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2005.05.27 (Fri)

「3国戦争」その9 多くの夢想家を引き寄せたパラグアイ

  かってこの「3国戦争」の話を聞いた時、確かに
  少年志願兵はいただろうが、
  幼い子供たちまでがどうして戦わざるを得なかったのだろうか?

  いかに国家存亡の危機といえど普通、
  幼い子供まで狩り出す事はしないのに…と私は不思議に思っていた。
  ところが、ロペスは、戦前、6歳から10歳の子供の
  奴隷部隊をもっていた。

  独裁者の宮殿、国立劇場、国立図書館、
  そしてエリサ夫人のいくつもの舞踏会場を建設する子供部隊の姿を
  リンカーンによってアメリカ大使としてアスンシオンに
  派遣されていたチャールス・エイムズ・ウオッシュバーンが
  書いている。

  「強制された労働によって、小さな子供達がたちまち
  老人のようになってしまうのを見るのは悲しいことだ。

  つねに監視されているために一瞬たりとも怠ける事は出来ない。

  また働いている場所を通りかかると、
  まるで疲れ切った奴隷のようだった。

  すべての希望が完全に失われたので顔をあげることも、
  ほんの一瞬手を休めることもしない奴隷だった」(前出の同著)
  その仮装舞踏会に使われたサロンが今もアスンシオンに残されている
  グラン・ホテル・パラグアイだ。

  大統領夫人マダム・リンチの家として1860年代に建てられた。
   
  パラグアイに新ゲルマーニァ建設を夢みた
  エリザベート・ニーチェ  

  先にロペスの人間性などについて引用した
  著・「エリザベート・ニーチェ」とはドイツの
  あの有名な哲学者ニーチェの妹である。

  かってカトリックの先鋭隊イエズス会会士たちが
  世界1の大瀑布イグアスの滝近くに「インディオ王国」
  (カンヌ映画祭でグランプリを取った英国映画「ミッション」)
  の建設を夢み、
  ロペスが南米のナポレオンを夢想したように
  パラグアイの真中に「新ゲルマーニャ」の建設を夢見て
  はるばるドイツ人移民14家族を連れ立って
  来た恐るべき女性エリザベート・ニーチェ…。
 
  彼女がアスンシオン埠頭に降り立ったのは、
  1866年3月15日…。

  まだ3国戦争の戦火が高らかに燃えたぎっている最中であった。

  思うにこのパラグアイという地は、そういう夢想家たちを引き寄せ、
  デーモニッシュなパワーを注ぎ込む
  特異な地球のパワースポットなのかも知れない。

  そういえば、「新ノアの方舟」を主宰し日本中から
  老若男女60数名を引き抜いてパラグアイに移住させた
  末広千幸女史もそんな霊感を
  この地で吹き込まれたのかも知れない。

  *「新ノアの方舟」事件ー現地に移住した家族の内数人が
  日本に帰国し詐偽行為だと騒いだため1986年、現地解散
  60数名の移住者の内99%が日本に帰国。結局、当事件は
  立件されなかった。


  エリザベート・ニーチェ、
  戦前のドイツの文化的社会でコージマ・ヴァーグナーは
  別格としても彼女程有名な女性はいなかった。
  彼女が兄を一部の偏狭な学者仲間から連れ出し
  有名にし、またナチズムとも結び付けるという
  大きな影響力を与えた。




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2005.05.27 (Fri)

「3国戦争」その8 ロペス、その人間性

  ロペス大統領と最後迄、戦った
  エリサ夫人は戦後、パリに送られ、困窮の中に死去、
  貧民共同墓地に葬られた。

  今はアスンシオンの国民英雄の館にロペスとともに祀られている。
  敗色濃厚となった時点で諸外国が再三仲介の労をとり
  休戦を働きかけた。

  その時点で休戦すれば十分余力を残して外国にも
  亡命出来た筈だった。

  休戦を拒否したことにロペスの異常な
  偏執狂が浮き彫りにされている。

  バカと天才は紙一重というが、
  ロペスをみるとまさに狂人と英雄も紙一重と言える。

  4分の3以上の男性を失い、生き残ったのは子供と老人だけとなり
  戦後、「パラグアイを旅する外国の男を樹上から女性が襲ってくる」
  (大宅壮一の南米紀行の著書にもみられる)との
  アマゾナスにも似た哀しい伝説が生まれたパラグアイ…。

  パラグアイを南米1の最貧国に陥れた亡国の大統領ロペスは戦前、 
  夜毎エリサ夫人が催した仮面舞踏会にナポレオンの仮装で出た。

  1853年、父親の命令によってパリに遊学にやってきた
  フランシスコ・ソラノ・ロペスは
  青い目を持ったエリサ・リンチに出会った。

      lopez.jpg
 


  ー空の青い目をもったエリサー
  彼女は天性の美貌を持つアイルランド出身の娼婦だった。
  彼女についてある崇拝者は次のように言っている。
  「その目は青、それも天の色をそのまま借りてきたような青だった」
  「そして表情の甘さときたら、とても言葉ではあらわせない。
  しかもその奥にはキューピッドが鎮座して明るく輝いているのだ」
  このエリサ夫人が野心家だった。

      ELISA.jpg


  一方、ロペスの人間性についてカニンガム・グレアムが
  次のように述べている。

  「サディズム、倒錯的な愛国主義、
  外の世界についてのとんでもない無知、狂気と紙一重の
  誇大妄想、人間の生命や尊厳に対するまったくの無関心、
  パラグアイだけでなく世界中どこへ
  行っても馬鹿にされたに違いない。卑屈なまでの気の弱さ、
  しかもそれが意思や才能の力の
  完全な欠如と結びついている。
  こういったものが彼の性格を作り上げていた」
  (「エリザベート・ニーチェ」白水社)

  世界史にも例をみない老人、女性、子供にまで武器を持たせて
  戦わせたロペスの冷酷非道の人間性が適格に描写されている。



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2005.05.25 (Wed)

「3国戦争」その7 ロペス大統領の戦死!

 いよいよ南米史上最大の戦争「3国戦争」も
 最終章を迎えることになった。

 この悲劇の最終章を書きつつも
 ともすれば胸が熱くたぎりそうになる。

 老人、女性、子供まで武器を持たせて戦わせ
 このパラグアイを南米1の最貧国に陥れた
 この狂人にも例えられるロペスの人間性を
 どう理解すればいいのだろうか。

 連合軍は、敗走したロペスを追わず
 アスンシオンに入り臨時民主政府を樹立した。

 敗走しつつも徹底抗戦の構えを捨てないロペスは
 69年初め首都アスンシオンから
 東100km地点に位置する
 ピリベブイを臨時首都として新たな軍を編成した。

 傷病兵、老人、女性、子供たちばかりの新軍、
 それを一体、軍隊といえるだろうか?

 8月10日、連合軍はピリベブイを攻撃した。

 老人、女性、子供混成軍団が近代兵器を備えた屈強な
 連合軍兵士に抗すべくもなく、敗れた。

 敗走、敗走を重ねるロペスに付き従う
 軍服姿のエリサ大統領夫人。

 騎兵に馬なく、半身裸の歩兵達も靴の代わりに
 竜舌蘭を編んで履いていた。

 不足した弾薬の代わりに斧やナイフ、
 軍刀で戦ったパラグアイ軍…。

 よろばいながら進む老人、傷病兵、子供たち…。

 女性たちは夫、息子、兄弟、恋人の後に
 どこまでも従って樹木の下や掘建て小屋、
 あるいは穴を住居とし、落ち延びていった。

 ピリベブイから逃れたロペス一行は、北を目指した。
 カラガタウの近くに
 バポール・クエ(蒸気船があった)という
 小さな川岸にロペス一行が乗り捨てた軍艦が展示され
 国立公園になっているところがある。

 それは軍艦と呼ぶにはあまりにお粗末な小さな外輪艦である。
 過日、当地を訪れた筆者は
 茫漠たる彼方に、幽鬼のような一団の
 幻影を一瞬見たようで
 こみあげてくるものを禁じ得なかった。


 8月16日「子供の日」

 8月16日、パラグアイ軍3500。
 パラグアイの組織的な戦闘として最後となった
 アコスタニューの戦いは悲惨を極めた。
 
 まさにパラグアイ版白虎隊を彷佛させる
 少年兵らがブラジル軍2万を迎え討ち
 当地で討ち死にした。

 ロペスの小部隊の後方防御をしたのは
 大部分が9歳から15歳の少年兵だった。

 中に6歳から8歳の子供兵も混じり
 成人兵はわずか500人だったという。
 
 悲惨な戦闘は夕刻前に終わり、
 戦場は死傷した子供達で覆われた。

 アコスタニューの原野に夕陽が長い影を落す中、
 散乱する子供たちの遺体を泣きわめきながら
 探す母親や肉親の姿があった。

 この悲劇を忘れないため
 現在、パラグアイは8月16日を「子供の日」と
 定め記念日にしている。

 この悲劇の戦場を逃れたロペスは
 パラグアイ北東部のアマンバイ山脈沿いの
 Curuguaty,Ygatimi、Chirigueloと
 転々と戦いながら逃れ、70年2月、
 アマンバイの山岳地帯のセロ・コラの丘陵地(アスンシオンから
 北東約500km)に露営した。

 総勢わずか400名。
 武器弾薬衣食も尽きぼろぼろの幽鬼の一団だった。

 ここでロペスは最後の叙勲式を行った。
 有り合わせの金属片を削り赤いボロ布をつけて
 勲章代わりとし、エリサ大統領夫人自らが授与した。
 

 3月1日(英雄の日)

  eiyunoHi.jpg

 
 3月1日、この地を包囲したブラジル軍と最後の
 戦闘が行われた。

 次々、部下達が倒れただ1人となったロペス大統領は
 負傷しながらも最後まで敵と格闘し、
 「私は祖国とともに死ぬのだ!」
 と叫んで 壮絶な戦死を遂げた。

 夫ロペスと離ればなれになったエリサ夫人や幼子エンリケたちを
 載せた馬車もついにブラジル兵に囲まれた。

 騎乗して護衛していた15歳のフアン大佐は
 気丈に奮戦したが、母親の目の前で戦死…。

 80歳の副大統領もその場で戦死した。

 この後、エリサ夫人は幼子エンリケと共に
 夕闇迫る中、
 夫ロペス大統領と長男フアン大佐の遺体を
 セロ・コラの荒れ地に自ら土を掘って埋葬した。

 ロペスの死をもって
 南米を震撼させた3国戦争は終焉した。

 亡国の大統領として戦後、激しく非難された
 ロペスはナショナリズムの高まりとともに
 大国ブラジル、アルゼンチンの狭間にあって
 よく祖国を防衛した英雄として
 1926年、
 議会によってその汚名はそそがれ
 今では、
 アスンシオンの中央公園の「英雄の館」に祀られている。

 しかし、パラグアイにとって
 この戦争の代償はあまりに大きく
 戦前130万人を数えた人口が
 戦後20万人に激減し
 南米の最貧国に陥ったパラグアイは
 135年を経た現在でもその傷跡を
 完全に癒しきれないでいる…。

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