2017年09月/ 08月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫10月

2009.10.13 (Tue)

インカ漂流 

インカ漂流


10月下旬、北原はかねてからの
念願だったペルーに一人旅立った。
首都リマのアルマス広場周辺の旧市街地は
世界遺産に登録されており、カテドラル、
大統領府、リマ市庁舎が立ち並ぶ
マヨール広場や独立戦争の雄
サン・マルティン将軍を祀る
サン・マルティン広場等旧文化遺産が多い。
しかし、これら旧市街地は、次第に、
すえた臭いがするダウンタウン化し、
リマ商業の中心地は今やミラフローレス、
サンイシドロ地区などの新市街地に
移っている。

海岸沿いのミラフローレス地区には
瀟洒な近代ビルが建ち並び、ツーリストは
物騒なセントロを避けて、
こちらに増えている。
今や、ほとんどの航空会社のオフィスも
ミラフローレスへ移転した。
ヨレヨレズボン等の貧乏スタイルが
嫌いな旅行者は、こちらに泊った方が
無難だろう。

ドロ沼の母国を嫌って海外脱出を図る
ペルー人が増えている。
彼らの脱出国はアメリカ、カナダ、
オーストラリア、ベネズエラ、ウルグアイ、
そしてパラグアイも含まれる。
ペルーの日系人は今や三世、四世と
なっているが、彼らの脱出先希望国の
ナンバー1は日本だ。
だが、両親が日本国籍をもたない彼らは
完全なペルー人だ。
外国人である彼らは合法的に日本で
働く事はできない。
それでも彼らは次々と日本へ流入している。
世界中の後進国から羨望の眼でみられる
パラダイス日本はアメリカと並ぶ、
絶好の出稼ぎ国となった。
後進国の一年分はおろか数年分を
わずか一ヶ月で稼げるとなれば、
この水の流れを誰も止めることはできない。
汚れ仕事、重労働、単純労働を嫌う
若者が多い今の日本では、これらの仕事を
外国人に代替してもらうしか日本の産業を
支えきれなくなった。

グルメ志向の飽食日本の現況は、
辺境の蛮族たるゲルマン人を傭兵とせざるを
得なかったローマ帝国末期の姿に
オーバーラップする。
文明の爛熟は歴史の必然として内から
崩壊の芽を育てる。




プレインカ その残照





「これが世界最大の織布で幅3.9m、
長さ25・5mあります。パラカス・
ネクロポリス文化で紀元前
400年~300年頃のものとされています」
ガイド役の山口健はヒゲをふるわせて
誇らし気に今なお色鮮かなショウケース内の
織布をさし示した。
日本人ガイドとしてはペルー随一と評価の
高い山口の案内でリマ国立考古学人類学
博物館を見学できた北原はラッキーだった。
彼は一週間前、日本のテレビ番組取材の
コーディネーター兼通訳としてパラグアイに
来たばかりだった。

「数日後ペルーに行く予定です」と
彼に話したら「多分、その頃はペルーに
帰っているから案内は任せて下さい」と
力強く約束してくれた。
その彼と約束通り再会できた。
「今は個人ガイドはやっていないんですよ」
という彼は、日本のテレビ局や、
各種ミッション等のコーディネーター
として中南米をとびまわっており、
リマの妻子のもとにいるのは一年の内
わずか二、三カ月足らずという多忙さだ。
専門的な山口の説明は各時代の土器や
金銀細工、織布、ミイラ等をドラマチックに
際立たせ、北原はグイグイとプレインカの
異次元の世界に引きこまれていった。

「ウーン!」「スゴイ!」「成る程!」
人間感動すると単純な言葉しかでてこない。
館内には二人の他に人は居なかった。
うす暗い通路の両側のショウケースに
照明に浮きでた土器類がひっそりと
息づいていた。
一つ一つの展示物が時代を越えて
北原に何かを訴えてきた。
新大陸の文明はジャングル地帯に生まれた
マヤ文明と、北緯5度から南緯60度、
南北約5、600Kmにも及ぶ
アンデス文明の二つに代表される。
なぜ、肥沃な平野部でなく人間の生存に
厳しい両地域にかくも高度な文明が
生まれたのか、これは永遠の謎だ。
アンデス文明の研究はまだ初期段階で
発掘調査もほんの一部分しか行われておらず、
その全容は依然霧の彼方に隠されている。

学問上の通説では、新大陸の住民、
モンゴロイドがベーリング海峡を渡って
アンデス地帯に到達したのは、
今から約一万年ほど前だという。
それから約5、500年の間
採集狩猟生活を彼らは営んでいた。
農業が始められたのは紀元前
2、500年頃からで、それも
採集狩猟生活の補助的なものとして始まった。

紀元前1、200年頃になると彼らは
土器を作り始め、とうもろこしの栽培を
始める。
そして紀元前700年頃、
プレインカ文明の萌芽が始まる。

チャビン文化とよばれるこの文化は、
巨大な神殿を築き、見事な土器、石の彫刻、
黄金細工を生み出す。この文明は
アマゾン河の源流の一つである
マラニョン河源流地帯に突然現れた。

ペルーの医者だった考古学者
フーリオ・テーヨが1919年マラニョン河
源流の深い谷の底である、
チャビン・デ・ワンタルという村に
アンデス最古の大石造建築物たる
城塞を発見した。
この城塞は地下神殿をもっており、
更にその奥には、急な狭い地下道が
続いている。
だが、何人もこの地下道の行方を究めた者は
いない。
チャビン文化とよばれるこの文化は
またたく間にアンデス一帯に広がる。
宗教も前時代に比べ発達し、宗教儀礼も
確立化してくる。彼らは死後の彼岸の
生活でも現世の生活が続くと考え、
砂漠の墓地に死者とともに死後の生活に
必要な生活用具、土器等を副葬した。
チャビン猫に代表される
チャビン文化期の土器は、シンプルな形で
赤、黒、褐色が主で又、それらの混合の
色調もあり表面がツルツルに磨かれている。

嬰児のとき、頭の前後を板ではさんで
長頭に変形した頭蓋骨も多く見られる。
この文化期から金銀細工がみられ、毛抜き、
耳飾り、鼻飾り、冠、飾り玉等非常に
変化に富んでいる。
この文化の伝播は軍事的征服からでなく
宗教的分野から広がりをみせたものと
みられている。
シンプルにして雄渾な土器を生み出した
ユニークなチャビン文化はなぜか
紀元前500年頃急にアンデスから消え去る。
この消滅の原因は軍事的征服等に
よるものではなく何か別のものらしいが、
よく分かっていない。

このチャビン文化の後、アンデス一帯に
三つの文化が起こる。
北部のモチーカ文化と南海岸地帯の
パラカス・ナスカ文化、それにアンデスの
海抜4000mチチカカ湖畔に巨石建造物を
生んだティワナコ文化である。
この三つの文化が紀元前後に並行して栄える。

モチーカ文化期の土器は日常生活の場面を
リアリズムに描いているのが特徴で
エロチックな性描写の土器もある。
人間の顔は全て横向きでダイナミックな
動きを見事にとらえた走る人間像等もあり、
土器はクリーム地に赤、又は黒色の彩色を
ほどこし上手に磨きこんでいる。
この文化期の一番の特徴は織布技術の
見事さにある。

パラカス・ネクロポリス、中央海岸の南端、
パラカス砂漠の巨大な埋葬場で数百体の
ミイラが発見された。
それらのミイラは全て四~六色の調和が
とれた模様をもつ織布で包まれていた。
これらの織布は、魚や鳥の模様、
擬人的動物、幾何学模様が配された
見事なもので、その中の一つが先にあげた
世界最大の織布
(幅三・九m、長さ二五・五m)だ。
この文化期になると貴族、奴隷、戦士等の
階級差が生じる。
しかし残念ながら彼らの住居跡は全く
見つかっていない。

パラカスの南二〇〇Km、海岸から
約八〇Kmの内陸部に謎の地上絵で
有名なナスカ文化が生まれる。
ナスカ土器は、自然主義的な手法で鳥、魚、
虫、植物等を十一色以上の色彩を
使っているが何故か、青と緑の二色が
欠けている。
それらの土器には神話的な奇怪な
擬人化された動物が描かれ、
仮面をつけた様な猫科の動物が印象深い。
織布は土器と同様のモチーフの模様で
一九〇以上の色調が使われ美しい。
金属工芸はモチーカ文化のものに比べると
幼稚で落ちる。
技術的には鋳造法を知らず大型なものは
少なく量的にも貧弱だ。
このナスカ文化期には特定の宗教もなく
権力の集中もなかった様だ。

ボリビアのチチカカ湖畔に生まれた
ティワナコ文化期の土器はナスカの様に
多彩でよく研磨されているが、色調は
ナスカに比べやや暗く、黒、白、灰色、
褐色が主体となっている。
デザインは幾何学模様が特徴で横向きの
プーマ、コンドル、正面向きの戦士等がある。

「この幾何学模様をよく覚えていて下さい」。
山口は反応を確かめる様に北原の顔を
のぞきこんで念を押す。
何でもこのティワナコ文化が後の
北海岸地帯に生まれたチムー文化や、
中央海岸のパチャカマ(パチャとは天地、
カマックは創造者)文化、リマ文化
(チャンカイ文化)にまで
影響を与えたらしい。
このティワナコ文化はアンデス地域全般に
均質の文化をもたらせたが、
その中から新たな地方文化が芽生える。
その最大のものが黒色土器で有名な
チムー帝国で、この時期、金銀工芸は
最高水準に達する。
このチムー帝国は1450年頃、
インカ帝国に併合される。

北原はアンデス文化の土器の変遷を
眺めている内に文化の興亡がこれらの
土器にも色濃く反映しているのに気づいた。
ティワナコ文化末期の土器は、
やはり勢いがなく造りも粗雑だ。
プレインカ期のコーナーを終って、
アンデス最大の文明を誇るインカ時代の
コーナーを見学しているうち、
北原は奇妙な感慨にとらわれた。

インカ期土器の何と精彩を
欠いていることか…。
「これらをみていると先史時代にあった
何か巨大な文明の残滓の様な気がしますね」
その感慨がポツリと北原の口からでた。

しかし、山口は、その言葉の
意味するものには気づかず、型通り
インカ期の土器等についての説明を続けた。

当博物館の最終コーナーに失われた
空中都市マチュピチュ遺跡の縮小模型がある。
その縮小されたマチュピチュ遺跡は
畳二十枚分もあるだろうか?
現地を実際訪れるまでもなく
その全容が分かる。
幽玄の気さえ感じられるそのミニチュアの
空中都市を見つめている内、北原の感慨は
確信に変わった。

“そうだ。やはり間違いない。
文明は一旦、衰亡したのだ…。
ザザザザッ、ドーン!

北原はパチャカマの神殿都市の廃墟に立ち、
インカ帝国の創造神であり、教化者であった
ビラコチャが去ったという太平洋を
眺めている。

数年前、犬吠崎の早朝の海岸で茜色に
染まる雲と眩い光彩を放つ朝陽を撮影した。
豪快な波が岩場にぶつかり
白い飛沫が飛び散る。
次々と無数にとびちる飛沫は、無限無常の
人類の歴史でもあった。
海はそれらの母であり、
空はそれらの父であった。
たっぷりとした波を次々送りこむ彼方に
北原の第二の故郷、南米の大地がある。

無限の生命を生みだす海の香に誘われて
モンゴロイドたちはベーリング海峡を
未知の世界へ旅立っていったのであろう。

北原もまた豊かな世界を棄てて
未開の荒野をトボトボと歩く現代の
モンゴロイドに他ならない。

北原はバチャカマの廃墟で
遥か時代を経たタイムラグの玄妙さに
自失した。
この世に絶対の真理があるとすれば、
それは時間だけかも知れぬ。
時の秘義を究めた者はいない。
             (以下次号)





ランキングに登録しました。
良かったら、クリックして下さい。


タグ : 脱ニッポン 日系オバマを

09:55  |  脱ニッポン…  日系オバマを!  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2009.09.22 (Tue)

日本に残るユダヤの風習    脱ニッポン

日本に残るユダヤの風習



迎賓館での酒盛りで九州王朝説が段々皆の
確定的な認識となってきた。
「中国側の記録にかって百余国あったと
される倭の諸豪族を征服し束ねたのが
シルクロードから中国、朝鮮半島を辿って
九州に上陸したユダヤ人部族だった
と思いますよ」日本人のルーツはユダヤ人、
だと主張する福原は、今度は自分の出番だと
ばかりに張り切って話始めた。

「勿論、正統な歴史学会では一顧だに
されませんが、日本伝統の風習が
あまりにも古代ユダヤ文化と
酷似しているのですよ」阿蘇の地酒を
グビッと呷った福原がその具体的な例を
あげていく。
「日本のお正月の行事とユダヤの
『過ぎ越しの祭』、彼等は正月より7日間、
無発酵のパン、つまりお餅を食べます。
また、門前に常磐木の枝を飾り、
苦菜(にがな)を食べます」
ユダヤの正月行事の起源は、ユダヤ人が
エジプトを脱出した紀元前1491年もの
前からのことだ。

「また、禊ぎなど清浄を何より重くみる事、
神社の鳥居、榊としめ縄等、日本には獅子
(ライオン)はいなかったのに、
神社の入り口左右に必ず雌雄一対の
石像があります。
彼等は自分達の旗印に獅子の像を用いている。
また、清めの式として塩をまく風習等、
例をあげたらキリがないよ」
溜っている言葉をもどかしそうに
紡ぎ出す福原。
ユダヤ教は一神教であり、日本の神道は
八百万の神を尊ぶ汎神論であり
全く正反対である。
しかし、何故か両極端の神を敬う両民族の
風習は驚く程、酷似している。
ユダヤ人はノア一族が選民として方舟に乗り、
地球大洪水の災厄から逃れてタガーマ州の
アララト山頂に止まった7月17日を
記念して謝恩祭を行った。

創世記第8章3節に
「これにおいて水次第に地より退き
150日を経て後水減り、方舟は7月に至り
その月の17日にアララトの山に止まりぬ」
彼等は、驚喜して踊りまくったので以降、
この祭には舞踊がつきものとなった。
そして日本では、毎年7月17日に夏祭りの
祇園祭(別名天王祭)が行われ、
また7月16、17日には日本中で盆踊りが
催される。
京都の祇園神社では毎年1週間にわたり
祭典を行っている。
これら日本の夏祭りには、神輿水中渡御の
式も厳粛に行われている。
この神輿の下部には古くから波と鳩に似た
小鳥の彫刻があり、神輿の上には左右の
両翼を広げ、その口に榊の小枝をくわえた
金色の鳥の模型を飾っている。
その際、下部を船に模し、波の模様の幕を
つけた山車を引いて町内を練り歩いている。
これ等はまさにノアが洪水の治まり具合を
調べるため、方舟から鳩を外に放し、
その鳩が口に新芽のでた青葉の枝をくわえて
帰った故事を彷佛させる。
さらに洪水の後、ノア一族が暮らした国は、
西アジアのアルメニヤのタガーマ州で
ここの古都をハランと呼んだという。
これも「高天原」を連想させる。

「阿蘇神社は12柱の祖神を祀っているけど、
これ等もあのイスラエル12部族の象徴では
ないだろうか?」
確かに日本最古とされる紀伊国熊野に
12祖神が祀られるなど日本各地に
12社神社がある。
どうやら日本古神道は古来から12と
いう数にこだわってきている。
大嘗祭の主基斎田に奉仕する者12人、
平安の都に造営した御門も12。
昭和3年に挙行された昭和天皇の即位式が
11月10日発行の東京朝日に次のように
掲載されている。
「ここに我日の本の皇后陛下を御帳台上に
仰ぎ奉るのであった。その壇下全面東方には、
御12方の各妃の宮様が孰れも御五衣、
御唐衣、御裳の御姿で、御列立遊ばされた
その最上位秩父宮妃殿下のお姿を初め、
十二単の御装束端然として並び立たせ給う
御十二方、恰も絵巻物の中の古えを現に見る
如き御美しさである」

またこれらの事象に詳しい人物によると
十二弁の菊花の御紋は古来から皇室と神社に
伝わってきたそうである。
一方、ユダヤの古典によると、
太陽をかたどった天日章の光の筋には
十二と十六の2種類あって、12は勿論、
十二部族を代表する時に使われ十六の方は
全世界に関わる場合に使われたという。
イスラエル十二部族の中にガドという
1部族があった。
ガドの長男の名はニッポンだという。
英語訳ではこの長男の名をZephonと
なっているので日本語に訳された聖書では
ゼポンと記しているが、
ヘブライ語の原書には頭文字に力を込めて
発音するニッポンになっている。
ユダヤ人はZとJを頭文字とする言葉を
正しく発音出来ないという。
従って彼等はZephonをエッポン、
または、ニッポンと発音する。
さらに日本の民謡の囃子言葉は
意味不明なものが多いが、日ユ同祖論を
探求している人たちによると、
それらのほとんどが古代ヘブル語で
意味を持つ、といわれている。

失われたイスラエル10部族を探求して
ついには京都の護王神社の見習い神官と
なったヨセフ・アイデルバーグ
(1985年没)は、日本語とヘブル語の
間に5000以上の類似語を見いだした。
その中の圧巻は、聖徳太子の「大化の改新」
の法律が旧約聖書の律法を定めたもので
あると指摘して一つ一つ比較対象している。



聖徳太子の謎




聖徳太子ほど謎に満ちた歴史上の
人物はいない。
厩の皇子誕生などその誕生から
イエス誕生との類似性。
仏教推進派、蘇我氏と神道推進派の
物部氏との宗教戦争、僅か49歳で
亡くなった早すぎるその死の謎、太子の子・
山背皇子(やましろのおうじ)等、
太子一族の皆殺し…。
太子一族虐殺は蘇我入鹿だが、
その黒幕とされる幸徳・天智・天武天皇らが
後、仏教の国教化を推進した。
哲学者の梅原猛氏は「法隆寺は
聖徳太子一族の怨霊を鎮めるためであった」
との説を唱えている。
また、この法隆寺が建てられた地は、
元々、聖徳太子の住居でありその地に
斑鳩宮(いかるがのみや)があったのだが、
この斑鳩宮は643年に火事で消失した。
ところが不思議なことに最近の調査で
その地に鳥居があった痕跡が発見された。
また、聖徳太子が建立したという
四天王寺にも鳥居がある。
聖徳太子は蘇我一族の係累とされ
日本仏教の祖と祭り上げられているが、
そこには重大な歴史の隠蔽工作が
為されたようだ。
太子一族の怨霊を鎮めるため天武天皇が
法隆寺を再建、「日本書紀」を改竄し、
聖徳太子を仏教の最大の功労者と
祭上げたのではないかと考える
学者たちがでてきた。

平安京を造ったといわれる渡来人の秦一族。
秦氏こそが失われたイスラエル十部族の
グループではないかと多くのユダヤ人
渡来説研究家が唱えている。
秦氏は古神道と基督教を融合させ独自の
神道を日本に定着させたとみられる。
聖徳太子は自分の分身ともいうべき
参謀として有名な秦河勝(はたかわかつ)
に太秦寺(うずまさてら・広隆寺)を
作らせた。
太秦寺(たいしんじ)ともいう
この言葉は中国、唐の時代栄えた景教
(東方基督教・ネストリウス派基督教・
中国語で光の信仰の意)の
教会のことである。
古代山背(やましろ)王国を支配した
秦氏が自分たちの氏寺として建立した
木島神社(このしま)や
大酒神社(おおさけ)の太秦明神などに
不思議な三柱鳥居(みはしら)がある。
日本で一番多い神社は八幡神社で
その総本社が大分県にある
宇佐八幡宮である。
宇佐八幡宮の3宮司も秦氏であった。
宇佐地方は秦氏が京都に移住する前の
居住地だった。
宇佐八幡宮が祀っている応神天皇が、
そも渡来人であった。
その渡来人、応神天皇が日々拝んでいた
神とは何だったのだろうか?
八幡という字は「ヤハタ」と読める。
この「ヤハタ」という言葉はアラム・
ヘブライ語の「ヤハダ」から
転化したもので「ヤハダ」とは
「ユダヤ」を意味する。

福原の言ではないが、例を上げれば
キリがない程、両民族の間には類似点が
多過ぎる。
北原も福原の書斎にあったユダヤ関連本を
改めて読みなおして日ユ同祖論は信じても
良い様な気持ちになっていた。

それにしてもこの世の中には如何に
”タブー“や”欺瞞“が多いことよ…。
と今更ながら思った。
北原は自分が新聞という文字、情報を
提供する立場にあることから文字、
情報が持つ“魔力的な力”を実感していた。
この力を莫大な富と権力を握った者が
行使しないわけがない。
大昔から村々の国々の権力者は文字を
情報を支配し、大衆をコントロールしてきた。
そして今や世界のスーパーパワーを掌握した
権力者が人々に暗示をかけ洗脳し
マトリックスの世界に誘導している。
世に公的歴史書は数限りなくあるが
それらの殆どはその時々の勝者が
都合の良いように書いた作文である。
歴史の真実は重層的に際限なく断片的な
きらめきを見せながらおぼろに消えてゆく。
言葉や文字は天から与えられたものであるが
時に人間を天国へも地獄へも誘う。
ひょっとすれば人間は“文字と言葉”
という魔物のパンドラの箱を開けた時から
精神の崩壊が兆し始めたのだろうか…。
その魔物は今日、コンピュータ世界が
生み出したバーチャルワールドを
嬉々として飛翔している。
その果てに待ち受ける人類の
カタストロフィーと暗黒の夜を
撒き散らしながら…。





南米でガス田開発を目論む92歳の蛭子翁






阿蘇高原の爽やかな風とロマンあふれる
古代史探求を趣味としている気の置けない
彼らとの触れ合いの中で徐々に
北原と優子の枯渇していた気力に新たな
活力が戻ってきた。
福原は三原のほかに当地の大地主、
90歳を超えて尚、海外を飛び回っている
という蛭子亮平を北原に紹介した。
福原の車で蛭子の家を訪れた
北原は意外な気がした。
福原の話では、蛭子は大地主であると
同時に数々の事業を営み熊本市に数件の
マンションや不動産を所有し、
毎年10数億円の税金を払っているという
資産家である。 
大通りからそれて車はこんもりとした
森の小道に入った。
訪ねた家は土地こそ広いようだが
普通の古びた農家だった。
車を門の前の空き地に置いて二人は
敷地に入った 門から玄関までの通路には
砂利が敷かれている。
通路の左右の小さな菜園に家族で
食べる程度のトマトやナスがたわわに
実っている。
右横の畑の奥から長靴を履きつなぎの
作業服を着た小柄な老人が出て来た。 
玄関脇の土間に置いたソファーに
北原たちを誘い
「ご覧の通りのバカ親爺ですよ」と
開口一番、蛭子は言った。
蛭子は北原のことを福原から
よく聞いていたとみえていきなり
自分の生い立ちから経歴を訥々と話し始めた。
さらに部屋から若い頃の写真や自分が
書きとめてきたという関連書類を
持ち出して北原に見せた。
北原は初対面の自分にどうしてこんなに
打ち解けた話をするのか蛭子の真意が
よく分からなかった。
蛭子の饒舌は止まらなかった。
福原が蛭子のことを北原に紹介した時 
「北原さんを高く評価していますよ」
との話を思いだした。
蛭子は養子だった。
中国戦線に新聞記者として従軍したこと、
終戦後、米軍での通訳、貿易業、
メキシコでのオパール探し、
ブラジルでの金鉱探しなど破天荒な
経歴をもった人物だった。
話は先の大戦にまで及んだ。
「ルーズベルトは大変な日本人嫌いでね。
彼と会談した英国の
ロナルド・キャンベル大使はルーズベルト
から「劣等アジア人種」の“品種改良”
というとんでもない提案を受けたと
本国に宛てた書簡に書き残しています。
インド系あるいはユーラシア系と
アジア系を、さらにはヨーロッパ人と
アジア人種を交配させ、それによって
立派な文明をこの地に生み出していく、
ただ日本人は除外し もとの島々に
隔離して衰えさせる」とね。  
「日本軍はろくな武器も無い中で
なぜあれだけ立派な戦いをやれたのか。
それは結局トインビーが言うとおり
日本人はアジアの解放、有色人種の解放と
いう大義名分があったからやれたんだと
思いますよ。とにかく初めてシナに
行った時にはびっくりしたよ。
自分の目で見るまでは嘘だと
思っていたが天津の英租界の
ビクトリアパークなどの入り口に、
「犬とシナ人は入るべからず」と、
英語と漢文で書いてある。
それを見て腹が立ったね。 
人の家に土足で入り込んで来やがって
てめえらは朝からゴルフやパーティーに
遊びまわっていやがる。
シナ人や朝鮮人や日本人を朝から
こき使って傲然としている。
こいつらー、なめやがってと、カチン!
と頭に来ましたね」

確かに日本があの戦争をやらなかったら
世界は未だに白人支配のアパルトヘイトの
ままだっただろう。
大戦後もイギリスやオランダはもう一度
マレーやインドネシアに軍隊を送り込んで
再度制圧しょうとしていた。 
しかし同じ有色人種の日本人に白人が
簡単にやられるところを一度見た
アジアの人たちは
白人コンプレックスから解放された。

ホーチミンの決起は日本人が
簡単にフランス人をやっつけたところを
見たことから生れた。

「判事も検察官もすべて連合国軍による
極東裁判は戦勝国による
”集団リンチ”ですよ」と蛭子。
この勝者による集団リンチの中である
アメリカ人弁護士は
「原爆を作り、落とした側が、
落とされた側を“人道にそむいた”と
言って裁くのはおかしい」
ということを言った。
しかし、この発言は通訳されず
日本社会に伝わらなかった。 
また、大統領の対日宣戦を議会に求める
演説を熱烈に支持した下院議員
H・フィッシュは、後日「ハル ノート」
の存在を知って それを
「恥ずべき最後通牒」と批判した。
「これでは日本には自殺するか降伏するか、
さもなくば戦うか、という選択しか
残されていなかったはずだ」とー。

もし日本が「ハル ノート」をのんで
屈服したら日本が日露戦争以前に
戻るだけではない。
今日のアジア諸国も19世紀のままだろう。
相手はとっくに35年前から着々と
戦争の準備をしていたのだ。
日本がアメリカの真珠湾を攻撃したから
アメリカが立ち上がったなどという
単純なことではない。
東京裁判でもインドのパール判事は
アメリカの歴史家の言葉を引用して、
「ハル ノートのようなものを
突きつけられたらモナコ公国や
ルクセンブルグ大公国といった極小国でも
アメリカにホコを取って立ちあがっただろう」
とまで言った。

ハル ノートをアメリカにあてはめると
「アメリカは ハワイは当然のこと
西部のカリフォルニアやニューメキシコ、
テキサスなどもメキシコに返して、
東部13州に戻れ」ということに等しい。

「ヨーロッパからカナダ、アメリカ、
メキシコ、ペルー、ウルグアイと世界中を
歩きましたよ」
「日本は社会主義国ですよ。こんな国に
住んでいるとケツの毛まで抜かれて
しまいますよ」
「新聞を出すというのは大変ですよ。
一言一句記事に責任を持たなければ
なりませんからね」中国戦線に従軍記者
として派遣されていた蛭子は遠い昔を
思い出すように天井を見上げて
北原の苦労に理解を示した。

どうやら蛭子の世界行脚は持てる者の
悩みから海外に資産を移し蛭子家の財産を
守る一心から出たもののようだ。

「やっと見つけた国がカナダと南米の
ブラジルです」
「寒いのが苦手なので毎年、11月から
2月一杯、ブラジルに逃げていますよ」
ブラジルの日系2世の娘を
長男の嫁にもらっている。
当地では牧場と米作りを手広く
やっているらしい。

「パラグアイに行きますよ 
いろいろ教えて下さい」
今年も11月からブラジルに行くという
蛭子は12月、パラグアイ訪問を
北原に約した。
              (以下次号)








ランキングに登録しました。
良かったら、クリックして下さい。


タグ : 脱ニッポン 日系オバマを

04:45  |  脱ニッポン…  日系オバマを!  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2009.09.20 (Sun)

古代九州王朝説  

阿蘇へ 福原の迎賓館

古代九州王朝


福原の“迎賓館“は、阿蘇神社を
通り過ぎた町外れにあった。
築300年というその家はお社のような
大きな平屋で敷地が300坪程あり、
けやきの古木がうっそうと茂っている。
何でも昔、庄屋の家だったとかで北側に
5軒程民家がある他、
周囲は畑に囲まれている。
やや高台に建っているその家の縁側から
阿蘇5岳がパノラマ状に遠望出来る。

「素晴らしい所ですね~」
優子が感歎の声を上げる。
「イヤ~、例のバブルの末期頃に
買ったのですよ。買ったはいいが、
バブルが弾けて維持管理が大変ですよ」
別荘族の例にもれず、年の内
2、3週間程度しか家族で利用していない
という。
ただ、福原自身は一人で週末、
フラリと来るそうだ。
日頃の掃除などの管理は近所の
おばさんに頼んでいる。

「自分の家だと思って気ままに
使って下さい」 中は黒光りする大きな梁や
柱がその家の歴史を物語っている。
台所は今風の厨房セットが置かれ大きな
冷蔵庫には缶ビールや缶詰めが
コンパクトに詰め込まれていた。
自炊用具は一応すべて完備している。

「美味しい阿蘇米がそこに置いていますから
自由に使って下さい」
居間には掘り炬燵があった。

標高約700m、ここ阿蘇の冬は
結構厳しいようだ。
昔の家の間取りはゆったりととられている。
10数畳の部屋が3つ。
居間と台所の横に階段がある。
外から見ると平屋のようだったが、
中二階の部屋が2つある。
一つは福原の書斎になっており、
壁に作られた書棚にびっしりと様々な
書籍が並んでいた。
もう1つの部屋は国内外の珍しい骨とう品、
絵画が飾られている趣味の部屋になっている。

その夜、福原の車で家から15分程の町の
レストランに出かけた。

「面白い人物を紹介しますよ」と
地元の郷土史家をそのレストランに招いた。
熊本名物、馬刺料理を売り物にしている店で
三原久光という郷土史家に紹介された。
三原は白髪の70過ぎの如何にも
思慮深そうな眼を眼鏡の奥でしばたいていた。
その夜はとろけるような馬刺と
からしレンコンを肴に ビールと球磨焼酎で
北原の選挙談義を中心に歓談した。
北原のアルコールは付き合い程度しか
飲めなかったので専ら料理の方を味わった。

福原と三原はお互いの冗談で大笑いしながら
球磨焼酎を阿蘇の名水のお湯割りで
チビチビ盃を重ねながら気持ち良く
酔っていった。

お互いに気心が知れてくると三原が、
九州に古代王朝があった、という話を始めた。

「日本の正統の歴史では、完全に
無視されているのですが、1世紀前後から
7世紀始め頃迄、九州に王朝があったのです」
日本での文献は皆無だが、中国側の様々な
文献に明らかにその痕跡が記述されており、
近畿地方の大和朝廷と別に九州に王朝が
並立していたという。

つまり、隋や初期の唐朝の中国政権と
交渉したのは、半島や大陸との交易で
栄えていた九州太宰府の
『倭国』政権だったと主張する。

三原はさすが郷土史家だけあって様々な
中国側の「旧唐書」や「漢書」「後漢書」
など古文書の名前を挙げて説明したが
北原にはさっぱりなじみのない名前であった。

その「旧唐書」に『日本国』 は
倭国の別種なり、…或いは言う、
日本はもと小国、倭国の地を併せたりーと
記しているそうである。
三原が説くその倭国は北部九州と
中国地方西部を含む連合体だったようで
百余国に分れていたが中国の武帝が
衛氏朝鮮を滅ぼし、高句麗を建てるという
朝鮮半島の大事件が起こった
前二世紀終わりごろから、倭国にも大動乱が
起きて百余国が三十許国にまで
激減したという、 この大動乱がつまり、
古事記・日本書紀に記載されている
ニニギニミコトの天孫降臨
(てんそんこうりん)ではないか、
と三原は推測する。

すなわちニニギノミコトの天孫降臨によって、
倭国を代表する王朝が生まれたのではないか、
というわけだ。  
ニニギノミコトの天孫降臨が
前一世紀初めごろでニニギノミコトの
4代目にあたる「神武東侵」は、
一世紀初めごろだと断定している。

「この天孫降臨が実は曲者なんだよな。
一説によると、あの有名なイスラエルの
失われた10氏族だという説もある」と福原。

このトンデモ説なら北原も以前から
興味を持って調べて知っている。
この「失われた10氏族」とは、
ヤコブ(後にイスラエルと改名)の
12人の息子に起源を持つ
イスラエル12支族のうち、
10支族からなるイスラエル王国は、
アッシリア帝国によって前720年に
滅ぼされた。
このとき、アッシリアによって捕虜として
連行された10支族のその後の消息が
今日まで不明のままになっている。

つまり、日本人の先祖はシルクロードを
経て渡来したイスラエルの
「失われた十支族」の末裔ではないか
というものである。

イスラエルの失われた10部族 古来、
世界史の流れに大きな影響を与えてきた
イスラエル民族は紀元前1900年頃、
ヤコブを父祖として誕生した。
ヤコブは後に自分の名前を
イスラエルと改めた。
そのイスラエルに12人の息子がいた。
彼等12人の子孫が、それぞれイスラエルの
12部族となり、イスラエル人と
呼ばれるようになった。
そのイスラエル民族は紀元前10世紀、
カナンの地(イスラエルの土地の古名)で
ソロモン王の治世下、隆盛期を迎えた。
しかし、ソロモン王の死後、
イスラエル統一王国は南北に分裂。
北王国は「イスラエル(サマリヤ)」と
呼ばれ、南王国は「ユダ(ユダヤ)」と
呼ばれた。

今日、一般的に呼称する「ユダヤ人」とは、
この南王国の子孫をさす。
ただし「イスラエル人」と同義語でも
使われる。
その後、紀元前722年、
北王国イスラエルはアッシリヤ帝国に
征服される。
アッシリヤ帝国は北王国イスラエルの
10部族を捕囚としてアッシリヤ
(イラク北部)に連れ去った。
以降、彼等10部族は歴史の表舞台から
消え去った。




「古代九州王朝説」




「日本人のルーツはユダヤ人だ」、などと
馬刺を肴にして大いに盛り上がった
阿蘇一の宮のレストランを辞して北原夫妻と
福原はタクシーで築300年の
迎賓館へ戻った。
福原は自分の車を同レストランに残して
同夜は迎賓館に泊まった。
年間平均温度13度で高冷地野菜の
栽培を行っている一の宮町の迎賓館の朝は
爽やかだった。
カリカリのトーストに阿蘇高原牛から
絞ったミルクと香ばしいバター、
それにコーヒー、文句ない朝食だった。
40年ぶりの福原との再会だったが、
相変わらず飄々として、
とぼけた冗談をいう福原に何の違和感もなく
北原もくつろぎ、優子も笑い転げた。

「ここには阿蘇の神々が祀られている
阿蘇神社等がありますから
ゆっくり楽しんで下さい」
一の宮町は阿蘇カルデラ盆地
(東西25㎞、南北18㎞)の真中にあり
周囲28㎞の外輪山に囲まれている。
肥後一の宮の阿蘇神社の壮大な楼門は、
神社建築には珍しい二層屋根で、
見事な彫刻も施されて有名だ。

神武天皇の孫で阿蘇開発の祖神健磐龍命
(タケイワタツノミコト)をはじめ
12柱の神々を祭る 上宮は阿蘇火口に
あったとされ、現在の建物は江戸時代に
再建された。
境内には「願かけ石」や縁結びで有名な
「高砂の松」もあって人気だ。

「実は、三原さん同様、僕も古史古伝が
好きで時折、ここに隠って
調べているのですがね。どうも昨日も話に
出た失われたイスラエルの10部族が
ここ九州にやって来たのじゃないかと
信じてるんですよ」福原が真面目な顔をして
切り出した。

北原もこの日本人のルーツはユダヤ云々、
という話に興味を持って
以前調べたことがある。

「二階の書斎にそれらの関連の本が
ありますから良かったら自由に読んで下さい」
本好きの北原にとって、阿蘇の神話の地で
疲れを癒しながら古の荒ぶる神々の
エネルギーを受けられるなど
願ってもないことだった。

福原はタクシーを呼び昨日のレストランで
自分の車に乗り換え熊本に帰っていった。
熊本まで50キロ、約1時間の道程だ。

迎賓館には2台の自転車があった。
買い物はそれに乗って5分の所にある
コンビニで間に合った。
みじめな惨敗の後、夢の様な優雅な日々が
待っていた。

絶望的な暗い闇の中でもがき苦しみぬいた
人間だけが朝陽の持つ爆発的な活力、希望、
喜びを身体一杯感じ取ることが出来る。
暗闇は人が日々、死んで再生するための
必要不可欠な秘儀である。
砂漠の恐ろしい一神教の“ヤハウェ”を
頭上に掲げてシルクロードを旅して
来た人々も日本列島のたおやかな自然の
中で徐々にすべての生きとし生ける万物に
神の煌めきを見たのではなかろうか。
阿蘇草千里の高原にさやかに吹き渡る風、
揺れる可憐な草花、夫婦水入らずの
気ままな散歩、サイクリング…。
そして、書斎やテラスでの読書三昧…。

翌土曜日の午後、待ちかねたように福原が
熊本から車を飛ばしてやって来た。

「美味しい魚を持ってきましたよ。
これで一杯やりましょう」 魚釣りの好きな
福原はいつも自分でさばくのだと
言って器用に刺身にした。

やがて三原が地元の銘酒“阿蘇誉れ”を
1本下げてやって来た。
優子が野菜サラダや煮物など数品作り、
迎賓館での酒盛りが始まった。

「663年、朝鮮半島の権益を巡る一大決戦、
白村江(はくすきのえ)の戦いが
唐・新羅(しらぎ)連合軍対倭国
(九州王朝)・百済(くだら)連合軍の間で
勃発し、唐・新羅連合軍に敗れた百済は
滅亡し、新羅による朝鮮半島統一が
始まったのです。
この後、九州王朝は滅亡し、
近畿の大和朝廷が九州王朝を併合し
日本の支配権を手中にしました」
三原の説によるとそれまでの九州王朝は
朝鮮半島と頻繁に交易し様々な権益に
関わってきたという。

万葉集に謡われる歌の多くが、
九州王朝時代のものだ、とも三原は言う。
さらに、君が代についても筑紫の志賀島の
志賀海神社でお祭りの時の「山ほめ祭り」
の中でこう歌われている。

「君が代は、千代に八千代に、
さざれいしの、いわおとなりて、
こけのむすまで」と歌われている古歌だと
指摘する。

また、同様の歌詞は「古今集・巻七」に、
「題しらず、読人しらず」として、
「我君は千世に八千世にさゞれ石の巌と
なりて苔のむすまで」という歌が
記録されている。

古今集は平安時代、後醍醐天皇が905年、
紀貫之に作らせた「勅撰和歌集」である。
三原に言わせれば、「読み人知らず」とは
時の政権に都合の悪い名前の時、
「読み人知らず」とするのが
常套手段だという。 
九州各地では薩摩地方で歌われていた
「薩摩琵琶蓬莱」や、福岡・志賀島の神社の
「山ほめ祭り」の中で、「君が代」は
伝承されていた。

つまり、統一大和朝廷が九州王朝時代の
古謡をちゃっかり頂戴し、古今集に収録して
「読み人知らず」としたわけである。
 そして、明治政権の樹立と共に、
皮肉にも九州・薩摩出身の軍人によって、
「君が代」は発掘され、
近代日本の国歌となった。

そう言えば、北原もかって読んだ、
ある「万葉の謎」という本の中に
気になる歌があった。

舒明天皇、香具山に登りて望国(くにみ)し
たまふ時の御製歌 大和には 
群山(むらやま)あれど とりよろふ 
天(あめ)の香具山 登り立ち 国見をすれば 
国原(くにはら)は 煙(けぶり)立ち立つ 
海原(うなはら)は かもめ立ち立つ 
うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 
大和の国は
(万1-2)

この歌の舞台について九州王朝説を
となえる著名な作家は、この香具山は
別府に聳える鶴見山ではないか?と
疑問を呈している。
一般的な解釈としては、 ーここ大和には、
山がたくさん寄り集まっているが、
とりよろふ(語義未詳だが、
とりわけ優れている。拠り所とする)
天の香具山に登り、頂に立って領土を
見渡せば、人の住む広々とした平野には、
靄が立ちこめている。
広々とした海では、あちこちで
鴎が飛び立つ。
豊かなよい国だよ、蜻蛉島と呼ばれる、
日本の国はー。
となっているのだが、奈良にある香具山は
山というより丘で低過ぎる。
また、海原 とある奈良盆地は
洪積世末期から沖積世にかけて、
海湾→海水湖→淡水湖→盆地と変化し、
舒明天皇の頃(西暦七世紀)、
大和郡山あたりまではまだ
湿地帯だったので、これを海原と言った
(樋口清之説)。埴安の池など、
天の香具山周辺の池を言ったという説も
あるがこれも苦しい解釈だ。
いずれにしても丘のような低い奈良盆地の
香具山から海は見えない。

やはり海は海として別府湾の雄大な海に
鴎が飛交い、別府の村々に温泉の湯煙が
立ち上る様の方がはるかにピッタリくる。
豊後の国は昔、安萬(あま)と呼ばれており
仏の里として有名な国東半島の付け根に
安岐という地名が残っている。
また、鶴見岳の古名は香具山だった。

この歌が北原の故郷大分に関係した
歌だったので今でも良く覚えているのだが、
別府湾と言えば、大地震と津波によって
一夜にして海に沈没した瓜生島伝説がある。
それに関連する「豊陽古事談」や
「豊府紀聞」、「日本一鑑」にその伝説の
瓜生島の古地図も
それらの中に残されている 。
瓜生島が沈んだのは、いまよりちょうど
四百年余前の慶長元年(一五九 六)
といわれる。

瓜生島は府中(大分市)の西北三・三キロの
ところに あった。
東西三・九キロ、南北二・三キロ、
周囲十二キロの島であったという。
戸数は約千戸、多くの 船が各地から
出入りして活気があったという。
島には恵比寿神社や威徳 寺といった
大きな寺社もあった。
その被害者数は八百人前後と記録されている。
島の住人の大多数が犠牲となった。
このとき由布岳や対岸のサルで有名な
高崎山からの噴火があり、夥しい噴石が
別府 湾に降り注いだようだ。
対岸の陸地でも地震の被害は甚大で、
近くの 鶴見岳が崩落して谷を埋めたことも
記録されている。
火山活動を伴った直下型の地震と津波が
瓜生島周辺を直撃したという
ことになるのだが、これと同時期に
京都や近畿で大地震が発生している。
こちらでは余震が数カ月間も続き、
豊臣秀吉の居城であった伏見城でも建物が
倒壊し六百余人、堺でも六百余人 の
圧死者が出ているから、西日本全体に及ぶ
大災害であったことになる。

この瓜生島は元々、「沖ノ浜」と
呼ばれていたもので、戦国時代の
中国 鄭舜功(ていしゅんこう)や、
ポルトガルの宣教師である
ルイス・フロイスなどが、
この海中に没した豊後の島のことを
書いている。
フロイスがイエズス会への報告書簡の中に
「日本において1596年に起こった
いくつかの奇跡の概説」
として記録に残っている。  
それは「豊後の国について」と題されており、
地震の際”オキノファマ”などに約4mの
津波が押し寄せ、海岸から約2㎞に渡って
浸水の被害を受けたと書かれている。
フロイスは1563年に来日した後、
日本で暮らし、1597年に
長崎で亡くなった。

北原は、小中学校時代、大分港に
よく泳ぎに行った。
北原の家は国鉄の大分駅前にあったのだが、
そこから港がある春日浦まで
小1時間の道を友達と
テクテク歩いて行った。
当時、港の付け根に古鉄置き場があり
そこに零戦の残骸が無造作に積まれていた。
その零戦の風防ガラスの破片を
宝物のように大事にした。
と言うのは、それをこすると
実にいい匂いがするのだった。
港で存分に泳いだ帰途、春日神社の
境内中に木霊する蝉の鳴き声の大合唱を
聞きながら木陰に置かれた涼み台で
アイスキャンデーやかき氷を食べるのが
楽しみであった。

その大分港内に奇妙な中州というか、
小さな水没島があった。
この港には赤灯台、白灯台があり
船の入出港の合間を縫って両灯台間を
泳いで往復するのが常だった。
その港内の丁度中央部当りに、時折、
背が届く程の小さな中州が出来た。
子供の背が届く程の中州のような島が
多くの船が出入りする港内にあるのも
不思議なことであった。
今にして思えば、その水没島が
現れたのは大潮の時だったのであろうか…?  
              (以下次号)






ランキングに登録しました。
良かったら、クリックして下さい。


タグ : 脱ニッポン 日系オバマを

08:53  |  脱ニッポン…  日系オバマを!  |  TB(0)  |  CM(1)  |  EDIT  |  Top↑
 | HOME |  NEXT