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2009.06.06 (Sat)

イグアスの風  第二の祖国に 日系オバマを

3、天才戦略家  石原莞爾


石原莞爾の戦略 事実、あの天才軍略家石原莞爾は、
戦後次のように述懐している。 “私が戦争指導をやったら、
補給線を確保するため、ソロモン、ビスマークニューギニアの
諸島を早急に放棄し、戦略資源地帯防衛に転じ、西はビルマ国境から、
シンガポール、スマトラ中心の防衛戦を構築し、
中部は比島の線に退却、他方、本土周辺、およびサイパン、
テニヤン、グアム南洋諸島をいっさい難攻不落の要塞化とし、
何年でも頑張りうる態勢をとるとともに、
外交的には支那事変解決に努力を傾注する。
とくにサイパンの防御には万全を期し、この拠点を断じて確保する。
日本が真にサイパンの防備に万全を期していたら、
米軍の侵入は防ぐことはできた。
米軍はサイパンを奪取できなければ、日本爆撃は困難であった。
それ故サイパンさえ守り得ていたら、
ボロなガタガタ飛行機でもなんとか利用できてレイテを守り、
当然五分五分の持久戦で断じて負けてはいない”
(「秘録石原莞爾」より)

石原の言うように鉄壁の防衛ラインを敷いて世界一の戦艦大和、
武蔵、航空母艦に零戦を搭載してマリアナ諸島以西の南太平洋、
南シナ海、インド洋を遊弋させていれば日本国民を焼夷弾や原爆による
無差別殺戮にさらすことはなかっただろう。
さらに日本の敗戦に拍車をかけたのが陸軍と統制派と皇道派の対立も
大きな要因だった。 陸軍もスターリンの謀略に乗せられて蒋介石、
毛沢東、北洋軍閥の三つ巴の内乱という泥沼にはまり込んだ。
日本軍が支那との泥沼に入り込んだきっかけとなった張作霖の爆殺は、
今日、ソ連邦崩壊後の情報公開でソ連特務機関の仕業だった
というのが判明した。スターリンは共産主義シンパのルーズベルトの
ホワイトハウスとハル国務長官の国務省に
127名のスパイを送り込んでいた。
有名な「ハルノート」作成にも彼らスパイが関っていた。
恐るべしスターリンの謀略戦…。

そしてスターリンが作ったフランケンシュタインが中国である。

玉田編集主幹は機関誌「天道」で復讐裁判といわれる東京裁判の真相を
連載している。アメリカはジェノサイドたる各都市民間人爆撃と
原爆投下で殺戮した罪を同数のシナ人を虐殺したという
虚構の南京大虐殺のプロパガンダで相殺しようと、
今また世界中に喧伝している。 「原爆投下もしようがない」とする
負け犬国家・日本に絶望して玉田編集主幹は移住してくる。

ソ連崩壊後、計画統制型の国家社会主義的な官僚制度が
残っているのは中国、北朝鮮、それに日本である。
ニューディラーGHQは、戦前の偏差値エリートの官僚たちを
霞ヶ関に残した。民主国家・文明国家・英米を崇拝する
国際派官僚エリートたちは、国語を英語に変えようとした
明治時代の文部大臣、森有礼のDNAを受け継いでいる。
一方、戦前の親ソ派エリートたちは、政官界、教育界、
マスコミを牙城として残って「平和主義」を念仏のように唱えている。
そして、先のバブル崩壊時の金融戦争で
日本の金融資産をアメリカに献上し、
さらに郵政民営化でも膨大な郵貯資産を市場に放出した
亡国のコスモポリタンたち…。

新田の話具合では移住希望者はまだまだいるようだった。
(バリバリの右翼ばっかり来られてもちょっとヤバイな~)
「前科持ちは来られませんよ」北原の危惧を察した新田が言った。


「ニューワールドオーダー」の仕掛け人


「9・11はアメリカの自作自演ですよ。
鳥インフルエンザってのが流行ったでしょう。
あれはアジア人だけをターゲットにしたものです」
マンジョカを美味しそうに食べながら新田が衝撃的なことを言った。
この発言は北原にとって別に目新しい説ではなかった。
新田が持参した国際戦略誌「天道」という16ページの
右翼の機関紙には、「大東亜戦争戦史」、「言霊」、
「9・11同時多発テロの大嘘」など面白い記事がてんこ盛りである。
それらの中でアフガン、イラク戦争からSARS(鳥インフルエンザ)、
昨今の話題映画「ダ・ヴィンチ・コード」まで網羅したネオコンに
代表されるニューワールドオーダー(新世界秩序)
グループの汚い手口を暴いている。

右翼の機関紙にしてはイケイケドンドンの軍歌モードと
一味違った核心を突いたレポートなので北原はちょっと注目している。
あの世界中を震撼させた9・11事件から数年を経ずして
あの同時多発テロ事件について内外で様々な疑問を
追及する動きが出てきた。ごく最近CNNが行った
全世界規模の世論調査では
「9・11はアメリカ政府による自作自演だと思うか?」
という質問に対して75パーセントがイエスと答えている。
権力者は情報を如何様にも捏造出来る。
APニュース、UPI、NYタイムス等の有名な通信社やCNN、
ワシントンポスト、ニューズウィーク等々、
さらには我らが祖国日本でも大新聞だからといって
鵜呑みにしないほうがいい。
複数の情報を取捨選択すべきだろう。
北原は小なりといえども情報の世界でメシを食っている関係から
得た結論だ。
それらのニュースは色付けされたり捻じ曲げられたりして流される。
勿論、日本の大新聞、テレビ等も同様だ。
モーニングショーなどのコメンテーターのしたり顔での
解説等もそれぞれにヒモがついている。

中国のネット人口は今や1億1000万人とアメリカについでいるが、
言論弾圧は徹底的に行われておりそのネット弾圧にアメリカの
ヤフーやグーグルも協力している。
そのアメリカでも9・11以降に成立した「愛国者法」によって
裁判所の許可なしに盗聴も自由に行えるようになり、
ネット検閲も強化されている。
今や真実を追求する情報は既存のメディアではなく
インターネット上に網羅されている。
だが、これら核心に迫るネット情報も当局に都合の悪いサイトは
すぐ消されるので重要な情報は、すぐダウンロードしておく方がいい。

また、昨今のアジアを中心にしたSARS騒動は、
アジア人固有の遺伝子をターゲットにしたものだったが、
各国が強引に戒厳令並みに封じ込めたため失敗した。
アジア人だけを狙った生物テロ兵器だという証拠に
カナダで鳥インフルエンザが発生した時、
感染したのはアジア人だけだった。
さらに興味深いのは、その鳥インフルエンザに効く唯一の治療薬を
製造している会社が何とあのイラク攻撃を仕切ったネオコンの
キリーフエルドが株主の会社だという。

直近、世界を騒がせている豚インフルエンザは言うに及ばない。
北原も南米ジャーナル紙面で闇世界の仕掛け人たちの所業を
折りにふれ特集記事やコラムにさり気なく掲載して
警鐘を鳴らしてきた。

何しろ彼らはあのヒットラーが唱えた「優生学」を信奉しており
人類の劣等民族はこの地球上から消滅すべきだと考えて
その実現の為に各種戦争から生物兵器を使っての
疫病まで作り出しているのだ。

北原は日本を含め世界は絶大な力を持つ彼ら裏ネットワークが
描いた究極のワンワールドに至る破滅のシナリオから、
もはや逃れられないだろう、と悲観的な観測をしている。
CIAに身を投じ裏世界のカラクリを見てきた新田も
北原同様のことを考えているのだろう。
だから彼はこのパラグアイにたどり着いたのだ、
と北原は睨んでいる。

日本は「ニューワールドオーダー」を推進する彼らによって
殺伐たる国に陥れられた。
まさに日本は国家としての終末を迎えようとしている。
日本が誇った終身雇用という素晴らしい雇用体制も
今や労働者の40~50%が人材派遣会社という体たらくだ。
ひと頃、アメリカで「ホワイトプアー」という言葉が
よく聞かれた。
かっての白人中流層が下層階級に軒並み転落してしまった。
50年代、60年代、アメリカンライフは
当時の日本人の憧れだった。
あの頃、夫一人が働き妻は専業主婦で豊かな生活が
出来ていたものが、今は夫婦共働きで汗水流しても
苦しいという世知辛いアメリポンに陥ってしまった。

アメリカの「ホワイトプアー」は今、
日本にも伝染し「ワーキングプアー」と呼ばれる
貧困労働者層を生んだ。
「夫婦二人、働けど働けど貧困から抜け出せず
じっと汗をぬぐう」
という格差社会が日本にも現出した。

米国流のリストラや成果主義賃金の導入で、長時間労働や給与・
残業代カットなど労働条件の悪化が強まった。
サラリーマンの給与は9年連続で減り、
昨年度の過労による労災認定は過去最多を更新。
また10年連続3万人を超える自殺者のうち、
8000人近くは経済的な理由によるものだ。
 過労死を免れても待っているのは貧困だ。
パートや派遣、フリーターなどの非正社員は1600万人と
労働人口の3分の1まで膨れ上がり、
働けど給与が生活保護基準以下という「ワーキングプア」世帯は
700万を超えた。
今や全世帯の4分の1は貯蓄すらない。
国民は完全に疲弊しきっている。
古き良き日本の伝統生活文化はズタズタに破壊され、
根無し草の虚勢されたロボトミー民族と成り果てた。

「戦争が起きたら国のために戦うか?」
(04年・電通総研と日本リサーチセンター)
というアンケートに「ハイ」と答えたのは僅か15、6%で
調査対象国57カ国中、最下位である。
日本人の洗脳は大成功であった。



平家滅亡と日本人



新田はパラグアイをただ単にのんびり老後を過ごすための
楽園として選んだのではない。

彼は現在、パラグアイ国軍の特殊部隊の指導に当たっている。
そして、これまでロスで行っていた日本の一部自衛官や
警察官たちの実戦訓練をこの広大なチャコで行おうとしている。
パラグアイ版コンバットスクールだ。

日本にはコンバットマニアが結構多い。
彼らにもこの実戦訓練を呼びかける予定だ。
パラシュート訓練やピストルやライフルをガンガンぶっ放す
実戦訓練。乗馬訓練等々…。

まさに新田は北原と同じ思想を持った同志である。
北原は掲げる旗印は
“文化と匠の里・イグアスジャパンタウン”だ。
古武士新田の登場で北原のジャパンタウン構想の
タイトルに“武“が加わり
「文武と匠の里・イグアス・ジャパンタウン」という
看板に変わった。


やがて牧童の一人が焚火に顔を赤く染めながらギターで
パラグアイのフォルクローレを歌い始めた。
この国の歌には賑やかなポルカと日本の演歌にも似た
ロマンチックな叙情的な歌がある。
「イパカライ湖の想い出」「君がいない夜」
「インディア」等々の名曲はいずれも日本人好みの名曲だ。
日本の青い蛍火のような演歌は湿潤な日本の気候風土から
生まれた。
それに比べここの演歌は砂漠のように乾ききった
気候風土から生まれ、愛を恋を星々煌めく
夜空に切々と歌い上げる。

「これまでの長い歴史のなかで様々な民族が興隆し
没落していったのだろうけど、僕らにとって祖国の興亡は
一番気になるところだね~」
イグアス日本人移住地で北原が計画している
「文化と匠の里・イグアスジャパンタウン」構想の
キーパーソンである鎌田博文が焚火の火を調節しながら
ボソリと言った。
鎌田はパラグアイ日系農協連合会の会長を数年間務めていたが
糖尿病で一時体調を崩し、
今は無役で穴䆴を自宅に作り陶器類を焼いている。
「僕は歴史小説が好きでよく読むのだが、
あの平家物語は日本人の“滅びの美学”としては
最高傑作だね。
平家は栄華の道を上り詰める中で次第に荒ぶる心を
置き去りにして優美な歌の世界にどっぷりと
浸るようになるのだけど、とにかく平家一族は皆優しいよね。
壇ノ浦の戦いに敗れて落人となって逃げて行く過程で日本中、
どの地方の人々も源氏方に訴えないで匿うのだね」

「そうだね~、日本の各所に平家の落人村というのが
あるからな~。日本人は皆優しくもダメ平家が大好きなんだね。
清盛に代表される平家一族は自分達に牙を研いでいる狼にも
仏心ありと信じる底抜けのお人好したちだね」
平家物語には透徹した日本人の史観が反映されており、
北原も好きな本である。
また、彼の祖父や父親が「うちは平家の末孫だから…」
と聞かされてきたことも平家贔屓の大きな要因である。

平家は胡蝶を紋章としていた。 古来、
蝶や鳥はいずれも神の使いとされてきた
呪物(まじもの)であった。
平家がいわば神の使いのシンボルたる胡蝶を鎧兜につけたのは、
これまた驕る平家の一面で、みる者を驚かせ、
畏れさせたであろう。

高層ビルが林立する東京は日本の歴史上かってない
最高の繁栄を謳歌している。 世界の最先端のファッションや、
きらびやかなモノがあふれるデパートを見学した
パラグアイのある大臣は、
「このデパート1つだけでも持って帰りたい…」と
嘆息をもらした。

東京は今や世界1の大都会としての繁栄を誇っている。

だが、その地底から身もだえするような呪文の唸り声が
響いてくる。
北原の耳にパラグアイのギターとアルパのリズムがいつしか
薩摩琵琶の地響きのような撥さばきに代わってきた。

“祇園精舎の鐘の声…”壇ノ浦で滅びた平家一門の雄叫びが
軍馬の嘶きが波音と共に聞こえてきた。
「平家にあらずんば人にあらず」と栄耀栄華を誇り
綺羅をつくした鎧兜に緋縅(ひおどし)の極彩色の絵姿で
浮かび上がる平家の公達たち…。
運命のままに凛々しく詠い美しく滅びた平家一族―。

砂漠のような乾ききった異国の異民族の中で
暮らしてきた北原が改めて痛感したことだが
日本人は他民族の持つ猛々しい闘争心を持っていない。
唯一の核被爆国の日本人は、
原爆を投下した犯罪者を憎みもせず、
核廃絶を叫び、観念的平和主義を唱える優しい心根を
持つ民族である。
日本列島の豊かな四季折々の自然の移ろいの中で
あらゆる事象に神の顕現を見、感謝と諦念の
DNAを育んできた。
日本中に平家落人伝説があるようにいつか世界中に流浪の
日本人村が散在することになるのだろうか…。

北原は、夜のかがり火のゆらめきの上に
ヒヒル(蝶の古語)が舞うのを見た。
その彷徨い出た一匹のヒヒルを目で追いながら
過酷なチャコの荒野に分け入ったメノニータの
流浪の旅を想った。
彼らメノニータたちも人殺しをする兵役につくことを
拒否して世界中を流浪する道を選んだ
物静かな優しい人々であった。
                       (続く)



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タグ : 新連載 イグアスの風 第二の祖国に 日系オバマを

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2009.06.10 (Wed)

新連載 イグアスの風 第二の祖国に日系オアバマを

4、
靖国神社を祀れない日本
龍族の蘇りの聖地、パラグアイに!



「僕は亡国の琉球王国の子孫だが、
日本の先の大戦は西欧諸国の植民地支配から
アジアを解放した戦争で侵略戦争などでは
絶対ないと信じている。
まさに自衛のための戦争だった」
北米で一大運送業を確立し母県沖縄でも
知名士となっている安田が持ち前のだみ声で言った。

新田が焚火を見つめながら話を引き継いだ。

「日本の戦争は国家としての戦争だった。
戦争とは人を殺す事です。
だから国家の戦争は犯罪ではないのです。
戦争で人を殺すことが犯罪ならば原爆を投下し
無差別爆撃をしたトルーマンこそ大犯罪者です。
アメリカの戦争が犯罪でないなら
日本の戦争も犯罪ではない。A級の人7人、
BC級の人約1000人が処刑されたのですよ。
その他の人は有期刑を受刑し、その刑を全うした。
そもそもABCなる罪名は連合国側が勝手に
つけた呼び名です。処刑された瞬間、
すべては終わっている。
東京裁判の判決の執行は全て終わったのです」。

靖国神社には、246万6000柱が祀られている。
靖国神社は日本と日本人の聖地である。
アメリカのアーリントン墓地、
イスラム教徒のメッカと同じ聖地である。
昭和26年11月、大橋武雄法務総裁(大臣)によって、
戦犯は「国内法においてはいかなる意味でも
犯罪ではない」との政治判断がなされている。
また、昭和27年12月、28年8月、
30年7月と3回も国会に於いてA級戦犯とされた方たちの
赦免・釈放を求める決議が行われた。
つまり、日本政府は「戦犯」を犯罪者ではないと認めている。
ゆえに日本には「戦犯」は存在しない。
日本にヒットラーはいなかった。

あのマッカーサーでさえ、1951年5月の
アメリカ上院軍事外交合同委員会で
「日本の戦争は自衛・安全のためだった」と証言している。
日本人は、死ねば皆、神様仏様になる。崇める存在である。
所が中国人は死者に恨みがあればたとえ数百年経とうと
墓をあばいてでも遺体にムチ打つ、
という伝統的な恐るべき国民性を持つ民族である。

「日本の為に戦い死んでいった英霊たちを祀ることも
出来ない日本ならば、このパラグアイで靖国神社を
お祀りしてやろうじゃないか、と僕は決心したのですよ」
突然、新田が呟いた「靖国神社」という言葉が
何の異和感もなくチャコの星空に吸い込まれていった。

「そうですね。この南米で開拓に殉じた先人達の
御霊と共にイグアス神社に祀ろうじゃありませんか」
北原は以前から進めているイグアス神社建立計画を
場合によったら靖国神社に切り替えてもいいか、
とフッと思った。

大瀑布イグアス(先住民の言葉で“大いなる水”)の
滝の轟々たる水音と飛沫する霧の中に龍神が
ユラユラと入水する幻影をチャコの荒野で北原は観た。

古代日本の覇権を巡って天津神と國津神の争いの中で
龍族たる国津神は破れて歴史の表舞台から消滅した。

この南米の臍ともハートと呼ばれるパラグアイの地こそ
龍神を祖霊と崇めてきた龍族の蘇りの聖地なのだ、
子々孫々封印されてきた龍一族はこの地に集結して
新たな国創りを目指そう。



新・ノアの方舟運動(76年)による
パラグアイ移住   おかっぱ頭の千乃幸恵




 「ね、そうだよね!」
断定的な話し方をする女性だ。
どうみても40歳以下には見えない千乃幸恵は
おかっぱ頭をしていた。
誰かに似ていると北原次郎は思った。
そうか、中学校時代の美術の教科書に載っていた
あの岸田画伯の「麗子像」だ。

日本超心理学会主催の「パラグアイ移住説明会」の
講演会は76年6月、東京の中野サンプラザで開かれた。  

「パラグアイファームではこんなデッカイ茄子や
ピーマンが出来るのよ!」 
「大助君は、トラクターに乗って畑作りに頑張っているし、
孝治君は馬に乗って牧場の牛を集めたりカウボーイの
アントニオさんの 手伝いをして毎朝乳しぼりをやってるわよ」
「後藤のおじいちゃんは、自分の畑で好きな野菜作りを
していたら 髪の毛がふさふさ生えてきたのよ」
小柄で小太り、やや肉ぼての浅黒い顔をした彼女は
ハイトーンのソプラノで 機関銃のような早口で
滔々と喋っていた。
 とても美人とは言えない彼女だがその高い声は
不快ではなかった。
むしろ心地良い響きを持っていた。
この声が人々を惹き寄せるのだなと彼は漠然と思った。
会場はニコニコ頷いたり、笑い転げたり和やかな
雰囲気だった。 参加者の多くは、
いつかは自分たちも行くであろう、
そのファームの話を楽し気に聞いていた。
参加者は20代の男女、60年輩のご夫婦など
20人位だった。

会場全体が笑いに包まれても彼女の鋭い目は
笑っていなかった。
身ぶり手ぶりで参加者を自在にコントロールしている。
彼はその会場の雰囲気に馴染めず醒めた気持ちで
彼女を観察していた。
北原が真っ赤な表紙の「新・ノアの方舟」の本を
故郷大分市の 本屋で手にしたのは75年の物憂い秋だった。
妻まどか、が小学校の2人の子供を置いて家を出て
既に4年が経っていた。
妻の家出の原因の半分以上は彼に責任があった…。 
北原がまどかと結婚した時、まどか18歳、北原22歳。
お互い、若すぎた。
北原は結婚後も複数の女性と遊び回った。  

彼女の父親は県庁マンだった。
中学を卒業すると彼女は宝塚に入った。
宝塚に入って間もなく両親が離婚した。
父親が職場の女性と深い関係に陥ったことが原因で離婚し、
県庁も辞めた。 この離婚騒動が原因で彼女は宝塚を
中退して大分に戻った。
母親は別な男性と結婚し、彼女はその母親とともに
新しい父親と住むようになったのだが、
思春期の少女と新しい父親がうまくいく筈がなかった。

まどかとの出合いは、会社帰りにバスを下りて
家路についている時、声をかけられたのが
最初の出合いだった。 その時、まどかは豹皮のコートを着ていた。
町中を歩いている時、新東宝の女優に似ていた彼女の
白い派手な顔立ちは遠くからでも目立った。
何でも何度かバスの中で北原を見かけていたという。
北原が東京のミッション系の大学を中退して
故郷の大分に帰って2年目だった。
大学では彼は高校時代からやっていたラグビー部に入った。
ラグビーの練習試合で肩を痛めた彼は授業にも集中出来ず、
中退した。

北原を表して会社の先輩が「お前は月のような存在だ。
隣に太陽のような人がいないと、お前は全く目立たない」と
言ったことがある。
何ともひどい酷評だ。
しかし、北原自身はそんなものだ、と納得していた。

彼の母親は勝ち気な明るい性格だった。
小学校時代、母親は担任の先生に
「北原君は何か暗いですね。
家庭で何か問題があるのですか?」と聞かれたという。
「うちはまったく普通の家庭で何も心配事は
ないのにね~?」と首を傾げていた。

家庭というものに飢えていたまどかの独占欲は強烈だった。
同棲を始めたものの2人の生活は荒んだものだった。
その間、彼女は2度程自殺未遂をした。
また、北原がアパートの部屋から逃げられないように、
背広やズボンなどをズタズタに切り裂いた。
北原も1度、薬を飲んで病院に救急車でかつぎこまれた。
彼は福岡、大坂などへ3度、彼女から逃げ出した。
その3度とも結局、彼女に捕まってしまった。
必死になった時の女性は、超人的な勘が働くらしい。
1度は別府の街を歩いている所を捕まった。
最後に逃げた大坂ではベッドメーカーのセールスマンを
していたのだが、数カ月後、
フラフラと彼女と生活していた
アパートへ舞い戻ってしまった。
まさに蛇に睨まれたカエルだな、と自嘲した。

結局、観念してまどかと結婚した。

まどかとの離婚後、2人の子供は弟の嫁の母親が
住み込んで面倒をみてくれた。
北原の気兼ねなく遊ぶ派手な女性遍歴が続いた。
時に1日にダブルブッキングもあった。
北原にとってそれは狩りのようなものだった。
月が持つ魔力とでもいえばいいのだろうか。
狙った獲物は必ず射止めた。
そんな不毛な狩りにもやがて倦んだ。

段々、哲学書や宗教書を読みふけるようになった。  
そんな時、「新・ノアの方舟」というタイトルに
惹かれてその本を手にした。 
だが、「南米」「パラグアイ」という泥臭いイメージは
彼の感性に相容れないものだった。
子供時代からあらゆる映画を観る機会に恵まれて
育った北原は、透徹したアンニュイがまぶされた
フランス映画や音楽が好きだった。
パラパラとめくっただけで結局は買わなかった。

 そして、75年5月、優子と再婚した。   

優子は大人しい女性だった。
待ち合わせの時など北原が2~3時間遅れても
じっと待ち合わせの場所で待ち続けるような女性だった。
後年、彼女は「優ちゃんが腹を立てたことを
見たことがないねぇ~、と友達、知人などから
良く言われていたのにこちらに来てから
パラグアイ人とよく喧嘩するようになったわね~、
強くならないとここでは生きていけないものね」語った。

また、「“将来は大物になるよ~“
と近所のおばさんなどにも言われたけど、
これは冷やかしだったのかな~?」
と半ば真面目に北原に聞いたことがある。

そろばんが得意だった彼女は別府の小さな
科学薬品会社の経理を担当しており社長に代わって
銀行との融資交渉に行っていた。
優子との出合いは銀行の前だった。
傘を持っていない優子が銀行前の軒先きで
雨が止むのを空を見上げて待っていた。
銀行を出て来た北原は、ほの白い顔の優子に気付き
「良かったら入りませんか?」と誘った。
ちょっと躊躇したが、素直に傘に入ってきた。
優子には何か人を包み込むような優しさがあった。
北原は彼女といる時が一番ゆったりと寛げた。
「結婚するか?」北原のプロポーズに優子は頷いた。
バツイチで2人の子連れの35歳の北原との結婚に勿論、
彼女の両親は猛反対した。
―が、結局、彼女の決意に両親も折れた。
彼女の実家は別府でもかなり有名な川中求心堂という
代々続いていた大きな薬の卸問屋だった。
だが、彼女が小学校の時、父親が知人の連帯保証人になり、
その借金返済を迫られ全てを失って没落した。


優子が北原と結婚した時、26歳だった。
風の頼りに北原の再婚を聞いた、まどかから
執拗に家や会社に電話がかかるようになった。
まどかも再婚していたのだが、
2人の子供恋しさの哀願だった。
優子は北原に何も言わなかったが、
優子にも嫌がらせの電話がかかった。
時に家や会社にもまどかは押し掛けて来るようになった。
家庭崩壊の予感に北原は戦慄した。

「海外しかないか?」段々、彼の決意は固まっていった。
北原は過去の経験から日本にいる限り、
彼女から逃げる事は出来ない。
執拗な彼女の要求にいつかずるずると、
屈するのではないかという自分自身のもろさに対する
怖れの気持ちが強かった。
海外移住を考えた北原は、いつか町の本屋で手にした
「新・ノアの方舟」という本を思い出して購入した。

「新・ノアの方舟」乗船案内 千乃女史は、
「新・ノアの方舟」の冒頭、民族大移動を成し遂げることの
苦悩を次のように書いている。

“私のような平凡な女性が民族大移動等
できるのでしょうか? これは悪夢だ!
―と何度おもったでしょう。
でも、現実、私は昨年から40人もの老若男女の日本人を
パラグアイに移住させたのです。
神様、もう私はお役目は十分果たしました。
私の役目は終わったのですね?
何度、問い直したでしょうか…。
逃げても逃げてもまた、
あのさざ波のような想いは襲ってくるのです。
もう、何日もこの民族大移動という途方もないお役目を
果たすためには何をなすべきか?
思いはこの一点に集中して一睡も出来ない日が続き
背中に洗濯板が張り付いたように硬直してしまった。
食欲もなく、無理して食べても戻してしまうのです。
心身共々極限状態となったある日、
もの凄い睡魔が身体を支配して地中にのめり込むように
眠ってしまいました。
目覚めて主人に聞くと丸2日、
死んだように眠っていたそうです。
ノロノロ起き上がった私はまた、
この死ぬほど苦しいこのお役目に
チャレンジしていったのです“ 
(「新・ノアの方舟」大陸書房)

千乃女史は、その本の中でソ連の脅威や朝鮮半島情勢、
中ソ関係、米ソ関係、中東問題、食糧、
石油問題など脅威を煽っていた。
千乃女史の分析している国際情勢は粗雑なものだった。
彼女が分析して危機感を煽っている国際情勢などには、
何の興味も関心もなかった。
北原がその本の中で心を動かされたのは、
現実にパラグアイに人々が行き、
その農場が動きだしているという事実だった。
現実にパラグアイ・ファームで生活しているという
現実だけで十分だった。
他に海外脱出の道を思い描けなかった彼にとって
この移住ルートは絶好なものに思えた。   

その本の末尾に  
「ノアの方舟に乗りたいと希望される方たちへ」   
という説明文があった。

  資格=資格は一切問いません。
生きることの意味を真剣に考えておられる方なら
どなたでも受け入れます。

  大事な事=目に見えない世界があるということを
信じておられる信仰心のある人を重視します。
  参加される方は=履歴書と家族調書、
健康診断書が必要です。        
 所持品について=ご相談しましょう。   
本について=私たちの子孫のためにあらゆる本の
リストをつくりましょう。
  移住開始時期は=移住希望者がある程度まとまったら、
グループ毎に出発します。
但し、受け入れ現地の家の準備状況も勘案して多少、
遅くなることもあります。
     
パラグアイついて=極力、ご自身でパラグアイのことに
ついて勉強して下さい。

  移動資金=お金のない方は、ご相談しましょう。
私たちの仕事を手伝って下さい。おんぶに抱っこは困ります。

北原は、この風変わりな乗船案内に好感を持った。

「海外しかないか?」段々彼の決意は固まっていった。

「パラグアイに行こうと思う…」優子に話した。
優子は何も言わなかった。

自宅を売る段取りをつけ、北原の母親に話した。
父親は数年前亡くなっており、
母親は北原たちと郊外の団地で隣接した家に
1人で住んでいた。 仰天した母親は親戚に相談した。
連日、隣の母親の家で親族会議が開かれて猛反対された。
「その千乃女史に洗脳されたんじゃないの?」
地元の新聞社勤めの姉の夫やバス会社社長の義兄たちの
反対は強かった。

そりゃそうだ、北原1人ならともかく新婚ほやほやの
新妻と幼い2人の子供を連れての海外移住なんて
まさに気狂いじみている。



“方舟詐欺事件“メディアが一斉に



北原は連夜の親族会議の猛反対を押し切って、
渡航準備を始めた。
自宅の買い主も決まり手付け金をもらった。
その手付け金を東京の「新・ノアの方舟実行委員会」
の銀行講座に振り込んで正式に乗船申し込みをした。
やがて自宅の売却代金残額も受領し、
後は買い主に期日に自宅を明け渡すばかりだった。
自宅の売却代金は1000万円だった。
手元に当座の必要金だけを残してその殆どを
実行委員会事務局に寄付した。
家族全員のパスポート手続きも終わり、
76年8月上旬いよいよ東京に出発する数日前だった。

「パラグアイを舞台にしたノアの方舟、
現地は砂質土農耕不適地、引揚者たちが悲痛な訴え!」
とのおどろおどろしいタイトルの記事が全国紙の
3面に大きく掲載された。
その情報を持ってきたのは地元の新聞社に務めている
義兄だった。
再び親族が集まり絶対反対の大合唱が始まった。
不退転の決意を固めていた北原も動揺した。
東京の事務局担当の女性に電話すると
「一部の不満分子の人が左翼系の弁護士の口車に
乗って騒いでいるだけです。
現地では順調に皆さん生活をしていますから
何も御心配いりません」

北原は恐怖と不安に襲われ悩みに悩んだ。
彼は不安感が嵩じると、吐き気に襲われる、
ということを初めてその時知った。
常識的な判断に従えば、渡航中止をするのが当然だった。
しかし、彼はあまりに聖書のイエスの言葉に
のめり込んでいた。

彼が自宅の売却代金の殆どを実行委員会に寄付した行為の
背景には、新訳聖書中の次の言葉が大きく影響していた。

“1人の真面目な青年がイエスに永遠の生命を得るために
何をしたら良いのか訊ねた。
イエスは答えた「いましめを守れ」と
「どのいましめですか?」 イエスは言われた。
「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証をたてるな、
父と母とを敬え。 また、自分を愛するように
あなたの隣人を愛せよ」
この青年はイエスに言った。
「それはみな守ってきました。
ほかに何が足りないのでしょう」
イエスは彼に言われた。
「もしあなたが完全になりたいと思うなら、
帰ってあなたの持ち物を売り払い、
貧しい人々に施しなさい。
そうすれば天に宝を持つようになろう。
そして、わたしに従ってきなさい」
この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。
たくさんの資産を持っていたからである。
それからイエスは弟子達に言われた。
「良く聞きなさい。富んでいるものが天国に入るのは
難しいものである。また、あなたがたに言うが、
富んでいる者が神の国に入るよりは、
らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」   
 (新訳聖書 マタイによる副音書 第19章16~24)“


  北原は、大学中退、実家の火事、妻の家出、
オートバイ運転による人身事故など一連の出来事が
すべて自分が原因で起きている事を痛感していた。
何となく自然にそれまでの自堕落な生活を一変させて
哲学書、宗教書を読みあさり本当の自分の
人生を探究していた。
そんな時に、「新・ノアの方舟」の本に出会った。
頭があまりにピュアなものに憧れ過ぎていた。
そのことが常識的な判断を鈍らせた。
行くも地獄、戻るも修羅…。

「新ノアの方舟組織委員会起草文」には
新たな精神世界樹立のための美辞麗句、
誇大妄想狂的な文章が散りばめられていた。

第1条(趣意) ー(中略)物質文明偏重で発展してきた
世界はさまざまな矛盾を露呈し、荒廃した。
この解決のためにはわれわれ人類は新たに魂のレベルを
上げねばならない。 これまでの汚れた魂を洗い清める
修行の場として素朴なパラグアイという国で新しい
生命哲学を学びあいたい。そして21世紀を平和な世界に
創りかえる理念哲学を産み出し世界中に
発信していこうとするものである。

第2条(目的) ー(中略)世界の情報発信地である
ニューヨークに新しい生命哲学にのっとった
総合メディアを設立し、新聞、雑誌の発行およびテレビ、
ラジオにより全世界各国に新しい波を起こそうと
意図するものである。

(中略) 第3条(資格) 参加者の資格は、
年令性別を問わないが我々の新しい生命哲学に
賛同する人で文化人、芸能人、科学者、技術家、
芸術家等広く一般の参加を希望する。

第4条(中略)すぐそこにきている危機は食糧問題であり、
資源問題である。 またもう1つの問題は、
人口増加およびイデオロギーの問題である。

(中略)これらのことを解決するため新ノアの覚醒者が
率先して南米大陸において農業牧畜に励み、
各自の内面に埋蔵されている“無限の生命力”を開発し、
21世紀のネオ・ホモ・サピエンスとしてあらゆる分野の
リーダーとなって世界を善導することを目的とする“

実に壮大な構想が書かれていた。
その他もろもろの生命哲学や第3次元世界から4次元、
5次元世界のことなどが書き連ねられた、
この起草文は昭和51年4月25日(1976年)に
作成されていた。

バス会社社長の義兄は、北原が多分に宗教的な影響を
受けていることを懸念して、禅宗の高齢の僧侶に
引き合わせて説得した。

「その千乃さんとやらは、いくつ位ですかな?」
「多分、40前後だと思います」
「そんな若さでは到底悟っているとは思えませんなぁ」

親族総掛かりの説得も振り切って結局、
彼は遥かなる荒野の国パラグアイへの道を選んだ。

(続く)

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2009.06.11 (Thu)

第二の祖国に 日系オバマを  6

5、乾いた風の匂い ロス

空港にはやせぎすの日本人女性が迎えにきていた。
24~5歳だろうか? 「北原さんですか?鈴木です」
千乃女史の秘書をしている女性だ。
タクシーで小さいがこざっぱりした郊外のホテルに着いた。
10歳の賢太と9歳の誕生日を3日前に迎えたばかりの逹也は始めての
海外に緊張と不安で口数が少なかった。
優子はそんな二人をかばうように終始二人の肩を抱いていた。
彼女もまた自身の不安を二人を抱くことによって紛らわせているのだろう。
ロスには1泊することになっていた。
鈴木という秘書は、千乃女史が後でホテルに来る事、
ロス滞在中の予定やパラグアイ便の出発時刻、注意点などを
てきぱきと北原に伝えると帰っていった。
ホテルの周辺は見なれたマクドナルドやコカ・コーラ、Essoなどの
看板が広い道の向こう側に連なっていた。

平べったい街だ。 千乃女史は、午後、ロビーに現われた。
「よく来たわね。子供達も元気?」
脂ぎった顔に笑顔を満面に浮かべて握手をしてきた。
小太りの身体に合ったぽってりした掌だった。
千乃女史はコロコロ笑いながらハイトーンの声でよく喋った。
「挫折して日本に引き上げた人達はそれぞれが抱える宿命です。
仕方ないわね。残っている人達は頑張っているわよ」
「パラグアイの太陽の下で育ったらこの子たちは大物になるわよ」
二人の頭をなぜて優子にも愛想笑いを向ける。
おかっぱの髪の毛から覗く目は笑っていない。
大人しい性格の優子は一言も口を開かなかった。
怖がっているな、と北原は感じた。
確かに女史の目は恐い目だ。
仁王像や不動妙王のような憤怒の目に似ている。
あの講演会の時の自信に満ちた彼女の態度と違うなと北原は思った。
女史はよく喋り笑ったが、明らかに落ち着きがなかった。
作り笑いで優子や子供達に愛想を振りまいてもビリビリと苛立っていた。
彼女の波動がこちらにも伝わり和やかな空気は最後迄生まれなかった。
先発隊の一部の反乱者たちがマスコミなどに告発し、
ことは刑事事件になりそうな日本国内の空気だった。
女史は日本の騒ぎを後にアメリカに逃げて来たのだった。

翌日、北原たちはディズニーランドに行った。
どの館も人で一杯だった。
ポップコーンやハンバーガーを食べたり巨大鮫ジョーズに
歓声を上げたりしていた子供たちだが、
心から楽しんでいる風はなかった。 無理もないと北原は思った。



「土人の国よりもアルゼンチンに来ませんか?」



ロスからブラニフの飛行機でペルーのリマに寄って
パラグアイへ飛ぶ。 アンデス上空で機は上下に激しく揺れた。
「どこに行くのですか?」日系二世のスチュワーデスが話し掛けてきた。
「パラグアイです」と答えると
「そんな土人の国にいくよりもアルゼンチンに来ませんか」
と勧めてくれた。
優子と子供達も気分が悪いらしくグッタリしている。
「土人の国」と聞いて優子の顔はますます蒼白になる。
やがて機は下降体制に入った。
下を見ると今迄のアンデスの赤茶けた山肌から一変して
緑の草原が続いている。
点々と赤い屋根瓦の民家が見えてきた。
ガガーッと飛行機は草原に着陸した。パラグアイの首都、
アスンシオン空港だ。
これが飛行場か?平家のバラック建てが入国審査を行う
空港事務所らしい。 大体想像はしていたが、
予想以上の後進国だな、と北原は思った。

空港には30代の男女3人が笑顔で出迎えた。
いずれも気難し気な陰気な顔だった。
首都アスンシオンからイパカライファームまで40㎞。
「これが国際道路2号線でサンパウロに通じています」
国際道路といっても片側1車線しかない。
バスや大型トラックとすれ違うのもヒヤヒヤものだ。
1時間以上走っただろうか?郊外の町を抜けて左右に
草原が広がってきた。

「そのペプシコーラの看板から我々の土地です」
案内の広瀬という男性が陰気な顔をほころばせた。
笑うと一変、人の良さそうな笑顔になる。
悪い人ではなさそうだ。
優子は飛行機からずっと半病人のような青い顔でうつむいたままだ。
子供達は道中珍しそうに左右をキョロキョロしていた。
レンジローヴァーのそのジープは相当の年代モノで揺れがひどい。
ジープは舗装路を右にガタンと下りて木製の門の前に止まった。
広瀬が飛び下りて門のかんぬきを外し、
その木製門扉を奥に押し開く。
その門の左右にユーカリ並木が続いており正面に見える
赤れんがの白い平家建ての家まで
約300m~400mの並木道が続いている。
この並木道はいい、と北原は思った。



パラグアイ・イパカライファーム



ユーカリ並木を抜けると正面のレンガ建て平屋からバラバラと
数人のエプロン掛けの女性達が走り出て来た。
「いらっしゃい」「いらっしゃい」「疲れたでしょう」
口々に声をかけてくる。 子供達も元気に車から飛び下りる。
優子は青い顔にムリヤリ笑顔を浮かべて皆に挨拶をする。
北原も「ウ~ン!」と背伸びをして
このイパカライ・ファームの大地に立った。
1976年8月12日、この日を俺は絶対忘れない、
と改めてその日時を心に刻み込んだ。

パラグアイの8月は日本の2月の冬になる。
だがその日は、夏を思わせるようなポカポカ陽気だった。
正面の平家建ては「本部」と呼ばれているらしい。
その本部右、50m程離れた所にやや大きな白い平家建てがあった。
北原たちの部屋はその建物内にあるらしくそちらに案内された。
その建物入り口前のポーチで数人の若者たちが車座になって
座り込んで豆の枯れ枝を棒で叩く農作業を行っていた。
「やぁ、いらっしゃい!」全員が笑顔を向けてきた。
中に白い顔をしたパラグアイ人もいた。

その建物は、新館と呼ばれていた。
若者達の横を通り抜けホールに入ると何とまーるくベニヤ板で囲った
中にヒヨコがピヨピヨ騒がしく鳴いている。
青いジーパンに長靴の如何にも度の強そうな黒ぶちの
眼鏡をかけた小柄な日本人男性が忙しそうにヒヨコの世話をしていた。
「やあ~、お疲れになったでしょう深田文雄です。
すみません、こんな所でヒナを飼っていて…」
苦笑いしながら深田は言った。
「近所に住んでいる韓国人の養鶏家キムさんが分けてくれたんですよ。
4~5日ここで飼ってアスンシオンのメルカード(市場)に
売りに行くんですよ」 数百羽いるだろうか?
糞や飼料の混じりあった独特の臭気がした。
ヤレヤレ、これはもう一度覚悟を決め直さなければ、
と北原は気を引き締めた。
子供達は珍しそうにヒヨコを覗きこんで触ろうとしていた。
一旦、気を取り直したように見えた優子は再びガックリと
落胆している様子だった。
ホールは約15m四方だろうか、左右に各2部屋づつ計4部屋ある。
玄関ホールの正面奥にトイレとシャワールーム。
右手に台所があった。シャワールームは未だ工事中で
パラグアイ人の中年の左官が1人、口笛を吹きながら壁塗りをしていた。

「ここが北原さんたちの部屋です」と広瀬。
「隣が近藤さん親子、向い側が僕らの部屋です。
深田さんの部屋は僕の隣です」 この新館は家族持ちの部屋ばかりらしい。
木製のドアを開けると8畳程度の広さだ。正面に観音開きの窓が一つある。
白い壁、天井はなく屋根瓦の下地と木の梁がむき出しの殺風景な部屋だ。
タイル張りの床に粗末な木製のベッドが4つ置いているだけだった。
毛布と枕がそれぞれのベッドに置いてあった。
トランクを部屋の中央にドカッと置きベッドに腰をかけると
ギーギー軋む音がした。
マットを上げてみると金網だった。

「パラグアイ時間は今、3時です。夕食は7時からです」
と言って広瀬は去った。
日本とパラグアイの時差は13時間。 すると今、日本は午前4時か…。
北原は腕時計を修正した。
優子は北原に背を向けてベッドに寝て黙り込んでいた。
子供たちも所在なさそうにベッドに腰を下ろした。
「外に出て見るか?」北原は子供たちを誘って部屋を出た。
北原は子供2人を連れて青年達が車座になって座って
農作業をしているポーチを通って表に出た。
さっき入って来た並木道は右手にある本部の建物から
国際道路2号線に真直ぐ伸びている。
ユーカリ並木の影がこちらに向って長い影を落している。
道路側が北西に当るのだろう。
ユーカリ並木の左側は一面畑が広がっている。
新館前20~30mまで芝が植わっておりその先一帯が畑だ。
遠く離れた畑の左端の方で一人の青年がトラクターに乗って
頻繁に往復して畑を起こしている。
確かこのファームの広さは90町歩(27万坪)と聞いている。
子供と一緒に本部前に行った。本部前から北側、
つまり本部を背中に正門に向って立った
右側方向にユーカリの林がある。
そのユーカリの林と本部との真中辺りに奇妙なものが見えた。
モッコリ土盛りした上にアルミトタンが夕陽を受けて
キラキラ反射している。
近寄って見るとそれはアルミトタンで周りを囲んだ
円形貯蔵プールだった。
子供が緩やかな勾配の土盛を駆け上がった。
土盛が高さ1、5m、アルミの囲いの高さ1m40cmで
直径約15mの貯蔵プールには3分の1程、水が溜まっていた。
そのプールのすぐ傍に井戸がありその隣に4隅を鉄柱で支えられた
高さ10m程の大きな風車が回っておりタンクが取り付けられている。
井戸水を風車で上のタンクに汲み上げて
ホースでその貯蔵プールに入れている。
井戸の近くに小さな小屋があった。
傍に近寄って見ると若い女性が1人、
しゃがみ込んで炊き口から薪を放り込んでいる。
「もうすぐお風呂が湧きますから、
今日は北原さん家族に一番に入ってもらいます」
その風呂場は、明らかに素人がレンガを積んで作ったと見えて
レンガを積んだ間のセメントがむき出しだった。
屋根も瓦ではなく家畜小屋などによく使われている
粗末な素材を使っていた。
手作りの木製の入り口の戸を開けて中を見ると何と五右衛門風呂だった。
中は3m四方しかなく中で衣類を脱ぐようになっていた。
五右衛門風呂はセメントで周囲を固めており床には
一応簀の子が敷いてあった。
この風呂に何十人もの人が入るのだろうか?
この風呂を見たら優子は、またまた ショックを受けて
寝込むかも知れないと北原は不安になった。



イパカライ・ファーム  ー粗末な夕食会ー




貯蔵用プールからユーカリの林に向って立つ右側に
風呂小屋と風車があるのだが、その横、
林の方に細長い長家風の平家建てがあった。
白くペンキで塗られたその建物は、女子寮だ。
そして林に向って左側に青年の家があった。
つまり女子寮と青年の家は、サッカーが出来る位の
芝の広場を前にして向い合っている。
女子寮は多少なりと住居の趣きはあるのだが、
青年の家は10cm巾の木材を組み合わせて作った荒削りな
馬小屋を改造したものだった。
窓もガラス窓などではなく、戸板を上に押し開いて
突っかえ棒で支えるという風だった。
この冬の時期はさぞや寒いだろうな、と北原は思った。
青年の家の裏は、国際道路まで畑になっている。
そして女子寮の裏は木柵と針金で区切られた牧場になっている。
このイパカライファームを俯瞰すると90町歩(27万坪)の内、
国際道路に面した方、3分の1が農作地で奥地3分の2弱が
牧場となり住居部分は約3町歩(9000坪)、
ユーカリ林が2町歩(6000坪)となろうか。
その中に結構大きな池もある。
首都アスンシオンから41kmでブラジルに通じる
国際道路2号線に面している
当ファームの立地条件は恵まれているといっていい。

千乃女史の日本での説明は、車や建物の数など多少、
大風呂敷を広げた感があるものの全くのデタラメとは言えないな、
と北原は思った。
北原は子供達とユーカリの林に入った。
ユーカリ特有のいい香りが漂う。
枯葉をカサコソと踏みしめて歩くとあちこちに枯枝が落ちている。
これらが風呂の薪になるのだろう。
北原は二人の子供達が嬉々として木々の間を走り回る姿を見ながら
ここ数カ月間の目まぐるしい出来事を思い返した。
これまでの安楽な世俗的な生活を棄てて、
日本の反対側のパラグアイの地で精神的な生活を始めることの
意味を考えてみた。
日本出発前に北原を襲った怒濤のような荒波は何とか乗り越えて来た。

全員が本部サロンにボツボツ集まって来る。
北原は着席して人数を数えてみた。
8人がけの長テーブルが4つ。 30数人いる。
新館ホールでひよこの世話をしていた深田文雄家族
(30代の夫妻に5才の男の子と2才の娘)。
50年輩の小島夫妻。寺岡家族(30前後の夫妻に4才の女の子)、
近藤家族(60年輩の両親に20代後半の息子)、
二宮家族(40代の夫妻に10代の兄妹)、
安藤父娘(50代の父親と19才の娘)、
片山母娘(50代の母と20代の娘)、
そして70才近い小柄な後藤老人、
どうやらこの老人が東京の講演会で千乃女史が自慢げに話していた
頭に毛が生えてきたという人らしい。
確かにホヤホヤと細い毛が前頭部に生えている。
それと独身男性が5人。 独身女性が7人。
深田文雄が立ち上がって挨拶を始めた。
どうやらこのフアームの責任者らしい。
北原家族が到着したことを報告すると全員から歓迎の拍手が起きた。
北原家族も立ち上がって頭を下げた。
そして今日1日の報告が各担当者から発表が行われた。
牧場担当の小柄な磯崎博が口を尖らせてはきはきとした口調で
牛やミルクの出具合等を報告した。
大柄な朴訥とした久保健夫から畑の耕作状況が報告された。

一通り報告が終わると 若い女の子が
1人立ち上がって本の朗読が始まった。
「マラバー農場」というアメリカの開拓時代の大農場の物語だ。
この「輪読会」というのは、毎晩、交代でこの本を
10分程度朗読するらしい。朗読が終わると、食事だ。
食事当番の女性達がアルミカップに入れたスープを配る。
御飯は、どんぶり茶わんに7分目の玄米御飯だ。
スープには骨付き肉とキャベツが入っている。
テーブル上には、畑で収穫した野菜だろうか、
ピーマン、玉ネギ、ジャガイモなどの油炒めが大皿に盛られて
ドンドンと置かれている。

北原は「こんな粗末なものをよく食べているな…」
と働き盛りの青年や子供達が可哀想になった。
北原たち家族は、到着日初日、夕食前、
五右衛門風呂に最初に入る事が出来た。
その夜の夕食で優子は全く食べなかった。
確かに喜んで食べられるような食事ではなかった。
夕食後、食事当番の女性たちがバタバタと片付けに取りかかった。
北原たちは新館ホールの自分達の部屋に帰った。
ホールには相変わらずヒヨコがピヨピヨとうるさく鳴いており、
匂いも強かった。

そのホール左右の壁に手作りの本棚があり、
数千冊の本が並べられていた。
ここには電気は入っていない。
モーターで電気を起こしており消灯は10時だった。
真っ暗になった部屋の窓から星空が見える。
星空を眺めながらベッドに横になると、
疲れていた北原たちはたちまち深い眠りに落ちた。
朝食はパンとミルク、バター、グァジャワのジャム。
パンは固くポロポロとパンクズがこぼれる。
ミルクは勿論、今朝の絞り立て牛乳だ。
これは味が濃くうまい。バターは牛乳を発酵させて作ったものだ。
独特の香気があるグァジャワは、当ファーム内に数本ありうまい。
午前9時から本部サロンでスペイン語の勉強会が始まった。
全員がノート、筆記用具を持って思い思いの席に座る。

「皆さんがパラグアイ人から、usted(ウステ)…
と呼ばれる時はまあまあ敬意を払われていると思っていいのですが、
vos(ヴオ)と呼ばれた時は軽く見られていることになります。
まあ、これは友達言葉で、あんた、とか、お前というように
親しみを込めて呼ぶのですけどね」 講師は山南進(20才)、
スラッと背が高く色白の紅顔の美声年だ。
北原はこの青年の赤い唇の口辺に時折、
驕慢の色が浮かぶのを見逃さなかった。
「彼が天才山南か…」北原は千乃女史の話の中で再三出ていた
女史お気に入りの青年だ。
スペイン語講座は結構進んでいるようだった。
「スペイン語日常会話集」で簡単なフレーズをいくつか
付け焼き刃的に覚えただけの北原にとっては非常に興味深く覚えられた。
勉強会は30分程度で終わった。
男性は営農班、牧畜班に別れて小春日和の陽の下で
それぞれの作業にとりかかった。
山南は渉外を担当しているようだった。
経理責任者の秋山明子(43才)と一緒にボロジープで外出していった。



―農作業―




いつもつなぎの作業着を着ている後藤のじいちゃんは、
本部裏の自分の畑に行きマイペースで農作業に励む。
牛糞、鶏糞をたっぷり作物の根や畝にかけた畑には
自慢のピーマン、茄子などが大きな実をつけている。
朴訥とした久保健夫は黙々とトラクターに乗って開墾中の畑に向った。
女性たちは食事班、掃除などにとりかかった。
ユーカリ林に薪を取りにおばあちゃん達が
小さな子供達の手を引いて出かける。
賢太と達也は慶応大学卒業の近藤克利(29才)に
個人授業で勉強を教えてもらうことになった。
近藤は両親と一緒に当ファームにきており、
彼の父親は東京の民放ラジオ局のオーディオ部長を
定年で退職した人だった。
14才の二宮勇は深田英二に個人授業を受けていた。
彼はリーダー深田文雄の弟で独身、早稲田大学を出ている。
北原は青年の家の裏の畑に深田兄や空港に迎えに来た広瀬らと
一緒に向った。 畑にはピーマン、トウガラシ、
トマトなどが植えられていた。
作業は草取りと堆肥作りに分かれて行われた。
これらの作物はアスンシオンの市場に売りに行くという。
リーダーの深田兄は、北原と同年令の35才だった。
黒ぶちの厚手の眼鏡の奥の眼が鋭い。
分厚い両唇が笑うと人懐っこい笑顔をつくり出す。
彼は東京の中堅印刷会社の部長職を辞めて妻と幼い2人の子供、
それに弟と4人で当地に来たのだった。
彼は在職中、印刷機械の製本行程のシステムを
画期的に変えて通産大臣賞を受けたという博士号を持っているインテリだ。
彼の畑作り、堆肥作りなど科学者らしい工夫が随所に凝らされていた。
北原にとって農業は初めてだったが、
じっくりと土に取組むのもいいものだ、と思った。



バスで首都アスンシオンへ



当ファームに入って3日後の8月15日、定期バスで全員、
アスンシオンに出かけた。
パラグアイのバスは、タクシーのように手を上げればどこでも停まる。
首都アスンシオン市まで41㎞、約1時間半。
この15日は、Nuestra Senora de
 ASUNCION(我らが聖母マリア昇天の地)の祝祭日で
盛大なパレードが行われる。
1537年のこの日にアスンシオンが建設された。
因にパラグアイの独立記念日は1811年5月15日。
全員が乗るとバスは一杯になった。
乗客が眼を丸くして東洋人の一団を見守る。
パレードは各国の大使館、領事館などが立ち並ぶ
マリスカル・ロペス通りで行われた。
大通り両側の歩道に大勢の市民が立ち並んで
パレードを見守っている。
空軍や海軍(海はないのだが一応海軍と呼ばれている)、
陸軍の装甲車両、工兵隊、イギリスの騎兵隊のようなきらびやかな
甲冑を身に付けた騎馬隊や儀仗兵などが次々行進していく。
北原は夢中でシャッターを切った。
ーと、群集を整理していた警備の兵士からカメラを取り上げられた。
まだ10代であろう少年兵士がきつい眼で何か言っている。
北原もやっと飲み込めた。
そうか、この国は軍事独裁政権だった。
軍事パレードなどは機密扱いとなり撮影禁止だ。
結局、中のフイルムを抜き取られた。
北原は改めて自分が永住しようとしている国の厳しい現実に目覚めた。
帰りのバスは満員だった。
途中で優子が真っ青になっているのに北原は気づいた。
途中の小さな町で北原たちはバスを降りた。
日本で看護婦をしていたという原田智子が 付き添いで
一緒に降りてくれた。
白い壁が剥げ落ちた古びた小さな食堂に北原たちは入り、
優子は椅子に座るとテーブルに顔を埋めた。
そこのトイレを借りて暫く休んだ後、北原たちはファームに戻った。



パラグアイと日本 不思議な因縁




北原達が到着して最初の日曜日、メンバー全員が
バスでパラグアイ最大のカアクペの教会に行った。
パラグアイはカトリックを国教としており、
マリア信仰が盛んだ。
ファームの前の国道2号線を東方向ブラジル側国境に向って
小高い丘を登り10㎞行った所にカアクペの街がある。
国土の殆どが平野で大きな山脈のないパラグアイで
峠道となっているのはこのカアクペ位のものだ。
このゆるやかな峠道から振り返るとパラグアイ最大の
イパカライ湖が見える。
この湖は琵琶湖とほぼ同じ面積だ。
北原たちのファームからイパカライ湖は車で15分位である。
カアクペの教会は昔、あるパラグアイ人が山賊に襲撃された時、
木陰に隠れて聖母マリアに必死に祈った。
「もし、私を助けていただいたらこの地に教会を建てます!」
聖母マリアは降誕し、彼の祈りを聞き入れ、彼を匿った。
山賊たちは、その彼の周辺を散々捜しまわったにもかかわらず
彼を見つける事は出来なかった。
その加護に感謝して彼は小さな聖堂を建てた。
この小さな聖堂横にこんこんと尽きる事のない
清冽な奇跡の泉が湧き出るようになった。

ここカアクペの下には、南米大陸を縦横断する
巨大な龍のような地下水流、グアラニー水脈が走っている。
従ってカアクペは「水の聖地」でもある 以後、
この地に大聖堂が建立され、
いつしか毎年12月8日、
聖母マリア降誕の大祭が行われるようになった。
この日はパラグアイ中から数十万人もの参拝者が訪れる
パラグアイの大祝祭日である。
この大祭にはフランスの奇跡の地、ルルドの泉のように
病気や怪我に苦しむ人々、御利益を祈願する人々が参拝する。
パラグアイの12月は夏である。
炎暑の中、人々は遠くから苦行僧のように歩いて歩いて
カアクペを目指す。
世界中の聖地巡礼と同じように難行苦行で苦労する程、
御利益は大きい。 因に首都アスンシオンの建設記念日が
聖母マリア昇天の地とされる8月15日で、
カアクペの地に聖母マリアが降誕したのは、
12月8日であった。
これらの日は、日本の重要な日時に奇しくも符号する。
日本が真珠湾を奇襲し大東亜戦争が始まった日が12月8日、
この日に日本の反対側の地、パラグアイに聖母マリアが降誕すると
いう奇瑞を起こしている。
日本の敗戦の8月15日は、聖母マリア昇天日で
首都アスンシオン建設記念日である。
さらに日本とパラグアイの関係で面白いのは、
時のマロニー大統領が、世界でも有数の親日家で
「自分は明治天皇の生まれ変わり」だと信じ込んでいることだ。
マロニー大統領の誕生日は明治天皇と同じ11月3日である。
単純と言えば単純だが同大統領は、軍人だけに日本の明治維新、
日露戦争、日本海海戦に精通している。
日本からの要人が大統領に会見した際など、
大統領は好んで日本の戦い振りを賞賛する。
日本人の方が知らない事が多く、大統領の該博な親日家振りに
皆、舌を巻いたという。

当農園栽培の野菜を主体にした自然食の献立は相変わらず続いた。
ダイエット志向派にとっては、もってこいの
健康的なファーム生活だろう。
しかし、育ち盛りの子供や青年達にはつらい食事だ。
夕食後の「マラバー農場」の輪読会も淡々と続けられた。
この「マラバー農場」の著者ルイズ・ブロムフィールド
(1896~1956)は、アメリカ人作家で1933年には
ピューリッツア賞(小説部門)を受賞している。
彼は作家であり、農業者でもある。彼は青年の頃からアメリカの
商業主義的文明に反発していた。
彼は第一次世界大戦に参加し、18才の頃からフランスの
ブルターニュの自然の中で当地の農業者が土と共生する
精神的な農業を行っていることに共鳴していた。
自身も小さな農園で農業をやりながら作家活動をほぼ25年間続けた。
しかし、ナチズム、ファシストの荒波がヨーロッパを襲い、
彼はそれから逃れアメリカに帰った。
そして先祖が住んでいたオハイオ州のプレザント渓谷で農場を始めた。
それが、この「マラバー農場」である。
彼が目指したものは化学肥料などを排した今日でいう有機農法である。
食料穀物、飼料穀物、牧草の栽培、家畜の飼育等が計画的に実行された。
やがてその内の一部を5家族による共同経営にして同農場は規模を
拡大し大農場となった。
このマラバー農場の名前はアメリカのみならず、
ヨーロッパにも広まり、連日訪問客が訪れ、
休日には1000名にもなった。
このマラバー農場が千乃女史の理想の農園の姿なのであろうことは
北原にも段々分かった。  



「キムさんが来たヨ~」




 ファームに毎日、外部から1人のお客が古いジープで
ブロンブロンやって来る。  
「キムさんがきたよう!」と深田リーダーの5才になる健ちゃんが
バタバタと皆に大声で知らせる。  手の空いている
小島登美婆ちゃんや片足が不自由なその主人が足を引きずりながら
ニコニコと表に出て来て浅黒い顔のキムさんを出迎える。
深田兄弟や北原たちもキムさんを囲んで談笑を繰り広げる。
 みんなの人気者キムさんは50歳代だろう。
当ファームからカアクペに向う丘の上で兄さんと
養雛場を経営しており、連日、そのヒナをアスンシオンや近郊に
販売に出かける。ここのヒナもキムさんから譲り受けたものだ。
新聞もラジオ、テレビもないここではキムさんが唯一の情報源だ。
キムさんはいわばお隣さんである。  
「卵の値段が上ったよぅ~。どうしてかねぇ~?」
キムさんの日本語は韓国語がそうであるように、
つばをはき棄てるような独特な強いイントネーションで話す。
みんな 「ホゥ~、ホ~…」と聞き耳を立てる。
 連日、キムさんを囲む情報交換会が繰り広げられた。

ある日、キムさんのジープに乗せてもらって
アスンシオンのメルカード4(4番市場)に
農場のヒヨコを売りに男女6人で出かけた。
キムさんは、自分の養鶏場の卵をメルカードの卵業者に卸しに行く。
メルカードは汚くて臭くて多くの人でごったがえしている。
北原たち男性3人は、信号の一角で段ボール箱を
手ごろな大きさに切ってヒヨコを入れて、
通るパラグアイ人に「Pollito(ポジィト・ヒヨコ)~
Pollito~!」と呼び込みを始めた。
子供連れの母子が足を止めて「ケ ボニータ!(可愛い)」
と覗きこんで買って行く。

女性達は両手で御盆に乗せた手作りケーキを売っている。
こちらも結構売れているようだ。
日銭商売は馬鹿に出来ない貴重な農場の収入源だ。
メルカードを往来するパラグアイ人たちは、
いかにも生活力旺盛な太っちょおばちゃんが多い。
この国の住民の90%がスペイン人とグアラニーインディオの混血だ。
アルゼンチンやチリが原住民を皆殺しにしたのに比べて
パラグアイのコンキスタドール(征服者)たちは、
進んで彼等と混血化したため今日のパラグアイ人が誕生した。
彼等は背丈も顔の色なども日本人と変わらないので親近感がある。
これがアングロサクソン系やゲルマン系の人種の中に放り込まれたら
圧倒的な体格差でコンプレックスを感じるだろうが、
その点、パラグアイ人との付き合いは気楽に出来る。
北原は、結構、この国が気にいってきた。
2人の子供たちは、北原家族到着後、3日目に青年の家に移った。
優子も洗濯板で手洗いする洗濯や五右衛門風呂、
テレビもラジオも新聞、週刊誌もない、原始生活に徐々に慣れてきた。
北原たちの農作業もどちらかといえばゆるやかなペースで行われていた。

そんなある日、「先生が来るらしい」という話が広がった。
                           (続く)


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