて
駅前商店街が寂れる」

「駅前商店街は人口が減っていく若者を対象にするよりも
数も多く、お金も持っている中高年層を対象にすべきだ」

「駅前商店街をお年寄りの原宿たる東京のトゲ抜き地蔵で
有名な巣鴨のような商店街にしてもいいのでは…」

「目の肥えたシルバー世代が夜、ゆったりと
オープンカフェでコーヒーを楽しんだり
ウインドーショッピング出来る様な洒落た
商店街作りが必要だ」

「周辺市町村の過疎化にストップをかけるのが
難かしい以上、交流人口(観光客)を増やす方法を
考えた方がいい」
「それも点ではなく面として…」

「これからの政治家は地元の特定業界団体の利益を
図るために道路を造ったり、ハコモノを作るのでなく
地域発展のための戦略的な企画を真剣に考えるべきだ…」
等々…。

辻説法も場を重ねてくると世代別、男女別に何を話せば
受けるかということが段々分かってきた。

辻説法をしながらも北原は自分の言葉の空しさに次第に
嫌悪感を覚えてきた。

如何に北原が郷里大分の発展のために熱弁を振るおうと
所詮、26年振りに帰ってきた浦島太郎に過ぎない。
また、北原も海外日系社会の重要性を内外に訴え、
その活用を図るために全身全霊を傾注している以上、
自分の地盤は海外日系社会だ、という意識を拭いきれない。
「大分の発展のために…」と言う言葉に今一つ
真剣味が足りないのもヤムを得ない。

大分で活動して暫く経ってから愛知県の人材派遣会社の
林田社長から電話が入った。

「南米の日系就労者がいろんな面で困っている。
力を貸してほしい。こちらで活動した方が支援者の理解を
得やすいですよ」との電話が再三入った。


北原が最初に事務所を立ち上げる時に
3つの選択肢があった。

「海外日系社会の人権問題を取り上げるなら
何と言っても東京ですよ」とは、
マスコミ関係者からのアドバイスだった。

一方、愛知県は南米からの就労者が日本で一番多いので
県民や地元マスコミの理解を得やすいとの
アドバイスもあった。

確かに東京新聞に掲載された北原の記事が愛知県の
中日新聞では見出しを変えただけで2回も掲載された。
しかし、昨年の時点では東京も愛知もなんら拠点が
なかったので勝手知ったる郷里大分での事務所立ち上げが
一番手っ取り早かったし、活動もしやすかった。

安易に事務所は開けたものの、やはり大分は、
距離的にも意識の面でも南米から遠かったし
東京からも遠い、所詮、地方都市に過ぎない。

愛知県では2つの人材派遣会社が事務所を
無償で提供すると申しいれてきた。
別なある団体も支援を約束してくれた。

海外在住の日本人の人権問題をアピールするために立った
北原が南米からの出稼ぎ就労者の人権問題を
取り上げるのは必然のなりゆきであろう。

「自治体に出稼ぎ就労者の問題を相談に行ったら
『南米に帰した方がいいんじゃないですか』
と剣もほろろでしたよ」と嘆いていた林田社長。

大分での活動に限界を感じていた北原は、
林田社長の呼びかけに心が動いた。
名古屋に飛んだ北原は、林田社長に会った。
同社長は愛知県でも大手の部類に入る人材派遣会社を
経営しており、50代のエネルギッシュな人物だった。

「いろんな政治家の先生方に日系人就労者問題を
相談に行っても全然理解出来る人がいないので困りますよ」

南米からの就労者は、バブル期の日本の3K業界に
とっては単なる使い捨ての労働力に過ぎなかった。
ブラジルの就労者たちが固まって住むようになった
団地では日本人居住者がその団地から逃げ出すという
現象が起きていた。

夜、仕事帰りの女性が団地の公園を歩いている時、
後ろから大男の黒人がノソノソ歩いて来ると
「恐くて逃げ出す」というのも分からないではなかった。

使い捨てられて失業した彼等が、自動車泥棒や麻薬の
売人に転落するというケースも多いようだった。
また、親に連れられて来た子供たちの不登校も
大きな問題になっていた。

南米日系就労者を労働力としか考えていない同業界でも
同社長は、就労者の人権や失業後の彼等のケアのため
NPO法人を作っているという異色の経営者だった。

北原のことは中日新聞で知ったらしかった。
マスコミが海外からの風変わりな立候補者北原を好意的に
取り上げていることから、南米からの出稼ぎ者が多い
愛知県下で北原を担げばそれなりにメディアが
出稼ぎ就労者の社会問題を
取り上げてくれるだろうという計算のようだった。

「当選は無理ですよ」社長は北原に釘を刺した。

北原も勿論、当選など最初から考えていなかった。
そもそも、北原が手を挙げようとしたのは、
海外日系社会の存在を知らしめるとともに、
折角出来た在外選挙権の選挙人登録を増やすための
起爆剤になればとの止むに止まれぬ思いから
ドン・キホーテ役を買って出たのだった。

北原が最初行動を起こした時、内外のメディアは
年内にも解散必至、という論調だった。

何しろ「自民党をぶっ壊す!」として総裁選挙に勝った
大泉首相がすぐにでも解散総選挙をやるのではとの
多分にマスコミの勝手な思い込みもあったのだろう。

北原も3、4カ月の短期決戦であれば手持ちの資金で
名乗りを上げる迄の行動は出来るとの計算だった。
所が年内に解散はなかった。

正月を過ぎると春3月には解散総選挙か?
というマスコミ予測が盛んに流された。
だが、これもなかった。

大分市内に借りた事務員が一人もいない事務所で北原は
折り畳みベッドを広げて寝泊まりした。
市内に遊説に出る時は、事務所にかかってきた電話は
携帯に転送するように切り替えて出かけた。
次第にマスメディアに解散の噂も出なくなった。

辻説法中、雨が降り出し自転車でガランとした事務所に
一人帰ってずぶ濡れの衣類を脱ぎ、途中で買った
コンビニ弁当をボソボソ食べる夜などは、
さすがに虚しい気持ちに陥った。
夜、傘をさして自転車で毒々しいネオンが煌めく歓楽街を
横目に銭湯に行く。

髪を洗っていると髪の毛がバサバサ手についた。
元来、楽天主義が信条の北原もさすがに
(ストレスを感じているんだな~)、とため息をついた。

月日だけはどんどん過ぎてゆき、当選の目処さえない
絵空事の空しい遊説…。
立候補に必要な供託金さえもなくなった。
たとえ愛知県に事務所を移したとしても立候補するための
供託金もないのでは、支援者を欺くことになる。

そんなある夜、電話が鳴った。
「宮崎編集長が倒れて入院したわよ!」
パラグアイの優子からだった。
                        (続く)








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2009.07.23 (Thu)

脱ニッポン…  日系オバマを!!

編集長倒れる!


北原は心臓をグシャッと大きな手で掴まれたように
鼓動がドキドキしてきた。
もともと身体の余り強くない宮崎編集長は、
年中パラグアイの薬草を煎じて飲んでいるのだが、
1、2年に一度倒れ病院に緊急入院する。
彼は北原より4歳下だから56歳になる。
しかし、この時は、嫌な予感がした。

懐具合が枯渇してきたのと大分での活動に限界を
感じていた北原はここらが切り上げ時だと覚悟を決めた。
愛知県からの呼びかけも一つの転機にもなった。

愛知県の人材派遣業者から南米就労者の直面している
様々な問題に力を貸して欲しいという要請がきたので
愛知県に選挙区を転出するとのハガキを
内外の支援者に郵送した。

事務所を閉める3日前、地元のラジオ番組の
ディスクジョキーにゲストとして招かれ
パラグアイの事をリクエスト曲の合間にしゃべる
というものだ。
これは大分KBS放送に務めている高校時代の
ラグビー部の同級生が話をまとめたものだった。

事前にディレクターが「向こうのサッカーの話で
盛り上げたら如何ですかね。ゴールキーパーの
チラベルトは日本でも結構知られていますから…」
「いいですよ」と生返事したものの、
この日の北原はどうにも気分が落ち込んでいた。

何しろ戦陣の撤退というぶざまな状況だから
意気が上がる筈もない。

若い男性アナウンサーとのサッカーの話は
何とかこなしたものの、女性アナウンサーが
パラグアイの学校教育のことに触れてきた。
日本は7月末、夏休み中である。

「パラグアイの子供たちの主な遊びって
どんなものですか?」
「サッカーですね。暇さえあれば一日中サッカーに
興じていますよ」
「塾とかピアノ等習い事には行かないのですか?」
「塾とかないですよ。子供たちは一日中気ままに
遊んでいますよ」
北原は自分の子供時代とだぶらせながら伸び伸びとした
子供たちの生活振りを話した。

「子供たちにはきちんとした規律が必要では
ないでしょうか?それじゃー、遅れますね~」
だから後進国なのだ、という侮蔑の響きが
彼女の言葉のなかにあからさまに秘められていた。
(お前らのような教育ママ的な親が蔓延するから
日本は息苦しくなって窒息死するんだよ!)。
いつの間にか、こんな価値観を持つ奴らが社会の主流を
占めていることに北原は改めて再認識し、愕然とした。
気持ちが一気に萎えた。

「やはり、自分は浦島太郎なんだ…」、
と鉛を咬んだときのような
苦味が口中に広がり胃がキリリと痛んだ。



パラグアイに急遽、帰国


大分の事務所を整理した北原は、8月、
パラグアイに帰国した。

事務机、ソファー、冷蔵庫等備品等は次の
再挑戦のために運送会社のレンタル倉庫に
保管してもらった。

パラグアイの8月は冬である。
バウチスタ病院に宮崎編集長を見舞った。

やせぎすの宮崎が更に頬がこけていた。
病名は肝臓ガンである。

「迷惑をかけてすみません…」
弱々しい声で北原に頭を下げた。
横でパラグアイ人の奥さんが所在無げに座っていた。
彼女とは恋愛結婚であった。
恋人時代が長くて結婚式をあげたのは
彼が40代半ばの遅い結婚だった。
子供は立て続けに3人生まれた。

「よぼよぼ爺さんになるまで働き続けなければ
ならないね」友人たちはそんな心配をしていた。
彼が中々結婚に踏み切れなかったのは、
彼の兄夫婦の生活が影響しているのではないかと
北原は考えていた。
アルゼンチン人と結婚した彼の兄はうまくいかなかった。
自己主張の強いアルゼンチン人の女性との生活は
誰がみてもうまくいきそうになかった。
彼の兄は結局離婚し日本人の女性と再婚した。

彼は入退院をくりかえしながら徐々に弱っていった。
自宅に見舞った時、腹水が溜りはじめたお腹を
なぜながらヤカンで煮出したアガリクスを飲んでいた。
ブラジルのアガリクスがガンに効くということで
本人も知人に頼んで取り寄せ、また北原も
サンパウロから取り寄せて渡していた。

「生命線がこんなに長いからきっと治ると思いますよ」
見舞に行ったある日、彼は、自分の左掌を見せて
自分に言い聞かせるように呟いた。

途中で日本に住んでいる彼の姉が
「日本で手術を受けさせたい」ということで
飛行機の手配もしかけたのだが、
飛行に耐えられないほど衰弱していたので
日本行きは中止になった。

パラグアイの夏2月、彼は病院で息を引き取った。
享年59歳だった。

元々病気がちの宮崎だったが、北原の長い不在が
彼の命を縮めたのかもしれない、と
北原は申し訳ない気持ちで一杯になった。

宮崎が亡くなって哀れだったのは残された
パラグアイ人の妻と14歳の長女と
10歳の男の子たちだった。

北原は宮崎の遺族に日系弁護士を仲介にたてて
退職弔意金を4年間、毎月分割して払うことにした。
というのは、一般的にパラグアイ人は一時に大金が
手もとに入ると一遍に乱費してしまうという
習癖があった。
また、彼女にその気持ちはなくても回りの親族たちが
事後のゴタゴタを引き起こすという例が多いので
弁護士をいれてきちんと手続きをした。
月づき生活費の足しになるような形で4年としたが、
これは長女が学校を出て働いて母親の手助けが
出来る迄という含みを持っていた。

それに彼女は、まだ30代半ばと若く金髪で
ちょっとした美人ということも北原をより慎重にさせた。

宮崎が亡くなってから毎月末、優子が宮崎の家に
その生活費を届けた。

数カ月を経た頃、優子が
「どうも森岡さんが一緒に暮らしているようよ」と
北原に告げた。
森岡というのは宮崎の甥にあたり病気に倒れた宮崎を
何くれと世話をしてきた独身の好人物だった。
独身といっても40近い人物で子供たちも
「ティオ、ティオ(おじちゃん)!」と懐いていた。
北原も優子と「あの彼だったら、安心だね」と、
ホッとして語り合った。


宮崎没後、北原は新聞社業務に精を出した。
編集業務は26歳の3男、翔が殆どこなすだけの力を
つけていた。
翔はこちらの高校を出て東京の私立大学に入学した。
毎日新聞の朝夕刊の配達をしながらの苦学生だった。
しかし、新聞配達は単なる配達だけに留まらず
集金業務も課せられ思った以上に激務だった。
また、パラグアイで日本語がいくら出来る、
といっても所詮、二世の悲しさ、日本生まれ、
日本育ちの学生に比べると日本語能力、一般常識、
歴史などすべてで追い付けず、やがて中退した。

北原は、翔を日本の大学入試の際、
日本人として受験させた。

翔は日本とパラグアイの二重国籍を持っていたので
外国人留学生としての資格はあった。
北原がそうしなかったのは、
翔の先輩から外国人留学生として入学すると
いろんな法律手続きで煩わしい、
という話を聞いていたことも
その手続きを怠った一つの理由だった。

外国人留学生制度を活用しなかったことを
北原は後悔した。
中退した翔を北原はパラグアイに連れて帰り
新聞社を手伝わせていた。

宮崎が亡くなって半年が過ぎた。

日本の文部省留学生としてグラフィックデザインの
勉強で東京の専門学校に入学した花梨は卒業後、
南青山の広告会社で働くようになった。
しかし、最先端の会社ではサービス残業が
常体化していた。
連日、早朝7時にアパートを出て午前零時過ぎに
帰宅する日々が続いていた。
いくら若い身でもこのままでは身体が壊れると
心配した北原はその会社を辞めさせた。
本人はまだ東京に未練があったようだが花梨も
パラグアイに帰らせて新聞社の広告や
印刷関係を手伝わせた。
子供二人の加入で業務もより強化された。
長男の賢太は、もう愛知県内の会社に勤務して
20年になる。
次男の達也はパラグアイの国際開発機構で働いており
どちらも二人の子供がいる。
子供達もそれぞれ自立した北原にとって
後顧の憂いはなかった。

パラグアイに帰った北原の元に内外の知人、
支援者たちから「本当に立候補するのかどうか?」
といった問い合わせが相次いだ。
結局、衆議院の解散総選挙はなかったが、
2004年6月の参議院選挙が来年に迫っていた。

その中にブラジルの邦字紙記者からの
問い合わせもあった。
正直な話、北原は全く再チャレンジ出来る
状況にはなかった。
資金不足は如何ともしようがなかった。




「ホント に出るの?」


その年の暮れが近付くにつれ北原は、
何れにしても自らの出馬宣言と、これまでの
選挙行脚に始末をつけなければならない、
という思いが強くなった。

2004年の年が明け、北原は今一度、
日本に行く決意を固めた。
ーと言っても資金は皆無だった。
イグアスの農地60Haも日本滞在中の資金として
売却してしまっていた。

最後の手段は借金しかなかった。
銀行は手続きがややこしいので消費者金融を
経営している梅宮社長に事情を打ち明けて相談した。
梅宮社長は快諾してくれた。
勿論、土地家を担保にしての借金である。
利息は高かったが5万ドルを借りた。

再挑戦するにしても無所属の泡沫候補では
笑い草になるだけである。
何とか既存政党の公認候補にならなければ
日本では歯牙にもかけられないということを、
先の経験で痛い程痛感していた北原は
公民党にターゲットを定めた。
南米日系社会は元々外務省、
日本政府の外郭団体などの様々な移住者支援を
受けてきただけに心情的に絶対与党たる
公民党シンパが多かった。

まずサンパウロに飛んだ北原は
「海外日本人代表を国会に送る運動」
サンパウロ支部の幹部らに相談した。

早速、ブラジル日系社会の有力団体の
幹部の協力を得て北原を公民党の公認にして
欲しい旨の公民党幹部向けの推薦状が作成された。
それと同様な推薦状をパラグアイでも
アルゼンチンでも現地日系有力団体の名前で
作成してもらった。

ロスの支援グループに北原は、
再チャレンジするため訪日すること、
公民党の公認を得るためブラジル、アルゼンチン、
パラグアイで日系団体の推薦状を作成した事等を
メールで連絡した。
                      (続く)






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2009.07.24 (Fri)

 新連載   アンチ公民党が多いロス

アンチ公民党が多いロス


世界規模のネットワークを構築して在外選挙権を
獲得した海外日本人ネットワークロス支部は、
各政党に陳情した際、公民党が冷淡で却ってこの運動を
潰そうとしたためにアンチ公民党の機運が強かった。

在外選挙権獲得に積極的に応援したのが当時の新緑党の
議員たちでその議員たちは、その後の政党の離合集散で
今の民政党に移籍した。
従ってロス支部は民政党シンパが多い。

北原が公民党宛の推薦状を南米各地で作成したという
北原のメールに接したロス支部のメンバーの
大半が拒否反応を起こした。
との返信がロスの代表世話人の高山から届いた。

これで北米の支援は得られないとあきらめた北原は、
ニューヨーク経由のJAL便を予約した。
所がその直後、再び高山からメールが入った。

「公民党シンパの人たちが20人程、
急きょ集まって北原さんの話を聞きたい、
と言っているので是非ロスに寄ってほしい」
という内容だった。

従来の支援者グループとガラリ変わって
全く新しいメンバーのようだった。
北原は、VARIG便に切り替えてロスに向かった。

ロス到着2月22日(日)朝7時。ホテルは
リトル東京にある都ホテルである。
3年前、このホテルに泊まった時は、部屋の壁も床も
置いている調度品も古色蒼然としてこちらの気持ちも
萎えるような雰囲気だった。
それが、全面改装したとかで見違える様に
立派になっていた。
宿泊客も多く、活気に満ちていた。
勿論、きれいになった分、料金も上がってはいた。

集会は11時半から同ホテル2階レストラン小サロンで
行われることになっていた。
11時、北原は現地日系TVの白川まどか社長直々の
取材を受けた。
白川社長とは世界日系新聞協会の大会などで何度か
会っている旧知の間柄なので取材にも熱が入った。
 
11時半からの集会には小林前ネットワーク会長
(元加州日本商工会議所会頭)、高山会長、大田ら
ネットワークメンバーも参加していたが、
他は初めての人ばかりで計17名が出席した。

 食事後、司会者役の人が挨拶して参加者の
自己紹介が行われた。
高山ネットワーク会長が簡単に北原の経歴および
これまでの経過を説明した後、小林前会長が
在外選挙権獲得までの経過を説明した。

 この在外選挙権については、小林前会長が
10数年前から提唱して率先して取組んできた経緯、
国会での小委員会に参考人に呼ばれた際の生々しい
やりとりについて話した。
最初は公民党議員主導で否定的ムードだったものが、
小林前会長の堂々たる発言に打たれたある議員が
助け舟を出したことにより、一気に流れが賛成に
変わったという秘話が参加者全員に
強いインパクトを与えた。

 小林前会長の感動的な話しの後、北原がこれまでの
活動経過などについて話をした。
 レストランの方でも団体の集会が行われていたため
そちらの笑い声や拍手などで北原の話が
よく聞こえないので場所を変えて集会を継続した。
移動したサロンは、夜、バーとして使われているサロンで
照明もほの暗く却って落ち着いて話し合いが
出来る場所だった。
 そこで改めて具体的な質疑応答が行われ高山会長が
在外選挙の基本的な質問に答えるという場面もあった。
一通りの意見が出尽くした所で後援会を結成するか
どうかという決議段階に入り、参加者は全員賛成の
意向を示した。
南米では「日系人代表を国会に送る運動」
という名称にしている。

 その「日系人」という名前が南米と北米では
受け止め方が異なっているため
「海外日本人代表を国会に送る運動・北米部」
という名前に決まり早速、事務局長も選出された。

沖縄出身でアメリカに帰化しているジョージ・安田が
指名で選出された。
あまりの手際の良さに驚いたが、
このメンバーを集めるために尽力した大田一郎が
事前の根回したようだった。

 安田はスーパーで大成功した人で沖縄ではテレビ、
新聞などで紹介されているいわゆる立志伝中の人物である。
また、大田は、20数年前、千葉市の市長選挙に立候補し、
惜しくも3位になった人物で正義感の強い人物だ。
その他参加者は、日本ペンクラブのメンバーや
元新聞記者など地元の著名人ばかりであった。
その場で、早速、公民党のキーパーソンである参議院の
赤木幹事長宛に文書を作成し、全員が署名した。
                       (続く)


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