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2005.05.25 (Wed)

「3国戦争」その7 ロペス大統領の戦死!

 いよいよ南米史上最大の戦争「3国戦争」も
 最終章を迎えることになった。

 この悲劇の最終章を書きつつも
 ともすれば胸が熱くたぎりそうになる。

 老人、女性、子供まで武器を持たせて戦わせ
 このパラグアイを南米1の最貧国に陥れた
 この狂人にも例えられるロペスの人間性を
 どう理解すればいいのだろうか。

 連合軍は、敗走したロペスを追わず
 アスンシオンに入り臨時民主政府を樹立した。

 敗走しつつも徹底抗戦の構えを捨てないロペスは
 69年初め首都アスンシオンから
 東100km地点に位置する
 ピリベブイを臨時首都として新たな軍を編成した。

 傷病兵、老人、女性、子供たちばかりの新軍、
 それを一体、軍隊といえるだろうか?

 8月10日、連合軍はピリベブイを攻撃した。

 老人、女性、子供混成軍団が近代兵器を備えた屈強な
 連合軍兵士に抗すべくもなく、敗れた。

 敗走、敗走を重ねるロペスに付き従う
 軍服姿のエリサ大統領夫人。

 騎兵に馬なく、半身裸の歩兵達も靴の代わりに
 竜舌蘭を編んで履いていた。

 不足した弾薬の代わりに斧やナイフ、
 軍刀で戦ったパラグアイ軍…。

 よろばいながら進む老人、傷病兵、子供たち…。

 女性たちは夫、息子、兄弟、恋人の後に
 どこまでも従って樹木の下や掘建て小屋、
 あるいは穴を住居とし、落ち延びていった。

 ピリベブイから逃れたロペス一行は、北を目指した。
 カラガタウの近くに
 バポール・クエ(蒸気船があった)という
 小さな川岸にロペス一行が乗り捨てた軍艦が展示され
 国立公園になっているところがある。

 それは軍艦と呼ぶにはあまりにお粗末な小さな外輪艦である。
 過日、当地を訪れた筆者は
 茫漠たる彼方に、幽鬼のような一団の
 幻影を一瞬見たようで
 こみあげてくるものを禁じ得なかった。


 8月16日「子供の日」

 8月16日、パラグアイ軍3500。
 パラグアイの組織的な戦闘として最後となった
 アコスタニューの戦いは悲惨を極めた。
 
 まさにパラグアイ版白虎隊を彷佛させる
 少年兵らがブラジル軍2万を迎え討ち
 当地で討ち死にした。

 ロペスの小部隊の後方防御をしたのは
 大部分が9歳から15歳の少年兵だった。

 中に6歳から8歳の子供兵も混じり
 成人兵はわずか500人だったという。
 
 悲惨な戦闘は夕刻前に終わり、
 戦場は死傷した子供達で覆われた。

 アコスタニューの原野に夕陽が長い影を落す中、
 散乱する子供たちの遺体を泣きわめきながら
 探す母親や肉親の姿があった。

 この悲劇を忘れないため
 現在、パラグアイは8月16日を「子供の日」と
 定め記念日にしている。

 この悲劇の戦場を逃れたロペスは
 パラグアイ北東部のアマンバイ山脈沿いの
 Curuguaty,Ygatimi、Chirigueloと
 転々と戦いながら逃れ、70年2月、
 アマンバイの山岳地帯のセロ・コラの丘陵地(アスンシオンから
 北東約500km)に露営した。

 総勢わずか400名。
 武器弾薬衣食も尽きぼろぼろの幽鬼の一団だった。

 ここでロペスは最後の叙勲式を行った。
 有り合わせの金属片を削り赤いボロ布をつけて
 勲章代わりとし、エリサ大統領夫人自らが授与した。
 

 3月1日(英雄の日)

  eiyunoHi.jpg

 
 3月1日、この地を包囲したブラジル軍と最後の
 戦闘が行われた。

 次々、部下達が倒れただ1人となったロペス大統領は
 負傷しながらも最後まで敵と格闘し、
 「私は祖国とともに死ぬのだ!」
 と叫んで 壮絶な戦死を遂げた。

 夫ロペスと離ればなれになったエリサ夫人や幼子エンリケたちを
 載せた馬車もついにブラジル兵に囲まれた。

 騎乗して護衛していた15歳のフアン大佐は
 気丈に奮戦したが、母親の目の前で戦死…。

 80歳の副大統領もその場で戦死した。

 この後、エリサ夫人は幼子エンリケと共に
 夕闇迫る中、
 夫ロペス大統領と長男フアン大佐の遺体を
 セロ・コラの荒れ地に自ら土を掘って埋葬した。

 ロペスの死をもって
 南米を震撼させた3国戦争は終焉した。

 亡国の大統領として戦後、激しく非難された
 ロペスはナショナリズムの高まりとともに
 大国ブラジル、アルゼンチンの狭間にあって
 よく祖国を防衛した英雄として
 1926年、
 議会によってその汚名はそそがれ
 今では、
 アスンシオンの中央公園の「英雄の館」に祀られている。

 しかし、パラグアイにとって
 この戦争の代償はあまりに大きく
 戦前130万人を数えた人口が
 戦後20万人に激減し
 南米の最貧国に陥ったパラグアイは
 135年を経た現在でもその傷跡を
 完全に癒しきれないでいる…。

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2005.05.24 (Tue)

「3国戦争」その6 ウマイタ要塞陥落

 態勢を立て直した連合軍は、1968年2月19日、
 ブラジル艦隊43隻、兵士4000がウマイタ要塞を
 攻撃した。この攻防戦を3隻が強行突破して
 首都アスンシオンに迫り、町を砲撃して撤退した。 

 首都を攻撃されたことに大きな衝撃を受けたロペスは
 前線から指示を送り政府と住民をアスンシオンから 
 東10キロのルーケの町に移動させ、臨時政府を置いた。

 24時間以内の移動を命じられた住民は
 まさに着のみ着のまま、家財道具を運ぶ暇もなく
 ルーケ郊外で野外生活を余儀無くされた。

 今、このルーケの町は銀細工の町として有名である。

 3月、ロペスは、司令部をテビクワリ河のサンフエルナンドに
 後退し防衛戦を敷いた。

 この頃、徹底抗戦に固執するロペスを排除して
 停戦に持ち込もうとする陰謀が
 パラグアイ国内で発覚した。

 陰謀グループ368人が捕らえられ
 サンフエルナンドに設置した特別法廷で処刑された。

 その中には、ロペスの弟のアンヘル・ベニクノ・ロペスや
 義弟ら2人も含まれていた。

 筆者は、このテビクワリ河を6年前、国道1号線の
 フィラデルフィアから筏で1週間かけて友人等と
 川下りをしたことがある。
 川幅は100m足らずの中級河川である。

 パラグアイ河と合流する河口付近は支流がいくつも
 迷路のように蛇行し本流から外れないように苦労したことを
 覚えている。

 パラグアイ河に出るとすぐ下流に繊維の町として有名な
 ピラールの町がある。

 ウマイタ要塞はそのピラールの町から約40㎞下流にある。

 すでに1年余り敵の包囲下にあったウマイタ要塞は
 食料弾薬とも欠乏していた。

 防衛司令官のアレン大佐は絶望のあまり自決。

 7月、クルパイティ砲台とともに
 ウマイタ要塞は陥落した。  

 ウマイタ要塞を落した連合軍は北上を開始。

 ロペスはさらに防衛戦の後退を余儀無くされ
 首都アスンシオンの南35kmのピキシリ河に
 最終防衛戦を布陣。

 その兵力は老人、子供を含めて13000。

 連合軍38000は南正面からの攻撃を避けて、
 その兵力を2手に分け
 一部の兵力は迂回して首都アスンシオンの近くまで北上、
 もう1隊も北上し、それぞれ南下し
 パラグアイ軍の背後から攻撃した。

 それぞれの部隊を迎え討ったパラグアイ軍は 
 ほとんど全滅。

 12月21日から7日間続いたイタ・イバテの戦闘では
 老人、子供に混じって600人の女性も参加して
 必死の抵抗を試みたがほぼ全滅。

 ロペスは部下60名とともに命からがら逃走した。

 1969年1月1日、連合軍はアスンシオンに入城し
 臨時民主政府を樹立した。
  



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2005.05.22 (Sun)

「3国戦争」その5  老人と子供が主力のパ軍

トュティの敗退からのパラグアイ軍は
かっての精鋭部隊の
面影もなく老人と子供主体の弱小部隊と成り果てていく。

老人、子供まで徴兵して戦い続けるロペスという人間は
まさに正気の沙汰ではないと思わざるを得ない。

確かにロペスは一旦、連合軍に和平交渉持ちかけるが
連合軍側は3国同盟で決めた線は譲れないと決裂。

かくしてロペスは、再び徹底抗戦を弱小軍団に命令。

パラグアイが最後の望みを託すパラグアイ河の
ウマイタ要塞。

この要塞はパラナ河とパラグアイ河の合流する
三角地点にあった。

これを敗られれば、首都アスンシオンまでわずか200km…。

要塞の周辺に設置されたクルス砲台とクルパイティ砲台。

9月3日、連合軍14000は猛攻撃の末に
パラグアイ軍2500が死守するこのクルス砲台を占拠。

この戦いで連合軍は新型艦リオデジャネイロを失った。

戦力を20000に増強した連合軍は
上流のクルパイティ砲台に迫った。

しかし、堅固に強化されたクルパイティ砲台の防御は固く、
連合軍は9000の死傷者を出して敗退。

一方、信じられないことにパラグアイ軍の死傷者は
わずか54名だったという。

この大敗北の責任をとって連合軍の最高司令官
アルゼンチンのミトレ将軍は
総司令官を辞任。後任にはブラジルのカシアス公爵が
総司令官になった。

もともと内紛を抱えていたアルゼンチンでは
大小の反乱が各地で発生。

アルゼンチン政府はその対応に追われた。

また、ウルグアイでもコロラド党とブランコ党の内戦が激化。

両方の党首が同じ日に暗殺されるという渾沌とした
状態に陥っていた。

このクルパイティの大敗北により連合軍はその後、
1年間反撃に出られなかった。

一方、敗色濃いパラグアイでは物資が益々欠乏し
かっての日本と同じように
国内で金属供出運動が起こり、各種大砲を製造し前線に送った。

さらに落下した敵の砲弾は再生して弾薬を作った。
薬草の宝庫たるパラグアイは様々な薬草を採取して
医薬品も作った。

エリサ大統領夫人のかけ声で夫人らは貴金属、宝石類を供出し
勲章に使った。

パラグアイ最後の砦、
ウマイタ要塞を巡る攻防戦は長期化した。




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