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2009.06.30 (Tue)

新連載  サンパウロからブエノス

18
サンパウロの夜空に飛び交う怒号






7月10日、アスンシオンを発って、サンパウロを訪れた。
北原の出身地である在伯大分県人会の役員会に出席し
「次期衆院選に立候補したい」と述べた後、
当県人会の山本副会長が北原を紹介するため挨拶に立った。
「………!」
山本副会長、立ったまま暫く声が出ない。
北原が見るとウッスラ涙を浮かべている。
感動で喉がつまって声が出ないようだ。
「北原さんはとても苦労した人なんです。
原始林に挑戦した初期開拓者たちや二世の様々な問題も
よく分かっている人です」
山本副会長は、北原の苦闘期、仕事の関係でアスンシオンに
4、5年滞在していたことから北原がパラグアイに
移住してきたいきさつもその後の経緯もよく知っていた。
北原も一瞬、目頭が熱くなった。
「大分には友人親戚も大勢いるから選挙の時は駆け付けるよ」
とブラジリアの日本大使館を退職して今は悠々自適の谷口氏…。

「最初話を聞いた時は気違い沙汰だと思ったよ」と
其邦字紙の岡崎デスク。
じっくり北原の話を聞いた後、
「いけると思うよ」と変わった。
「新聞社としてはドン・キホーテにはなれないんだよな」
と言いながらも
「北原氏はドン・キホーテになると言う。
彼の決意は『さて、お前たちはどうする…?』と
我々に突き付けられた刃である」
と自紙のコラムに書いた理論派の山中編集長。
幸いサンパウロでは地元の邦字紙ブラジル日報と
サンパウロ報知の社会面トップに
「北原氏次期衆院選に出馬表明」と大々的に報じた。
北原は、サンパウロでは地元日系社会の御三家たる
ブラジル日系人協会、ブラジル移住者協会、
ブラジル福祉協会をまず表敬訪問して立候補の
趣旨説明をした。
ついで沖縄を含む九州の各県人会を軒並み訪問。
ほとんどの県人会会長が積極的な支持を表明してくれた。
サンパウロ報知新聞社の入っているビルの7階を
後援会事務所として借りた。
選挙参謀には在外選挙実現に奔走してきた
元移住者協会会長の奥野弥太郎になってもらった。
奥野は昔の東映時代劇に登場する一徹者の古武士的な
雰囲気をもっている。
彼は在外選挙の動向に人一倍関心を持っており、
海外から名乗りを上げた場合の具体的な戦略を持っていた。
あまりに専門的な資料を持っているので思わず北原は
「奥野さんが立候補されたら如何ですか?」と聞いた。
「いや、私はブラジルに帰化していますので…」
ちょっぴり残念そうな気配が見られた。
日系社会に顔の広い事務局長も決まり、パソコン、電話、
机と用意し、半日勤務のアルバイト職員も雇う事にして
事務所オープンは8月1日とした。
北原は、これまで年に何回かサンパウロを訪れ
地元邦字新聞社記者たちとも顔なじみになっていた。
記者、編集者、後援者たちとガルボンブエノの居酒屋で
酒を酌み交わしながらの旗揚げ雑談壮行会が行われた。

「公民党の公認、推薦が先決だ~!」
「どうせ通りゃしないんだから、無所属で立って
政府の外交政策、日系社会に対する無為無策を
ガンガン攻撃しろ!」
「移住者が立候補したって単なる変人、泡沫候補に
終わるんじゃないですか?」
「日本の無党派層の若者たちが目を向けるような
アピールが何か欲しいな」
「公民党の南米支部をサンパウロに作ろう!」
「高崎幹事長とは早稲田柔道部の先輩、
後輩のポン友だって言ってたな~、お前、
絶対に幹事長に紹介状を書けよ!」
「お前じゃ~迫力ないよ~、俺が立候補してやる~」
「ばかやろ~!」「てめぇ~!」
アルコールが回ってくると盃が宙を飛び交い、怒声、
罵倒、取っ組み合いの大狂乱となった。
日系のオカミは目をつり上げ、ブラジル人女店員は
「他の客に迷惑だから出ていってよ~!」
「警察を呼ぶわよ~!」と
金切り声を上げて散々な壮行会となった。


パッションと憂愁の街ブエノスアイレス 


北原がサンパウロを7月18日午後18時の便で
発ってアルゼンチンのブエノスへ着いたのは、
夜21時半だった。
空港の外は寒風が吹いていた。
外でタクシーを待つ間、冷たい南の風が顔や首筋に
突き刺さる。
サンパウロは猥雑な活気がある街だが、
ブエノスアイレスは、南米のパリと言われただけあって
気障でクールなパッションが漲っている。
北原はブエノスには何度も来ているが、来る度に男心を
くすぐるラ・クンパルシータやエル・チョクロ、
ジーラジーラ、カミニートなどのアルゼンチンタンゴの
旋律が身体の内側から蘇り胸が妖しく高鳴る。
恋のためなら命を捨ててもいい、理想のためなら
生命を賭して戦う、という狂気にも似た熱いラテンの血が
暗く淀む憂愁の街ブエノス市内のホテルへタクシーで
向かった。

アルゼンチンで初期移住者の受け入れ業務を行ったのは、
アルゼンチン拓殖組合という団体だった。
その後、移住業務は、世界協力事業団に受け継がれた。
翌夜、その拓殖組合の高田会長が理事を集めて北原の
歓迎会を催した。
高田会長にはサンパウロの関係者から
「北原氏が訪問します。訪問目的は本人から聞いて下さい」
という簡略過ぎるFAXが届いていた。
高田会長は詳しい事は分からないながらも理事を召集した。
北原は、日本で最大のNGO団体である世界緑化協会の
パラグアイ総局の会長をしていた。
このNGOは、30数年にわたりアジア、オセアニアを
中心にマングローブの植林をしたり、農業指導を行っていた。
南米ではブラジル、ウルグアイ、パラグアイに
世界緑化協会インターナショナル総局が数年前に次々出来た。
南米に総局が出来たことで世界緑化協会は、
世界のNGOをランク付けしている国連の関係部局の
カテゴリーAに認定された。
カテゴリーAに認定されている代表的な国際NGOに
赤十字がある。アジアでカテゴリーAになったのは
同協会が初めてだった。
世界緑化協会インターナショナルのそれぞれの総局は
独立採算制で本部からの支援は何もなく各総局が独自に
会員を集めてプロジェクトを計画して活動を進めている。
アルゼンチンでは、このアルゼンチン拓殖組合が
同協会アルゼンチン総局の役割を果たしている。

10数人の錚々たる理事が集まった席で紹介された
北原は、「実は、海外日系人を代表して次の衆議院選挙に
出ようと考えています」
「ん……?」
一瞬、沈黙が場を覆った。
あまりに常識外の発言だったので思考が混乱した様子だった。
北原はなぜ日本の国政選挙に出馬を決意したかという
経緯を説明した。
「日本の人々は全く海外日本人の現状を知らな過ぎる」
「この南米には百数十万もの日本人移民が営々として
築いたそれぞれの土地に日の丸の旗がひらめいている。
これら百数十万もの日系人がかち取ったこれらの土地は
戦車や大砲で奪ったものではない。日本政府は彼等の
心の中にはためいている日の丸を知っているのか!」
「世界中に300万人を超える日系人のパワーと
各国に於ける日系人のステイタスを日本はもっと活用すべきだ」
「やがて来るであろう食糧危機を救うのは世界の
食糧基地南米である。食糧自給率が先進国で最低の日本は
もっと南米の重要性を認識すべきだ」
北原は滔々と自論を披露した。
やがて歓迎会はすき焼きパーティーに代わった。
飲んで食べる内に場も盛り上がり
「積極的に応援しますよ」
「最近の日本はどうなっているのか、情けない」
「海外日本人パワーで日本を叩き直せ!」
「世界日系人連合会を作って日本にプレッシャーを
かけよう!」とブエノスの夜に怪気炎が燃え上がった。

翌日、アルゼンチン報知新聞社を訪ねた北原は、
金城社長と赤城編集長と昼食を共にした。
食事をしながら来意を告げると二人は目を輝かせた。
「いや、ここでも在亜日系有権者会というのがあり、
選挙登録の呼びかけや投票に行くように
啓蒙しているのですが、
『誰に投票していいか分からないし、手続きも面倒だから
棄権する』という人も出ており、我々の運動も暗礁に
乗り上げていたんですよ」
「それはいい、担ぐお神輿が出来てもう一度啓蒙運動に
弾みがつく。平田会長に会ってもらいましょう」
在亜日系有権者会の総務担当理事をやっている
赤城編集長は大喜びをした。
この赤城編集長は、拓大OBで現地ラジオやテレビ等の
コメンテーターとして、また俳優もやっており、
アルゼンチンの映画は勿論、ハリウッド映画にも
ちょくちょく出ている。先般もアンデスの山麓で行われた
チベットを舞台にした映画でチベットの高僧役で出ている。
多彩な熱血漢で現地社会でも名前を知られた人物である。
年齢はもう70歳はとっくに過ぎている筈だがまだまだ
枯れる気配は微塵もない。
毎日アルゼンチン報知の社説に健筆を奮っている。
何でもその事務局は新聞社に置いているとのことだった。
在亜日系有権者会の平田会長は在亜叙勲者会の会長も
務めているアルゼンチン日系社会の長老である。
早速、北原が宿泊しているホテルで会うことになった。
赤城編集長に伴われて来た平田会長は、話を聞くと
「積極的に応援しますよ」と明言した。
同夜は何でもブエノスで開催されるNHKのど自慢大会の
打ち合わせが沖縄県連会館で在亜日系団体連合会の
打ち合わせがあるということで北原は赤城編集長と一緒に
その会合に出た。
寒い夜だった。
会館には既に関係者が2、30人集まっていた。
在亜日系団体連合会の太田会長の許可を得て北原は
参会者に国政選挙出馬の趣旨を手短かに説明した。
大きくうなずく人々を見て北原は確かな手応えを感じた。



ニューヨーク “パンアメリカン日系人大会”



「第11回パンアメリカン日系人大会」が、
7月25日~28日の4日間、ニューヨークの
マンハッタン、ルーズベルトホテルの大会議場と
小会議場で開催された。
パラグアイから北原を含めて17名が出席した。
この大会は北米、中南米の各分野で活躍する二世、
三世のリーダーたちが日系人としてのルーツの確認、
情報交換、結束を呼びかけて始まった。
第1回大会でメキシコのロベルト・橋本氏が会長になった。
同会長は 「居住国の良き市民になろう」
という大会スローガンを提唱し採決された。
本大会は3年ごとに開催国持ち回りで行われてきた。
本大会には、カナダ、北米、中南米、日本から
約400名が参加して「過去を思い起こして
より良い未来を築こう」との大会スローガンの下、
「貿易ビジネス」「日系人問題」「開発プロジェクト」
「医学」の各部門ごとに分科会が行われた。
大会前夜には、「ハドソン河夕陽観賞クルージング」
が行われライトアップされた自由の女神やマンハッタンの
超高層ビル群を心ゆくまで観賞した。
この40数日後の9月11日に、
あの世界貿易センタービルが、木っ端微塵に
破壊されるなど誰が想像出来ただろうか?
この時、ニューヨークは、まだ平和な我が世の春を
謳歌していた。
27日、ニューヨーク在の日本企業代表者で
構成されている「ジャパンクラブ」から代表者のみ
昼食のご招待を受けた。
日本を代表する有名企業の現地トップたちがズラリ居並ぶ
中で昼食懇談会が開かれた。
さすが、ニューヨーク、日本の懐石弁当に引けをとらぬ
立派な弁当が北原たちの前に並べられた。
昼食の前に簡単な挨拶交換があり食事となり、その後、
コーヒータイムで質疑応答が行われた。
最初は差し障りのない経済情勢等についての応答が行われた。
やがてメキシコのロベルト・橋本会長の妹、
マルガリータ・橋本さんが手を上げた。
司会の川田さんが、
「この人はメキシコの田中眞紀子と言われています」
と紹介して皆をどっと笑わせた。
メキシコの眞紀子さんの質問はさすが辛辣だった。
「こちらに進出している日本企業はなぜ優秀な
日系二世三世を抜てきしてリーダーに
取り立てないのですか?」
「いや、どうぞ…」
「いやいや、あなたから答えて下さい」と、
誰がこの回答をするかでもめるジャパンクラブのお歴々…。
「我々日本企業としてはものの考え方や経営理念等で
日本文化をしっかり理解しておられる方でないと……」
何とも歯切れの悪い回答だった。
カチンときた北原が手を挙げた。
「各国の日系人二世、三世には優秀な人材が
輩出しているのに彼等を昇進させないから、
優秀な日系のエリートたちは、アメリカ企業やドイツ、
イタリア企業に就職している。これは日本の進出企業に
とっても日本国内の企業にとっても大変な人材流出です。
そういった日本の閉鎖性を改めない限り日本の飛躍は
ありません。在外選挙権然り、在外原爆被爆者問題然り、
それらの問題を打破したいと思って私は海外日本人を
代表して次期国政選挙に名乗りを上げようと
準備をしています」。
「……」
一瞬、ジャパンクラブの席上にシラ~とした空気が流れた。
昼食会終了後、各社のトップに北原は名刺交換を求めたが、
「いや、名刺をきらせまして……」と逃げる人が2、3名。
北原も(なにも資金カンパなど要求しないよ。バ~カ!)
と苦笑した。
「連中、欧米人には卑屈な位ペコペコするくせに
日系人に対しては、実に横柄なんですよ。
北原さんがガツンとかましてくれたので
スーっとしましたよ」と、国際機関に数十年勤務している
パラグアイの日系二世の川田が帰り際、
そっと北原に語りかけてきた。



サンフランシスコ「海外の被爆者を…」



7月29日、北原はニューヨークから
サンフランシスコに飛んだ。
ケネディ空港の機内で待ちぼうけを食う事4時間。
(アメリカもひどいもんだ) ニューヨーク~
サンフランシスコ6時間。
空港には北米日々新聞社の山本社長が北原を
迎えに来ていた。
サンフランシスコには半世紀以上の歴史を持つ
北米日々新聞社と日米報知社という邦字紙が2社ある。
どちらもいわゆる戦前の移民を対象にスタートした
邦字紙で激変する日系社会の木鐸として米国社会の
抑圧と偏見に敢然と戦った輝かしい実績を誇っている。
当時の新聞人の気骨たるやまさに火を吹くばかりで
多くの名物記者、編集者を輩出している。
しかしながら、時代の変遷に伴い一世は次々世を去り、
日本語を読める二世の購読者も高齢化して行く中で
2社とも厳しい経営を強いられている。
北米日々新聞社の山本社長は前社長の辞任に伴い
数年前、就任したもので本職は西本願寺の開教使である。
日本からの移民はいわゆる元年移民といわれる
ハワイの明治元年の移民が発端となっており、
多くの移民と共に西本願寺の開教使たちも海を
渡ってアメリカへ来た。

70代の山本社長は、如何にもお経と説法が似合う
穏やかな人格者である。
同氏は開教使のかたわらロスの邦字紙、加州タイムスに
軽妙なコラムを長年にわたり掲載しており、
移民の哀感を織りまぜた同コラムは多くのフアンを
持っている。 霧が立ちこめるサンフランシスコは
多くのアメリカ映画の舞台になっており若い女性が
最も憧れる街であろう。
事実、街には短期、長期の留学や観光に訪れた日本女性が
目立つ。両邦字紙ともその手の若い日本女性の
アルバイトが多く働いている。
何も取り立てて有名な観光地もない南米のド田舎
パラグアイの北原としては、若い女性が生き生きと
働いている様子はため息が出る程、羨ましい限りだった。
両社の社長や編集者たちに誘われてカラオケに行った
北原は切ない気持ちを込めて「想い出のサンフランシスコ」
を熱唱した。
北原にとって当地は3度目だった。
ホテルはジャパンタウン前の都ホテルに宿泊した。
こじんまりしたいいホテルだ。
何より目の前に日本レストラン、店が立ち並ぶ
ジャパンタウンが控えているのがいい。
山本社長の案内で当地の日系有力者を表敬訪問して
出馬の趣旨を説明し、協力を求めた。
その中の一人に岩本完二さんがいる。
岩本さんは、北加日米会会長、米国原爆被爆者協会名誉会長だ。
                        (続く)





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2009.06.28 (Sun)

新連載  17 「選挙に出ろ」…だって?



17
「選挙に出ろ」だって…?




密教は景教と仏教の混合



北原は尾張戸神社の啓示以降、毎年、訪日の度、
各地の神社仏閣に参詣するようになった。
それまで様々な宗教書、霊能者などと会ったり
していた北原は、段々、密教に惹かれるようになった。

ある年、北原は、高野山に参詣した。

11月の高野山は既に冬の気配を漂わせていた。
宿坊に泊まった早朝、夢うつつ滔々と高く低く遠い川の
流れにも似たせせらぎのような地鳴りのような音が
聞こえてきた。その不思議な抑揚を持った音につられて
廊下を歩いて行くとそのリズムのようなせせらぎが
本堂から聞こえてくるのが分かった。
声明だった。
大勢の僧侶が朗々と歌うようにお経を上げていた。
美しい響きだった。
大勢によるお経がこんなにも美しい旋律をもって
いることを初めて知った。
声明は仏教に於ける賛美歌だということに気づいた。

午前中、北原は、まぁまぁばあちゃんの紹介状を
持って高野山で最も高名な密教の高僧に面会を求めた。
案内に出た若い僧侶に案内されてお能の舞台のような
板張りの部屋に通された。
「大師がお見えになる迄、恐れ入りますがこの板の間を
磨いて下さい」と乾いた雑巾を1つ渡された。
言われるままに北原は、既に十分磨き込まれた
その板の間を丁寧に丁寧に心を込めて磨いた。

「どこかで修行されたのですか?」
いつの間にか桐井大師が後ろに立っていた。
精魂込めて磨いていたので気がつかなかった。
掃除の仕方を見てその人物の人間度を図るのであろう。
どうやら北原はお眼鏡に叶ったようだ。
曼陀羅図の額を背にして座った太師は、
密教の話を諄々とされた。
北原の密教への習熟度が分かった大師は、
いきなり奥義について触れた。
「顕教(一般仏教)が山に登るためにゆるやかな
坂道をうねうねと曲がりくねった登山道を用意するのと
違って密教には身口意の三密行というものが
大事にされています。身密(身体の働き)、
口密(言葉の働き)、意密(心の働き)ですね。
つまり、聴覚、味覚、嗅覚など五官を総動員して
一気に直線的に頂上を目指します。
従って相当ハイレベルの心根を持っていないと
急峻な崖から転落死します」
「密教には2種類あります。
『如来の秘密』と『衆生の自秘』です」
「如来の秘密」とは、密教は実践的なものが大きな
ウエートを占めているので、体力ができていない
小学生にいきなりオリンピック選手の超難度の技を
教えるわけにはいかない。
「衆生の自秘」とは、本来すべてはオープンになって
いるのだが、それを見る方がそれを読み取れる段階まで
達していないから秘密になっている。
つまり自力で智力、体力を鍛えなければそれらの秘密を
解くことが出来ない。
「もともと密教では、生きとし生けるもの大宇宙の
顕現だから、すべてに仏性がある、としている。
従来、日本の仏教はすべては無である、ということを
強調してきました。だから仏教はどちらかと言えば、
無、即、虚無の世界というイメージが強かったのです。
それに比し密教はこの曼荼羅をみても分かる様に
空なるものの中に秘められた爆発的なエネルギーを
大事にするのです。有名な芸術家がいみじくも
言いましたね。“芸術は爆発だ“と密教も誤解を
恐れずに言えば芸術なんです。
だから人は生まれながらに内包している種子を
人生で花開かせなければいけないんです」

次第に核心的な話を吐露した桐井太師は
奇妙なことを言った。
「ここの密教は元々、景教の分派のようなもの
ですから儀式の最初に十字を切ります」
景教とは中国で栄えた古代東方基督教ではないか…?
ならば、空海は中国で基督教に出会ったというのか?
この東方基督教はアッシリア地域をベースとした
原始基督教からシルクロードを東進して東方に逐次
広まったものであの伝説の「イスラエルの失われた
10部族」ではないかといわれている。
5世紀以後のヨーロッパは、キリスト教の暗黒時代に
入った。 その暗黒のヨーロッパを嫌って、
景教徒たちはシルクロードを東へ東へと発展してきた。
「密教は景教と混合した仏教なんですよ。
密教で行う灌頂(かんじょう)も実はキリスト教の
洗礼式からきたものなのです」
さらに同師は、天台宗の開祖・最澄が中国から
「旧約聖書」を空海は「新約聖書」の漢語訳文を
持ち帰ったとも衝撃的なことを言った。
また、同師は魔事について強調した。
仏は功徳と智慧で人々を救い上げて涅槃に入らせようと
するのだが、魔もまた、同じ様に人々の善根を破壊して
現世の苦しみの世界に漂流させようとする。
人の善根が高くなればなるほど、魔の働きも
また盛んになってくる。
そのような時、魔とがっぷり組み合ってはいけない。
魔、本来、空なるものなので受け流せば自然体で
受け流せば消滅するものだ。―と。

まさに目からうろこ状態になった北原は、
同師から聞いた話の余韻を味わうべく境内を
そぞろ歩いた。
確かに参道境内にある石灯籠にはダビデの星が
刻まれている。さらに景教碑文も建立されていた。
北原は、大師との一期一会の出会いでまさに密教の
秘密を知った。
当地で密教の経文を買い求めた北原は、以降、
祝詞と般若心経と密教の真言を毎朝仏前で唱えるようになった。



「頂上に上れ!」もう一つの霊夢



それから暫くして北原は、またしても霊夢を観た。
前回の無人の銀座のど真ん中で
「俺は政治家になるぞ~!」と絶叫したあの奇妙な夢と
同じ様に夢の中で「これは霊夢だ」とハッキリと
自覚していた。
その夢は、明らかに日本の破局の場面だった。
その破局が大地震によるものか何に起因するものかは
分からなかったが、大勢の人々が山の上の方から
算を乱して駆け降りていた。
北原は逆に山を駆け登りながら、大声で
「頂上へ登れ!」と人々に叫んでいた。
何人かの人々が向きを変えて北原に従い頂上に向かった。
それだけの夢だった。
頂上に何があるか結局その夢では示されなかった。
北原にとって無人の銀座での絶叫と日本の大惨事で
山頂に逃げる霊夢は、何年経っても北原の心奥に
深く刻み込まれたままだった。



“遊びは終わりだ!“
新宿雑踏での啓示!




「天の時」と「地上の時」は、全く異なる。
太古から多くの預言者が「来るべき時」に
ついて語ってきた。 それらの預言の多くが地上の
人々の期待と予想を裏切ってきた。
北原が尾張戸神社の啓示を得、また、高野山で密教の
秘儀を垣間見て平々凡々たる月日が流れた。
北原に新たな啓示が降りてきたのは
2000年のことだった。

あろうことか、その啓示は新宿の雑踏を歩いている
時だった。
「遊びは終わった」ー。
柔らかいインスピレーションというか、
静かな沁みるような湧く「想い」だった。
北原は、毎年10月、世界日系新聞協会の大会・総会に
出席していた。 この協会は、外務省の外郭団体(財)
「世界日系人協会」の傘下にあった。
当然、会長、理事長など主要役員は大使や
外務省OBらが歴任していた。
総会や新聞大会は、日本側事務局主導の総花的な
ものだった。 これに北原は、不満を覚えた。
当時、古い歴史を持つ各国の弱小邦字紙が次々廃刊に
追い込まれていた。
北原は、苦境に追い込まれている各邦字紙の経営改善や
日本国内での広告受注が出来る様に事務局の強化などを
南米各国の邦字紙と結束して改革を訴えた。
壁は厚かった。それに北米の古い伝統を持つ邦字紙の
社長たちが南米組の叛旗に不快感を示した。
北原たちは、3、4年がかりで北米の邦字紙幹部たちを
説得して遂に革命に成功した。

つまり、新聞協会の会長職を大使OBから協会加盟社の
北米の伝統ある新聞社社長に交代させた。
北原が新宿の雑踏を歩いているときに新たな
啓示を受けたのは、北原が世界日系新聞協会3代目の
会長に就任してから2期目の秋のことだった。
北原が3代目会長に就任した翌年、1999年から
海外の日本人も国政選挙の比例代表選挙に限り
投票出来る法案が成立した。

そして2000年、衆議院選挙が行われた。
北原は各政党広告を新聞協会会員社に出稿して
もらうため事務局員と一緒に各政党巡りをした。
永田町のある政党事務所を訪問した時、
「あなたたちの協会は世界を網羅していませんね」と、
広報担当者に言われた。
確かに会員社は一部アジア、オセアニアを
含んでいるものの大部分が南北アメリカに集中しており、
ヨーロッパが含まれていなかった。
これに発奮した北原は、急遽イギリス、ドイツを回り
当地の邦字新聞の加入を図った。
さらにアジアの会員社も増やした。
翌2001年、行われた参議院選挙前、いちゃもんを
つけた政党の広報担当者に(これでどうだ!)と
気負って会員社リストを示して交渉した。
だが、その政党は「費用対効果がない」と
にべもなく断った。

北原は世界日系人大会や世界日系新聞大会などで
浮き彫りになった在外被爆者、二重国籍、日本語教育、
半人前の在外選挙権、ODA等々の様々な問題を
これまで関係官庁や政治家たちに陳情を繰り返してきた。
しかし、近年、その陳情に空しさを感じていた。
北原は、「遊びは終わりだ」という啓示から
何か大きな使命を担わされるのだろうと覚悟をして
日々その意味を考えて過ごした。
参議院選挙後、パラグアイに帰国した北原の胸に
小さな小さなさざ波が時折、押し寄せるようになった。
(オイオイまさか?そんなドン・キホーテ役は
出来ないよ…)
そんなピエロの茶番劇をやれっていうんじゃ
ないだろうな…?
北原は消しても消しても押し寄せてくる
さざ波をいい加減もて余した。

「選挙に立候補しろ!」ーだと…。
確かに昨年から海外在住の日本人たちも国政選挙の
投票権は出来た。だがそれは比例代表のみだ。
何十年も海外で暮らした男が今さら故郷に帰った所で
浦島太郎だ。 とんだお笑いぐさのピエロだ。
「やめろ~」
振払っても振払ってもその思いはあたかも
満ちてくる潮のようにひたひたと寄せてくる。
確かにその波の源流はあった。
ほんの7、8年前まで世界日系新聞協会メンバー社で
経営不振の社は南米組と決まっていた。
ところが、ここ4、5年、北米の社も苦境を
訴えるところが増えてきた。
強引に協会を引っ張ってきたリーダーとしては、
何とか協会メンバー社の経営を立て直したいという
責任感が重くのしかかっていたのも事実だ。
各国各地で数十年もの移民の歴史を刻んできた
伝統ある邦字紙。当地に根を張った信用と
情報ネットワーク。有形無形の財産を持つこれら
邦字紙をムザムザ潰していいのだろうか?
新聞社の灯が消えるということは、
そこの日系社会の活力が殺がれるということだ。
ひいては日本の海外資産を消失することだ。
これまでも海外邦字紙の有効活用を日本の有力者、
関係機関、政治家などに力説してきたが
全く無駄骨だった。
また、昨年、せっかく獲得した在外選挙権だが、
比例代表選挙のみの投票権と登録手続きの煩雑さ、
投票のやりかたなど不合理な点が数多くあった。
それらの高い障壁から登録率、投票率とも惨澹たる
有り様であった。この低登録率、低投票率から
ある政党などは在外選挙不要論を唱える始末だった。
ここは誰か海外日本人代表として立候補して内外の
関心を高め登録率、投票率ともに上げる必要があった。
ーかといって地盤、看板、かばんの何もない男が
名乗りを上げても99%泡沫候補で終わるのがオチだ。
回りを見回してもそんなバカをやるような人はいない。
誰が見たって北原は、政治家とは縁遠い人物であろう。
白を黒と言い張るような腹芸など出来ないし、
善悪合わせ飲むような太っ腹でもない。
誰とでもガハハとざっくばらんに打ち解けるような
性格でもない。どちらかと言えば内省的な人間で
つき合う人間もえり好みする方だ。
まさにこのさざ波にも似た天啓は、北原に
180度の転換を促すものだった。
逃れようはなかった。追いつめられた北原は、
郷里大分の友人と東京の知人に
「次の国政選挙に名乗りを上げようと思う」
とメールで相談した。
郷里の友人は、
「ガチガチの網の中に入り込む余地はない」
と厳しい現状を知らせてきた。
東京の知人は、「大歓迎です」
と無邪気に喜んでくれた。
踏み出す世界は暗黒のブラックホールだ。
まさに25年前のパラグアイ移住を決断した時と同じだ。
ヘタヘタと崩れ落ちるような脱力感にも
似た恐怖に襲われる。
政治の世界は魑魅魍魎の住む別世界―。
昨年の衆議院選挙の当落者データをチェックしてみる。
いずれも二世、三世の世襲議員や有名な名前ばかりだ。
還暦を迎えた今「パラグアイのドン・キホーテと
嘲笑されるのがオチだぞ」
「体力はあるか?」
「気力はあるか?」
「それに資金はどうする?」
「妻にどううちあける?」
「どういう手順、方法で進めるのか?」
「四面楚歌、支援者は?」 七転八倒の逡巡の末、
「立とう!」と遂に北原は決意した。
「ヨッシャーッ!」と覚悟を決めたのはいいが、
北原にとって最大の難関は、如何にして優子に
打ち明けるか?ーだった。
様々な難関をクリアしてきた北原だったが、
優子に新たな苦労を強いるのはさすがに辛かった。
何しろ「パラグアイに行く」と25年前、
打ち明けた時、2人の幼い子供を連れて何も言わず
ついて来てくれた妻である。
打ち明ける場所とタイミングを計った。
ある日、さりげなく彼女のお気に入りの
グランホテル・パラグアイのレストランで昼食をした。
昼食後、プールサイドの椅子でコーヒーを飲みながら
「実は…」と打ち明けた。
長い沈黙があった。
「お金はどうするの?」ポツリと聞いた。
「金は天下の回りもの…」
超楽観主義の人生哲学を滔々と北原は、まくしたてた。
「それにこれは天命だから…」と、新宿での啓示、
それにジワジワと押し寄せてきた思いなどを話した。
「マ、いいか。子供たちも大きくなったし、
最悪の場合、あなたと二人、チャコでインディオ生活か、
隅田川堤防でホームレスでもやるか!」
いつのまにか信じられない程、たくましくなっていた
優子に北原は胸が熱くなった。

OK、人寄せパンダのドン・キホーテ役を
やってやろうじゃないか!
北原は「白い道」を歩く覚悟を改めて噛みしめた。
勝手に国会議員選挙に立候補するとオダを上げた所で
何の効果もない。
北原は早速、パラグアイの日系社会を代表する
日系5団体の推薦状をもらった。
その推薦状を持って各国の日系諸団体の協力を
仰ぐことにした。
まず北原は、隣の国、サンパウロを訪問した。
                     (続く)




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2009.06.27 (Sat)

新連載 16  霊夢

16  霊夢




風変わりな人物が出入りするばぁちゃんの家




1週間に及ぶ筏ツアーは北原にとって格好のリフレッシュになった。
ピラールからアスンシオンに戻った北原は、
心身共に精力が漲っているのを感じた。
「さすがピラニアは効くなぁ~」
と編集長の宮崎に言うと
「ピラニアは最高の精力剤なんですよ」と宮崎。
確かに1週間、ピラニアと焼き肉を食べ続けたことと、
大自然の中の生活というダブル効果でよりパワフルになったのだろう。
筏生活にすっかり味を占めた北原は、次はパラグアイ北部のブラジルとの
国境沿いを流れるリオ・アパのツアーをしてみたいと考えた。

筏ツアーから帰った北原は、ある夜、奇妙な霊夢をみた。
それは普段見る夢と全く異なる夢だった。
夢の中でこれは「霊夢」だとリアリティーを持って自覚していた。
北原が東京の銀座のど真ん中で
「俺は政治家になって日本の国会を牛耳るぞ~!」
と絶叫しているものだった。
不思議な事にその銀座の街は全くの無人、無機質な街だった。
この夢はいつまでもリアリティーを持って北原の心の中に
刻み込まれていた。

イパカライファームの仲間、イルカは1年前、
また、大学生活を続けるために日本に帰った。
編集長の宮崎はイルカが辞めた後、南米ジャーナルに入社した。
パラグアイには彼が高校生の時、家族と共にペドロフアンに
移住してきた。
農協職員や日本の大手商社の現地社員として働いた後、
「働かせてほしい」と北原を訪ねてきた。
何でも父親が日本の新聞社で働いていたことがあるそうで、
ジャーナリスト的なセンスは持っていた。
宮崎は、北原より5歳年下の38歳だった。

イパカライファームの仲間は殆どが日本に引き上げ、
残っているのは、北原家族と深田兄弟だけだった。
深田兄はアスンシオン日本文化協会の日本語学校の校長をし、
弟は教師をしていた。
どちらもエリートだから関係者の評判は良かった。
新聞社は相変わらず綱渡り的な経営が続いていたが、
日々たくましさを増してきた優子が経営する日本品を扱う雑貨店
「カサハポン」で日銭が入るので大助かりだった。
カサハポンでは、日本の書籍や日本のテレビ番組を収録した
ビデオテープなどの貸し出しも行っていた。
これらの日本関連の商品は、日本から直接仕入れるのでなく
サンパウロの卸屋から仕入れていた。
このため北原は月に1度、サンパウロに赴いて本やテープ、
日本食品などを仕入れていた。
サンパウロにはレンタルビデオ屋が大繁盛だった。
仕入れで問題は、ブラジルとパラグアイの国境に
ある税関の検問所だった。
特にビデオテープのコピーしたテープについては決まった税額等
あるはずもなく税管では殆ど担当官の気分によって
その税額(ワイロ)が決められた。このため、北原は、
かつぎ屋的なことをやらざるを得なかった。
パラグアイ側の国境の街はストロエスネル市と大統領の名前を
つけたフリーポートの街だった。
この猥雑な街で1日に動く金は、香港、マイアミにつぐ
3番目だと言われる程、巨額の金が渦巻いている。
ストロエスネル市の商店街はブラジルからのいわゆる、
かつぎ屋たちでひしめいていた。ブラジル側の国境の街、
フオス・ド・イグアス市との間にはパラナ側が流れており、
両国を結ぶ友情の橋は日中、人と車であふれている。
この橋は3月、4月の大豆収穫期には大豆を満載した
大型トラックが両側車線に隙間無く渋滞しており、
よくもこの橋が持ちこたえているな、と感心する程だった。
時にブラジルのかつぎ屋たちは橋上から完全防水した商品を
下の河に放りこんだ。それらの商品をブラジル側の仲間が
下流で受け取るという離れ業をやっていた。
北原はアスンシオンとサンパウロ間、約18時間をいつも
国際長距離バスで往復した。
サンパウロで仕入れたテープを一旦、フォスの街で降ろし、
両市を結ぶ定期バスに乗り換えて橋を渡ってストロエスネルで
降りてまた、アスンシオンまでの長距離バスに乗り換える
という面倒なことを行った。
ーというのは、両市を結ぶ定期バスは大体フリーパスで検問の
煩わしさがなかった。
それでも時々、検査官が乗り込んで乗客をチェックする
事があった。さすがにその時は冷や汗ものだった。
そんな綱渡り的な経営をしながらも南米ジャーナルは1度も
休むことなく新聞発行を続けた。


当時、毎年10月上旬、東京で海外在住の日系人が集まって
様々な問題を討議する世界日系人大会というのが行われていた。
北原は、初めてその大会に参加した。
これは外務省の外郭団体である(財)世界日系人協会が
毎年開催しているもので、各国の現況報告や日本語教育、
在外被爆者問題、老人福祉問題、二重国籍問題など多岐に
わたって討議を行い、それらの討議事項を関係官庁に
「要望書」として送付していた。
大会は、事務局があらかじめ各国の日本人会や文化協会など
主要団体宛に文書を送り、それぞれの団体で発言すべき
テーマがあれば代表者を決めてもらって参加することに
なっていた。
大会には海外20数カ国の代表者と一般参加者200~
300人が出席して盛大に行なわれた。
大会自体は議論百出して活発だったが、どうしても総花的な
まとめの「要望書」になった。
北原は、初めて世界各国の日系人社会の現況を知ると同時に
人的ネットワークが広がるきっかけとなり有意義な
大会ではあった。
北原は大会が終わると、パラグアイから日本に帰国した、
まぁまぁばあちゃんこと小島登美と公洋夫妻の経堂の家に
泊めてもらった。


小島夫妻は、ノアの方舟でパラグアイ移住する時、
この経堂の家は売らずに残していた。
この家の管理は、小嶋公洋の指圧の弟子である森義男が
ずーっと住み込んで守ってきた。
家は二階建てで土地はガレージを入れて30坪程度と小さな
ものだったが、小田急線の経堂駅から歩いて5分と非常に
近く便利だった。
この森が風変わりな人物で、この家の地下に自分で地下室を造り
寝泊まりし瞑想に耽ったりしていた。
何でも20代の頃、アメリカやインドをヒッチハイクで回り、
インドで「ガラリ人生観が変わった」そうだ。

まぁまぁばあちゃん宅は、いつも風変わりな人物が出入りする
梁山泊の観を呈していた。 というのも、登美ばあちゃんが
不思議大好き宗教人間で一種、あの千乃女史も一目置いた
教祖的なソフトパワーの持ち主だったからである。
宗教といっても若い時にキリスト教教会で賛美歌などを
歌っていたことから仏教系はほとんどなく、
米国女優シャーリー・マクレーンのスピリチュアル新神秘思想や
古神道系がどちらかと言うと波長が合うようであった。
また、最近の新霊能者やUFOなどの宇宙神秘学系の
人たちともつきあいがあった。

その家に出入りする人物に愛媛大学の地質学の
万田光彦教授がいた。
まぁまぁばぁちゃんと北原は万田教授と以前、
イパカライファームで会ったことがある。
教授は南米大陸の地質の調査時、パラグアイにも立ち寄った。
「僕は文字どおり大地を這い回って調査してきましたが、
ここパラグアイは安定岩盤の上だから地震はありません」
と北原らに太鼓判を押した。
教授は日本を襲う巨大地震について様々な機会を通じて
警告を発していた。
小柄だががっちりした体躯の教授は一見すると
そのボサボサ髪などから道路工事の現場監督風に見える。
その体形に似て気質もまさに現場監督風のざっくばらんな
性格だった。
「阿修羅のような恐い顔に見えましたよ」
とまぁまぁばぁちゃんに初めて会った時の印象を
後に教授は告白した。
「この間の晩、金縛りにあいましてね~」
好んでこの手の話をする。
教授は“多次元科学”分野を個人的に研究しており
「生まれ変わりの実態」などという小冊子を出したりしていた。
その小冊子の中の「宇宙からの珠玉の言葉」の“地球の立て替え”
の項目にこんな言葉がある。


“地球に転生してきた ワンダラーたち”



ー金龍(創造の神の仲間)が黒龍(破壊の神の仲間)に
話していた。
「そろそろ、頼むー」と。神の国では、動き出したんだよ。
地球の進化は、破壊した後にやってくる。 たとえて言うと、
新しい住宅を建てるために古い住宅を壊すようなもの。
神様は、これから泣く泣くほとんどのものを取り払うんだ。
地球をきれいにするために 地球の神様に
「もう少し待ってください。せめて、もう少しの人間が
気づいてくれるまで、もう少し、待って下さい」
自然あっての人間なのに 大きな脳みそを自分の事だけにしか
使えなくなった人間 自然の神様が、ドッカーンと始めちゃうよ。
愚かな人間に教えるために 新しく生まれ変わるために
何かを消さないといけないんだ。
(中略)
この世で、上に上がればあがるほど ごめんなさいの数を
多くしないといけない。 みんなを踏み台にしているからー


とにかく不思議な人々が出入りする中でまぁまぁばぁちゃんは、
最近、言霊学の「ワードサイエンス」と「オイカイワタチ」という
コスモ・スピリチュアルに深く傾倒しているようだった。
「オイカイワタチ」というのは、何でも宇宙語でこの地球の
大変革期にある遊星から特別な使命を持って地球に転生してきた
「ワンダラー」たちに宇宙からのメッセージを伝える
グループである。
といっても他の宗教団体のように組織はなにもなかった。
愛知県春日井市に住むその主宰者は、
「組織はカルマを産みますから、魂で分かる人がそれぞれの
立場でインスピレーションに従って行動を起こせば
いいのです」と、個人個人の魂の自立を強調していた。
北原も組織化をしないと言う主義に「真実」がある様に
感じられて惹かれた。

北原は10月下旬、愛知県のその主宰者を訪れた。



金星に瑞兆 日本の終わりの時



愛知県春日井市の大海理工(株)の鈴木大樹社長を訪れたのは
10月27日であった。
当日は当会社の森田専務の自宅に泊めてもらった。
当宅で夕食の談笑中、ひっきりなしに森田専務に電話がかかった。
「こんなことも珍しい」と森田専務、鈴木社長共々微笑していた。
夕食後、ソフア-で歓談している時、当家の裏手、
東谷山(とこくにやま)の頂上にある由緒ある尾張戸神社が
話題にのぼった。
当神社まで歩いて30~40分程度だということで、翌朝、
朝食前の腹ごなしに鈴木社長と二人で6時半に落ち合って
出発することにし、用意されたフカフカふとんで眠りについた。
翌朝、森田専務のトレパンを拝借し、家を出た。
裏手のNHKグランドの金網わきの細い道を通り抜け、
10分程で尾張戸神社表参道入り口にさしかかった。

専門家の話によると、当神社は名古屋の熱田神宮より
1000年単位古い起原を持つ神社だという。
しかし、社会的、歴史的権威のある熱田神宮の
名声をくつがえすのも社会的影響が大きいとして
一部の人々の間でのみ知られている事実である、
ということであった。
この表参道入り口前に奇妙な鳥居があり、中は玉砂利が
しきつめられ、神社と慰霊碑らしきものが設置されていた。
奇妙な鳥居、と言ったのは、普通の鳥居の上に×印に木が
組み合わされ、その三角のワク組の中にダビデの星のマークが
刻み込まれていた。
皇室とユダヤの不思議な奇縁は好事家の間で昔から
秘かな話題になっていた。
尾張戸神社の参道を入ると、大雨にえぐられた
人頭大の石があちこちで露出していた。
道中、先程の東谷奇玉陵(とこくにくしたまりょう)のことを
鈴木社長に尋ねると、これを造営したのは天祖光教という
宗教団体で同教の教祖蔽顔大教主(明治43年生まれ、
昭和44年没)がこの霊格の高い尾張戸神社を守護するため、
当地に本部を設け、神示を垂れた、ということである。

その教祖曰く、この尾張の国とは、「おわり」の国の意
であるとし、
この尾張戸神社は、この世の終わりの時代の戸を開く実に
重要な神社で、天祖光教は、この尾張戸神社の最後の時の戸が
開かれるまで御守護申し上げるために、当地に開教し、
また、教祖死して後にも教祖の意を体して、
表参道入り口前に奥津城を造営したという。
なお、教祖の説くところでは、「終わりの戸が開かれるとは」
(霊的な意味)、即ち、新時代の幕開けとなることであり、
実に喜ばしいことであるという。
同教団は、教祖亡き後、高弟が護持しているという。
鈴木社長は同宗教と何の関係もないのだが、
宗教関係に造詣の深い氏だけに同教の由来にも詳しかった。
参道は途中からかなり急勾配になってきた。
60年配の鈴木社長を気づかって、途中、
「休みませんか?」と聞いたのだが、いやいや、大丈夫」
となかなか達者な足をお持ちのようだった。
いよいよ頂上が近付いたらしく石段のある所にでた。
その石段を上り詰めると、頂上の台地に尾張戸神社があった。
それは思ったより小さく質素な神社だった。
折しも明け染めた朝日がまばゆい陽光をきらめかせて
同神社周辺を踊っていた。
正面参拝所に参拝者用ノートがペンとともに置かれている。
記載しようとそのノートを開いた鈴木社長は、
じっと食い入るように見つめていた。
やがて北原にも見るように促し、そのノートを渡してくれた。
そこにはこう書かれていた。

”10月28日、午前零時、金星の辰巳の方角に
5色の彩色がかかる瑞兆をみて日本の終わりの時を見た”
 吉田某ー。

これを見て、北原は昨夜からの予感が的中したな、
との安堵感にも似た感慨がしみわたるように全身に広がった。
「この人は天祖光教の幹部ですね」
と鈴木社長が押し殺したような声で言った。
「さあ、どうぞ」と促されて、その文字の下に
“1983年10月28日、
パラグアイ国アスンシオン市北原次郎”とゆっくりと書いた。
柏手を打って深々と頭を垂れ黙とうを捧げた時、
眼底にありありとある風景が浮かんだ。
全身を戦慄にも似た深い感動が襲い、
体が小刻みにふるえるかのようであった。



今は鳴くらむ うぐいすの声


神社の右手に行くと古墳の一部であるテーブルストーン
(天井石)がある。
その傍らに案内版があり、その説明書によると
山頂からふもと迄数十基の古墳が発見されているが、
その多くは盗掘されたりして重要なものは残されていない
ということであった。
そこを更に東端に行くと一気に高蔵寺ニュータウンが
パノラマ状に望見できた。
山肌をえぐりとって開かれた団地の右手にこんもりとした
小高い山が見えた。
この盆地の底にあるようなやわらかなシルエットをもった
これらの風景は、なぜか言い様のない懐かしさをもって
北原に迫ってきた。
その時、ふっと次のような万葉の古歌が頭に浮かんだ。

”あおによし 奈良の都にたなびける 天の白雲 みれど飽かぬかも”

まさに、「あ、ここは、私のふるさとだ」という奇妙な感慨に
包まれたのだった。

「あの右手の小高い山が高蔵山です。
昔は高倉山と呼ばれていたそうです」との渡辺社長の言葉に
頭のてっぺんからしとどに涙あふれ身体のすみずみまで
濡らしていくかのような情動に突き動かされた。

参拝の帰途、山頂での不思議な”しるし”の重みを
じっとかみしめ、黙々と下山していると、
「あれ、うぐいすが鳴いていますよ!」
との鈴木社長の声にハッと気付くと、なるほど、秋にも関らず、
うぐいすがホーホケキョ!と2声3声澄んだ音色で鳴いていた。

”尾張戸のかむごとすみて 空さやに
       今は鳴くらむ うぐいすの声”

時はまさに日本の晩秋であった。
                        (続く)









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