2017年07月/ 06月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫08月

2009.07.03 (Fri)

新連載  19 ロスで寺岡夫妻に8年振り会う

19
そしてロス





要望書「海外の原爆被爆者を助けて下さい」



「昭和20年8月、広島市および長崎市に投下された
原子爆弾という比類のない破壊兵器は、
幾多の尊い生命を一瞬にして奪ったのみならず、
たとえ一命をとりとめた被爆者にも生涯いやす事の
出来ない傷跡と後遺症を残し、不安の中での生活を
もたらせた。 このような原子爆弾の放射能に起因する
健康被害に苦しむ被爆者の健康の保持、および増進並びに
福祉を図るため、原子爆弾被爆者の医療等に関する法律
および原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律を
制定し医療の給付、医療特別手当等の支給をはじめとする
各般の施策を講じてきた。また、われらは、再びこのような
惨禍が繰り返されることのないようにとの固い決意の下、
世界唯一の原子爆弾の被爆国として、下記兵器の究極的廃絶
と世界の恒久平和の確率を全世界に訴えてきた。
ここに被爆後50年の時を迎えるにあたり、われらは、
核兵器の究極的廃絶に向けての決意を新たにし、
原子爆弾の惨禍が繰り返されることのないよう、
恒久の平和を念願するとともに、国の責任において
原子爆弾の投下の結果として生じた放射能に起因する
健康被害が他の戦争被害とは異なる特殊の被害であることに
鑑み、高齢化の進行している被爆者に対する保険、医療、
福祉にわたる総合的な援護対策を講じ、あわせて国として
原子爆弾による死没者の尊い犠牲を銘記するため、
この法律を制定する」

これは被爆50周年に制定された「原子爆弾被爆者に
対する援護に関する法律」、通称、「援護法」
と呼ばれる序文です。 大変立派な序文です。
法律の内容も納得のいくものであり、
戦後苦しみ続けている被爆者に対する援護であり、
日本国の博愛精神、人道主義の現れと敬意を表します。
この法律の素晴らしい事は、人種、国籍、住居等の
差別がなく、被爆者手帳を持てばカバーされるように
なっています。しかし、どうしてか1974年の
公衆衛生局長通達により、海外の被爆者は除外されています。
普通、通達とは法律の施行に役立つ局内での
知らせと思います。しかし、この「通達」は立派な法律
「援護法」の施行をうやむやに曲げています。
なぜなのでしょうか? 何か外国に住む被爆者への偏見差別を
感じさせます。生涯いやすことの出来ない傷跡と
後遺症を持ち、不安の中での生活を続ける被爆者は
日本にいようとアメリカ、ブラジル、韓国にいようと
変わりません。日本政府がいろいろと審査被爆者と認定した
被爆者手帳の保持者です。なぜ海外にいるだけの理由で
いけないのでしょうか。大変不公平です。
厚生省の担当官の説明は
「あなた方は税金も払っていないから…」
「日本から逃げ出したから!」
「これは国内法だから!」
等の言い訳をしますがおかしいです。
序文には、
「ー国の責任に於いて…、高齢化の進んでいる
被爆者に対して…、総合的な援護対策を講じる…」
と銘記されており、全然、海外在住の被爆者を
除外するとは書いていません。
被爆者はどこに住んでも変わりません。
この解釈では、海外に出ると被爆者ではなくなるの
でしょうか? 博愛精神、人道主義、人間皆平等と
唱える日本国の美しい精神は、
この「通達」によって破壊されています。
思いますに外国に住む被爆者は殆どが外国人です。
しかし、日本国籍の被爆者がアメリカに約500人、
南米に約200人、韓国や北朝鮮にもいます。
この数少ない被爆者は日本人として日本国憲法に
よって平等に保護され、どこに住んでも日本人として
尊重され、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を
有すると信じます。日本国憲法は、海外にいるものには
通用しないのですか?
日本はそんなに非人道的な国なのでしょうか?
南米の被爆者の多くは敗戦後、
「苦しい日本に住むよりチャンスのある新天地を
求めて移住しましょう」と国や県の移住局の盛んな宣伝、
奨励によって行かれた方のようです。
確かにこの方々は人数も少ない。
そして金も力もない人たちです。 ほっとけば、
そのうちに亡くなり問題も消えるから…と無視し、
排斥や差別をしないで下さい。
老齢化したこの被爆者は遠い祖国日本からの
愛の贈り物を心から夢見ています。
もしも助けてあげるのでしたらこの方々が元気な時に
して下さい。 お願い致します。
この世界日系人大会にこの運動をお願いしましたのが
1998年からです。原爆が落ちたのがもう
54年前のことだから、もう忘れた、
考えることもないという方もいます。
しかし、この歴史はじめての惨状は言語に絶します。
忘れてはならないことです。 現在、私どもは、
日本の被爆者の代表団体の「日本被団協」
の強力な支援でブラジル、韓国、そしてアメリカの
被爆者が合同して海外の被爆者にも「援護法」の
一部でも支援してほしいと運動をしています。
よく知られていない私どもは人数は少なく、
資金もなく、政治家を動かす力もありません。
アメリカは民主主義の国です。
いつも人数と資金のあるグループは大変強いです。
その反面、数の少ないグループは力もなく哀れです。
しかし、この「弱者」に対して人道主義の政治家もおり
「弱者」を助けています。アメリカの被爆者救済運動も
この人道主義の政治家の支援で法案を提出して、
公聴会まで開催しましたが敗れました。
そして大統領にも嘆願書を送りましたが
「正当なる戦争」の理由で断られました。
しかし、ある高官は日本では被爆者支援を実行している。
1000人位の被爆者なら日本に行って嘆願しなさい
との進言もありました。
しかし、頼りにする日本は、
「海外にいるのでだめだ」と蹴られています。
現在、ある方はこの問題を裁判で提訴中です。
最高裁の判決迄10年かかると言われています。
被爆者の平均年齢は70歳になります。
10年は待てません。 この伝統ある強力な
世界日系人協会の力で日本の政治家を動かして
見捨てられている数少ない海外の被爆者を助けて下さい。
お願いします。        
  
  米国原爆被爆者協会               
  名誉会長  岩本完二


この嘆願書は2000年5月、東京で行われた
第41回世界日系人大会で取り上げられたものである。


バンクーバー“パウエル祭“


当地でもバンクーバー日報の武田冴子社長が北原の
次期衆議院選挙出馬の意向を歓迎し協力を快諾してくれた。
ここバンクーバーは、日本との
「ワーキングホリデー制度」(1年間働きながら勉強出来る)
があるため、日本からの若者が大勢やって来ている。
同新聞社もそれらの若者がバイトで仕事をしている。
「新聞編集もホームページなども若い人たちの
新しい感覚でパソコンを駆使しているのでとても助かります」
と武田社長。
同紙は広告欄に仕事紹介のページが沢山ある。
日本から来た若者たちが現地で仕事を探すために
新しい読者になると言うわけだ。
60歳前だろうか、小柄な身体ながらエネルギッシュに
飛び回る武田社長は反骨精神の固まりのような人だ。
「現地のチャイニーズの広告代金の取り立てが
一番むずかしいですよ。ほとんどの人が何だかんだ
文句をつけて払いませんからね。彼等を見ていると
南京大虐殺なんてホントカネ?と疑問に思いますよ」
と首をひねる。
同紙は構造的不況業種と言われる海外日系新聞の中では、
数少ない元気のいい新聞社である。
購読者が次々高齢化して後続の新しい日本人が来ない
南米の北原から見れば誠に羨ましい限りだ。
南米でも日本とのワーキングホリデー制度を導入したいと
北原はつくづく思った。

ここで北原は元パラグアイ移住者の松本家族と
十数年ぶりに再会した。 松本家族は十数年前、
パラグアイから日本に1家全員引き上げて郷里四国で
スーパーを経営していた。
松本の年老いた両親が亡くなったのを契機に
たまたま旅行で訪れたバンクーバーがすっかり気に入って、
スーパーを売り払いまたしても一家あげて
バンクーバーに再移住したという人だ。
バンクーバーでは日本食レストランをやっている。
「ここは素晴らしい所ですよ」
とバンクーバーの生活を堪能している夫妻に北原は、
何故日本から再移住したのか聞いてみた。
「田舎の姻戚関係がすっかり煩わしくなりましてね」
北原も何となく分かる気がした。
一旦、日本から根っこを引っこ抜くと世界中
どこでも生活出来る。
その最初の根っこを抜くのが大変なのだ。
地縁血縁様々なしがらみから解放されて見知らぬ外国で
生活すると、日本の特に田舎のねっとりまつわり
つくような人間関係は我慢出来ないものだ。
北原も今さら日本で生活出来ないだろう。
ーと思いながら国政選挙に出ようというのだから
矛盾も甚だしい、と苦笑いした。

戦前、カナダを目指した日本人移住者たちは、
まず、太平洋岸のバンクーバーに上陸の第一歩を記した。
8月4日、5日の2日間、戦前日本人の
中心地オッペンハイマー公園で日本人祭り
「パウエル祭」が開催された。
パウエルとはその公園に面した通りの名前である。
移民100周年を契機に2世たちが中心になって
始めたこの祭りは今年で25年になる。
北原もその公園に出かけた。たこ焼き、焼そば、
イカ焼き、トウモロコシ…と祭りの定番が各屋台に
そろっている。中央広場では落ちくぼんだ目を
より怒らせてカナダ人の古武道師範が
柔術の演舞を行っている。居合い抜き、少林寺拳法などの
演舞が次々披露される。 殆どが青い目のカナダ人だ。
この2日間、煙るような霧雨が降った。
残念ながらこの旧日本人街には今、日本人は住んでいない。
今ではこの周辺も段々スラム化し、残っているのは、
仏教会の西本願寺、それに日本語学校だ。
この日本語学校も過去、何度もさびれたこの地から
他に移転の話が何度もあったようである。
しかし、敢てこの地に学校を存続させた。
そのわけを聞いた北原に日本語学校の責任者は
次の様に語った。
「戦前からの大勢の卒業生たちが、カナダ中にいます。
卒業生たちの学校の思い出はこのオッペンハイマーの
日本人街とともにあるのです。カナダの日本人たちも
あの大戦中、アメリカと同じように財産を没収され
強制収容されました。そして青年たちはカナダに忠誠を
誓って対日本との戦いに立ち上がり、カナダ兵士として
戦場に赴いたのです。この学校にはその貴重な重い歴史が
刻み込まれています。学校がよその地に移転したら
次の世代に伝える何ものも消えてしまうのです」

パウエル祭の前日、北原は武田社長に連れられて
オッペンハイマー公園隣の仏教会を訪ねた。
境内では明日の祭りの準備に門徒の人たちが
忙しく働いていた。
ここの住職はバンクーバー歴30余年だという。
北原は武田社長とともに薄暗いお堂に案内された。
来意を告げて如何に今の日本がだらしないか、
海外の日系人、日本人の人権が無視されているかを
説明した。住職も昨今の日本のありように
一言あるようで大いに賛同した。
「日本の救世主になるかも知れませんね…」
ポツリと住職は呟いた。
その言葉に北原も今さらながら身が引き締まった。
記帳を促されて北原は黒々と筆に墨をつけて
「パラグアイ国 北原次郎」と書いた。

国や街にはそれぞれ独特の匂いというか風合いがある。
そしてそこに暮らす人たちもその土地の色合いに
染まっていくようだ。1世移民たちの後を継いだ2世、
3世たちは欧米人たちの中で劣等感、優越感などを
ないまぜにしながら必死に自分達のルーツを探り
やがて納得して「日本」という伝統文化の中に
密かな誇りを見出していく。

「棄民かと嘆きし父の仏壇に 在外選挙の登録証を供う」

どこの国の移民も悲しい匂いが染み付いている。
これは岐阜県県知事賞を受賞したブラジル在住の
寺尾芳子さんの歌だ。

アルゼンチンのブエノスからサンパウロ、ニューヨーク、
サンフランシスコ、バンクーバーと無数の移民たちの
様々な思いがズシリと北原の肩にのしかかり
重い旅となった。
ここバンクーバーで10月18日から21日まで、
北原が会長を務めている世界日系新聞協会の
第28回新聞大会の開催が予定されている。
今回の訪問はその下準備を兼ねてもいた。



ロス 寺岡夫妻との再会



つかみどころのない大都会ロス。ここではリトル東京に
隣接する日本の代表的なホテルに泊まった。
深夜到着した北原は部屋のチャンネルを次々回した。
ーと、なんとエロもエロ、無修正のアダルトビデオが
もろに放映されている。 日本女性の乱交プレー、白人、
黒人、何でもありのエロビデオ。
北原も男だから普通は喜んで観るのだが、この時は
旅の疲れもあり精神的に落ち込んでいた。
汚ならしさを感じて気分が一気に萎えた。
日本のビジネスホテルでもアダルトビデオは観る事は出来る。
但し、普通一般のチャンネルとは別に料金を払って観る
システムになっている。
それをここでは一般チャンネルをカチャカチャ回すだけで
アダルトビデオを観る事が出来るのだ。
宿泊客の中には子供連れの客もいる筈だ。
日本の代表的なホテルも地におちたものだ。

ここロスには、「ノアの方舟」ならぬ泥舟に乗って
パラグアイのイパカライファームで一緒に暮らした
寺岡和人夫妻が住んでいる。
夫人の佳津子さんが「まぁまぁばぁちゃん」の娘である。
主人は北原より7、8歳年下の建築設計士だ。
夫妻は当時、3、4歳の可愛い由利ちゃんを連れて
東京からイパカライファームにやって来た。
寺岡夫妻はファームが崩壊して間もなく
アメリカに再移住した。
今では当地で建築設計事務所を開き、日本向けに
ツーバイフォーの建築資材を輸出するとともに、
日本国内で実際にツーバイフォーの建築も手掛けており
事業も順調のようだ。
北原は寺岡夫妻と一夜、夕食を一緒にした。
案内されたのは、リトル東京に隣接した寿司屋だった。
えらく繁盛している店で、暫く待たされた。
客のほとんどがアメリカ人だ。彼等がカウンターで
寿司をつまみワイワイガヤガヤ飲み食いする様は、
全く日本の寿司屋と変わらない。
北原と寺岡夫妻とは8年振りの再会だった。
8年前、1993年2月26日、寺岡の家に泊まった
北原は、朝のテレビニュースでニューヨークの
世界貿易センタービルが爆破された衝撃的な映像を目にした。
あの時も言い知れぬ因果関係を感じた。
寿司屋での話は尽きなかった。当時の仲間の消息、
お互いの子供たちの事、あの幼かった由利ちゃんが
今秋結婚するという。

ロスで北原は初めてやや疲れを感じた。
胃がもたれるというか、食欲がなくなった。
これまでの人生の中でストレスなど一度も
味わったことがないのが北原の自慢だった。
今回の立候補宣言行脚も天命として愚直にどさ回りを
続けてきたが、初めてすべてが空しく思われた。
疲れているのかも知れない。
これが一般にいうストレスだろうか?
北原は25年前のパラグアイ移住以来、
ハイテンションのボルテージで今日迄突っ走って来たが、
こんな空しい気分、鬱状態になったことは1度もなかった。
ロスで表敬訪問する予定だった現地日系の有力者は
訪日中で会えなかった。
つかみ所のない大都会ロスでは何の収穫もなかった。



「どうぞ、お国で頑張って下さい」




ロスでの鬱状態は、東京に着いた途端、回復した。
8月10日、成田空港着。東京は猛暑が続いていたが、
北原が到着する前に雨が降り、雨上がりの清々しい空気が
北原を出迎えた。 日本でもどさ回りは続いた。
東京、京都、名古屋、熱海、福岡、沖縄、大分…
いろいろな人、団体幹部に会った。
北原は結構、1年に1回は訪日してはいるのだが、
じっくりと日本社会に接触するのは、25年ぶりの
浦島太郎である。
それぞれ然るべき紹介状を持って各界要人に
面会したのだが、所詮、島国日本は、慇懃無礼、建前社会…、
本音は見せない。
紹介状を持ってある党の総務局長に会った際、
「政治のことは我々に任せて下さい。どうぞ、
お国(パラグアイ)で頑張って下さい」とにべもなかった。
帰国子女たちが受けたであろう「拒絶感」を
何度も感じた。
よそ者を排除するという村社会の風習だ。
                      (続く)





ランキングに登録しました。
良かったら、クリックして下さい。


タグ : 新連載 第二の祖国で 日系オバマを

04:18  |  新連載 第二の祖国に 日系オバマを!  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2009.06.16 (Tue)

新連載 8、「日本人移住者によってパラグアイの明治維新を!」と大統領

8、
「日本人移住者によって
パラグアイの明治維新を!」
と大統領





北原たちは、翌日午後、釈放された。
岡本龍之介が大統領府のジョランダ官房副長官に頼んでくれたらしい。
ジョランダ官房副長官は、ケビン・マクローリー大統領の愛人だ。
ドイツ系移民二世のマクローリー大統領は、1954年陸軍大佐時代、
南部の第3旅団を掌握しアスンシオンに侵攻しクーデターで大統領に
なった。以降、強力なカリスマ性で長期独裁政権を維持してきた。
ジョランダ女史は日本人移住者発祥(1936年初入植)の地、
ラ・コルメナで小学校の先生をしていた。
その当時、大統領に見初められたらしい。
ジョランダ女史は大統領に日本人移民の優秀さを伝えた。
以後、大統領はジョランダ女史を官房副長官に引き立てた。

「日本人がいろんなトラブルに巻き込まれたらお前が全て解決しろ。
お前の手に負えない時は俺に言え」と女史を日本人移住者の擁護者
とした。
以降、日本人移住者たちは何か問題が発生すると大統領府の
ジョランダ官房副長官に陳情に行くのが慣例となった。
大統領の親日振りは有名だった。
生え抜きの軍人だっただけに世界の戦史を塗り替えた日本の
奇跡的な日露戦争の大勝利のことも熟知していた。
日本から政府関係の高官などが大統領に面会した時、
大統領は好んで日露戦争の話題を取り上げた。 中には日本人が
知らない秘話や軍人の名前等を知っていて冷や汗をかいたなどと
いうエピソードが巷間伝えられていた。

日本人のパラグアイ移住は1936年にスタートしたが
第2次世界大戦で中断した。
敗戦後、日本は海外からの引揚者630万人を含め狭い
日本列島に閉じ込められた。戦後の廃虚と食料不足の中、
1952年、海外移住が再開されると新しい天地を求めて
奔流のように海外へ流れ出した。
56年~58年には移住者数は年間1万人を超えた。
よりよい生活、より生き甲斐のある生活の場を求めて自由に
移動することは太古の昔からの人間の本能的欲求である。
日本の憲法22条は、国民の基本的権利として「移住、
移転および職業選択の自由、外国移住および国籍離脱の自由」
を保証している。
これは世界人権宣言第13条にも謳われている。

マクローリー大統領は1954年大統領になると、
「日本人の優秀な血をパラグアイに導入してこの国の明治維新を
果たしたい」と考えて1959年(昭和34年)
日パ移住協定を締結した。
この移住協定は向こう30年間に日本人移住者を85000人
受け入れるというものである。
この協定は1989年に一旦期限がきたが、
85000人満杯になるまで期限を設けず受け入れる、
との再協定が結ばれた。


少年兵たちは、留置場騒動の後、いなくなり
ゴンザレスも再び現れなくなった。
やはり、日本人同士のゴタゴタにつけこんで乗り込んで
きたものであろう。
ゴンザレスの乗っ取り騒動、留置場騒動などから北原たちは
改めて自分達の不安定な立場に不安を覚えた。
些細な事で留置場へ放り込まれるという厳しい現実に直面して
早急に弁護士をたてる必要に迫られた。

「ノー、下手な弁護士を頼んでもこの国では、弁護士同士が
裏で手を握り法外な弁護料を取られるのがオチだよ。
それよりここにも日本人社会があるんだから彼等の協力を
得る方がいいんじゃないかね」とのキムさんのアドバイスで
アスンシオンの日系社会と接触することにした。

まぁまぁばぁちゃん、深田兄、北原、寺岡ら4人が
アスンシオンに出かけていろんな人物に協力を求めた。
最初、彼等の反応は鈍かった。
というのも彼等移住者は皆、政府間ベースの移住で
パラグアイの原始林に入植して辛酸を舐めた人達だったので
イパカライ農場の住人を多少の警戒感と奇異な目でみていた。
無理もなかった。
いきなり集団でアスンシオン近郊の国際道路沿いの
恵まれた土地に入った連中の一部が日本に引き上げて
「詐欺云々」とマスコミを賑わせていることを彼等も知っていた。

「どういう宗教かね?」
彼等は異口同音に聞いた。
「別に宗教団体でも何でもないんですよ。
ただ、宗教心を持った人達が集まってきただけです」
中々、彼等移住者の理解は得られなかった。
しかし、まぁまぁばぁちゃんたち4人の人間性が
分かってくるにつれて理解者も増えてきた。

岡本も北原たちが千乃女史の構想に賛同して寄付した事実を
知っているのでお金の返還や土地の権利を訴えても
「難しい」と否定的だった。
北原達は元よりお金の返還はあきらめていた。
それでイパカライ農場90ヘクタールを
アスンシオン日本文化協会に寄付して欲しいとの嘆願書を
千乃女史に出すことにした。
早速、アスンシオン在住の日本人達に賛同の署名集めを開始した。
この動きが千乃女史に伝わったのか農場にパラグアイ人弁護士が
現われて「3カ月以内に農場から出て行くように」
との勧告をした。

アスンシオンには、農場を出て生活していた女史シンパグループが
いるので彼等から連絡がいったのだろう。
署名活動は急ピッチで進められた。

ある日、北原たちが乗ったアスンシオン行きバスが途中で故障した。
また、翌日、乗っていたバスの前を走っていたトラックが
対抗車線をはみだしてきた車と激突した。
間一発だった。
「千乃さんがすごい念で妨害してきてるようね」
まぁまぁばぁちゃんが目を閉じて止まった
バスの中でボソリと言った。
千乃女史が本性をむき出してきたようだった。


女史とのサイコキネシス戦争



きわどい バス事故はその後も2~3度続いた。
いずれも北原たちに直接被害はなかったが女史が呪詛を
強めてきたのは間違いなかった。
まぁまぁばぁちゃんは、バスの中で常時、瞑目して
盛んに口の中でブツブツと何事かを唱えていた。

北原が千乃女史に最初、中野サンプラザで会った時、
彼女が秘めている暗い「魔」の翳を感じ取った第1印象は
間違っていなかった。
女史は矢張り邪悪な力を持っていたのだ。
北原は彼女が持っている力が世間一般に言われている
いわゆる一種の超能力であろうと考えている。

彼は離婚後のある時期、宗教書や哲学書、心理学、
またいわゆる超能力を謳った書物を乱読した。
その乱読は今も農場の新館にある数千冊の書庫で続けられている。
その結果、超能力も人間に備わった「足が早い」とか
「記憶力が優れている」とかの身体能力の1種であるとの
結論を得ていた。
近代生活の中で埋没してしまった超能力といわれる特殊能力は
大まかに2つの側面を持っている。
その1つが激烈な「憎悪」から生まれるものと無償の「愛」から
生まれるものの2種類ある。
憎悪から生まれるパワーはドロドロした怨念となって
秘密の呪詛となった。
日本でも樹木に藁人形を打ち付ける丑三つ詣でというのがあるが、
ブラジルのマクンバ(Macumba)が最も有名である。
マクンバはヴードゥ(Voodoo)と並ぶ
世界2大黒人宗教だが、宗教というよりも殺人を目的とした
憎悪の呪いそのものであろう。
アフリカからブラジルに強制的に連れてこられ牛馬のように
顔面や背、腕などに番号やイニシャルを銀製のコテで焼き印を
捺され酷使された黒人奴隷達の「怨」が「呪殺」
宗教マクンバを生んだ。
そして一方、現実逃避の手段として熱狂的に歌い踊る「サンバ」
を生んだ。
そのいずれもが白いキリスト教徒たちに対する呪詛であり
自由への鎮魂歌であった。
女史のこの呪詛パワーがどういう彼女の生い立ち経歴から
生まれたのかは不明だ。

一方、まぁまぁばぁちゃんも柔らかな一種の超能力を
備えているようだった。
花や鳥、夕焼け空を見ては「まぁまぁきれい!」
と心から感嘆していそいそと絵筆を持ってスケッチに
勤しむばぁちゃんはそれらの生命と対話していた。
女史が農場の整理に現われた時、女史がまぁまぁばぁちゃんを
苦手としている理由が北原に何となく理解出来た。
怨の闇パワーは明るい太陽の下では雲散霧消してしまうのだろう。

「全て善し。結果全て善しなのよ」ばぁちゃんの口癖だった。
ばぁちゃんの全てを前向きに明るく肯定する考え方は
北原たちにも大きな影響を与えた。
やがてバス事故などのトラブルも自然になくなった。



北原、アメリカへ女史と対決


署名運動は順調に進んだ。
それらの署名を持って北原がアメリカの千乃女史に
直談判に行く事になった。
女史はサンフランシスコの近郊フレズノにアメリカ人の夫と
住んでいるということだった。
北米に本部のあるプロテスタントの教会がアスンシオンにある。
そこの日本人の太田牧師と親しくなった北原たちは、
その牧師からフレズノに住んでいる同教会の日本人信者を
紹介してもらった。

9月、紹介状を持ってロス空港に降り立った北原は
乾いたロスの風と日差しに女史と会った2年前の夏の日を
思い出した。
あの時の女史はソワソワと落ち着かない素振りで
作り笑いを浮かべて北原や優子、賢太、達也を迎えた。
あの時点で女史の「ノアの方舟」構想は既に崩壊の兆しを
見せていたのだ。

ロスからサンフランシスコに向って北上、フレズノまで
荒涼とした景色の中の1本道をバスで約5時間。
フレズノは元々乾燥地帯なのだろう、 周辺の大地が白っぽい。
ターミナルで近藤の自宅に電話して到着を告げた。
「OK、すぐ行くよ」
電話口の向こうから野太い声が返ってきた。
やがて大型のフオードのバンで現われた近藤民雄は
眼鏡をかけたガッチリとした体躯の60年輩の人だった。
20分程度で平家建ての家に着いた。
人の良さそうな奥さんと2人住まいだった。
「太田牧師は元気かね?」
「ええ、元気に頑張っていますよ」
「5年前パラグアイに学校建設の奉仕団のメンバーとして
行ったんだよ」。
その宗派はアスンシオンで寄宿舎付きの学校を経営しており
地方の日本人移住者の子供達が寮に入って勉強している。
「簡単な話は太田牧師から電話で聞いたけど、
騙されたんだって?ひどい女だね」
「いえ、別に騙されたというわけでもないんですが…」
「だってそりゃ~詐欺だよ」。
いかにも厳格なプロテスタントらしく一徹な人だ。
込み入った話はこの人には通じないらしい。
近藤さんの頭の中には詐欺師千乃幸恵という固定観念が
既に出来上がっているらしい。
「大体の住所は見当がついているんだけど、
生憎明日は忙しいので明後日でも一緒に行こう」。
「土からとった有機物などそれと同量か、
出来ればそれより少し余計に土に返してやれば自分の畑を
酷使しないで済むのだよ。一文惜しみの100両損という
言葉があるように、ほんの何ドルかの費用を畑に惜しんで
数十倍もの見返りを損する農民が多いのだよ」
10月に小麦の種子を蒔くという。
その夜は食卓を囲んでアメリカ農業について話が弾んだ。
メキシコ人の季節労働者がカリフォルニアの農業を
支えているという。
彼等の大半は正式な就労ビザを持っていないが、
移民局も黙認しているらしい。
翌早朝、目覚めた北原は家の周辺を散歩した。
家の裏にはトラクターに大型コンバインがトタン屋根の
倉庫の下にデンと収まっていた。
今は端境期らしく広大な畑にはクローバーやアルファルフアー
などの緑肥が広がっていた。
アメリカ北西部は農業には素人の北原が見ても肥沃な土地とは
言い難かった。
近藤の周辺もそうだがポツンポツンとまばらに民家が建っている。
半乾燥地帯特有の白っぽい大地が続く中、時折、青々とした
オレンジ畑が現われてくる。
1時間も走っただろうか、西部劇に出てくるような
白いペンキがはげかかった木造の平家建ての前で車は止まった。
「多分、これだと思うんだが…?」訪問の趣旨は電話で近藤が
今朝、千乃幸恵に伝えていた。
(随分、くたびれた家だな)と北原は拍子抜けした。
日本での告訴騒動の前、日本の新聞のインタビューなどに
カリフオニアにオレンジ農園を160ヘクタール持っている、
などと豪語していたではないか…。
また、新ノアの方舟の乗船希望者向けに
「会員になるとオレンジ樹に会員の名前が表示され、年1回、
オレンジまたはレモンがクリスマスプレゼントとして10年間
届けられる」などと謳っていた。
古ぼけた家に住む主宰者のあまりにも侘びしい現実に
千乃女史の傲岸不遜な虚像が音もなく崩れていくのを北原は感じた。

玄関に現われた女史は色黒のボッテリとした顔が引きつったような
卑屈な笑いを浮かべて居間へ案内した。
「どうぞお座り下さい」
6畳程の居間にソフアーはなく絨毯の上に北原と近藤は
べたりと座った。
女史も足を斜に崩して座った。
「元気なようね」
「皆元気に頑張っていますよ」
「よくここまで来れたわね。どんな用事があったの?」。
(どんな用事も何もないもんだ。全部知っているくせに…)。
北原はかいつまんで用件を述べた。
今さら寄付した金を返して欲しい等とは言わないが、
あの農場をアスンシオン日本文化協会に寄付して欲しいとして、
集めてきた賛同書を女史に見せた。
女史はしばらくその賛同書文面と数十名の日本人賛同者の
サインを見ていたが、「出来ません」と冷たい口調で言い放った。
「あんたもまだ若いし、日本のことや日本人のことを真剣に
考えているのなら現地の公共団体にその土地を寄付して
活用してもらった方がいいよ」と近藤も口添えしてくれた。
北原と近藤は口を酸っぱくして公共団体に寄付する
メリットを説いた。
そこにはあの自信たっぷりな饒舌なかっての女史の姿はなかった。
ただひたすら「出来ません」とかたくなに拒否するだけの
意固地な平凡なオバサンしかいなかった。
(勝った…)と北原は思った。
そして“ノア”という大役が自分にバトンタッチされたことを
魂の深奥でズシリと確信した。
この“ノア”という大役が如何に北原の後半生に
重くのしかかってくるか、この時点で知る由もなかった。

「北原さん、こりゃ~ダメだよ。あんたらもあきらめな」
近藤がついにさじを投げた。
結局、交渉は決裂し北原は具体的な成果を上げ得ないまま
パラグアイに帰国した。
しかし、北原はこれで千乃女史との関わりは終わった、
と心の深い所で納得していた。
北原を出迎えた農場のみんなも北原の交渉経過を聞いて納得した。
こういう結果になる事はみな出発前から予測していたことだった。
そしてそれぞれが身の振り方について覚悟をきめた。
その意味ではノアに乗ってきた人達は世上の欲得から
離れた人達だった。

まぁまぁばぁちゃんは、アスンシオンのプロテスタント系の
学園の絵の講師として毎日、農場からバスで学園に通った。
深田兄と弟はアスンシオン日本文化協会が経営する
学校の先生として勤務するようになった。
寺岡家族はアメリカに再転住することを決めた。
寺岡和人は日本で建築士だったので最初からアメリカで
その分野の仕事をやりたいとアメリカ移住を希望していた。
西川みきと大野恵子の二人はカークペに小さな家を借りて
ケーキを作って売りたいとの希望を持っていた。
イルカこと西条英二は「日本に帰りますよ」明るい声で言った。
                         (続く)





ランキングに登録しました。
良かったら、クリックして下さい。


タグ : 新連載 第二の祖国で 日系オバマを

19:20  |  新連載 第二の祖国に 日系オバマを!  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑
 | HOME |