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2009.07.03 (Fri)

新連載  19 ロスで寺岡夫妻に8年振り会う

19
そしてロス





要望書「海外の原爆被爆者を助けて下さい」



「昭和20年8月、広島市および長崎市に投下された
原子爆弾という比類のない破壊兵器は、
幾多の尊い生命を一瞬にして奪ったのみならず、
たとえ一命をとりとめた被爆者にも生涯いやす事の
出来ない傷跡と後遺症を残し、不安の中での生活を
もたらせた。 このような原子爆弾の放射能に起因する
健康被害に苦しむ被爆者の健康の保持、および増進並びに
福祉を図るため、原子爆弾被爆者の医療等に関する法律
および原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律を
制定し医療の給付、医療特別手当等の支給をはじめとする
各般の施策を講じてきた。また、われらは、再びこのような
惨禍が繰り返されることのないようにとの固い決意の下、
世界唯一の原子爆弾の被爆国として、下記兵器の究極的廃絶
と世界の恒久平和の確率を全世界に訴えてきた。
ここに被爆後50年の時を迎えるにあたり、われらは、
核兵器の究極的廃絶に向けての決意を新たにし、
原子爆弾の惨禍が繰り返されることのないよう、
恒久の平和を念願するとともに、国の責任において
原子爆弾の投下の結果として生じた放射能に起因する
健康被害が他の戦争被害とは異なる特殊の被害であることに
鑑み、高齢化の進行している被爆者に対する保険、医療、
福祉にわたる総合的な援護対策を講じ、あわせて国として
原子爆弾による死没者の尊い犠牲を銘記するため、
この法律を制定する」

これは被爆50周年に制定された「原子爆弾被爆者に
対する援護に関する法律」、通称、「援護法」
と呼ばれる序文です。 大変立派な序文です。
法律の内容も納得のいくものであり、
戦後苦しみ続けている被爆者に対する援護であり、
日本国の博愛精神、人道主義の現れと敬意を表します。
この法律の素晴らしい事は、人種、国籍、住居等の
差別がなく、被爆者手帳を持てばカバーされるように
なっています。しかし、どうしてか1974年の
公衆衛生局長通達により、海外の被爆者は除外されています。
普通、通達とは法律の施行に役立つ局内での
知らせと思います。しかし、この「通達」は立派な法律
「援護法」の施行をうやむやに曲げています。
なぜなのでしょうか? 何か外国に住む被爆者への偏見差別を
感じさせます。生涯いやすことの出来ない傷跡と
後遺症を持ち、不安の中での生活を続ける被爆者は
日本にいようとアメリカ、ブラジル、韓国にいようと
変わりません。日本政府がいろいろと審査被爆者と認定した
被爆者手帳の保持者です。なぜ海外にいるだけの理由で
いけないのでしょうか。大変不公平です。
厚生省の担当官の説明は
「あなた方は税金も払っていないから…」
「日本から逃げ出したから!」
「これは国内法だから!」
等の言い訳をしますがおかしいです。
序文には、
「ー国の責任に於いて…、高齢化の進んでいる
被爆者に対して…、総合的な援護対策を講じる…」
と銘記されており、全然、海外在住の被爆者を
除外するとは書いていません。
被爆者はどこに住んでも変わりません。
この解釈では、海外に出ると被爆者ではなくなるの
でしょうか? 博愛精神、人道主義、人間皆平等と
唱える日本国の美しい精神は、
この「通達」によって破壊されています。
思いますに外国に住む被爆者は殆どが外国人です。
しかし、日本国籍の被爆者がアメリカに約500人、
南米に約200人、韓国や北朝鮮にもいます。
この数少ない被爆者は日本人として日本国憲法に
よって平等に保護され、どこに住んでも日本人として
尊重され、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を
有すると信じます。日本国憲法は、海外にいるものには
通用しないのですか?
日本はそんなに非人道的な国なのでしょうか?
南米の被爆者の多くは敗戦後、
「苦しい日本に住むよりチャンスのある新天地を
求めて移住しましょう」と国や県の移住局の盛んな宣伝、
奨励によって行かれた方のようです。
確かにこの方々は人数も少ない。
そして金も力もない人たちです。 ほっとけば、
そのうちに亡くなり問題も消えるから…と無視し、
排斥や差別をしないで下さい。
老齢化したこの被爆者は遠い祖国日本からの
愛の贈り物を心から夢見ています。
もしも助けてあげるのでしたらこの方々が元気な時に
して下さい。 お願い致します。
この世界日系人大会にこの運動をお願いしましたのが
1998年からです。原爆が落ちたのがもう
54年前のことだから、もう忘れた、
考えることもないという方もいます。
しかし、この歴史はじめての惨状は言語に絶します。
忘れてはならないことです。 現在、私どもは、
日本の被爆者の代表団体の「日本被団協」
の強力な支援でブラジル、韓国、そしてアメリカの
被爆者が合同して海外の被爆者にも「援護法」の
一部でも支援してほしいと運動をしています。
よく知られていない私どもは人数は少なく、
資金もなく、政治家を動かす力もありません。
アメリカは民主主義の国です。
いつも人数と資金のあるグループは大変強いです。
その反面、数の少ないグループは力もなく哀れです。
しかし、この「弱者」に対して人道主義の政治家もおり
「弱者」を助けています。アメリカの被爆者救済運動も
この人道主義の政治家の支援で法案を提出して、
公聴会まで開催しましたが敗れました。
そして大統領にも嘆願書を送りましたが
「正当なる戦争」の理由で断られました。
しかし、ある高官は日本では被爆者支援を実行している。
1000人位の被爆者なら日本に行って嘆願しなさい
との進言もありました。
しかし、頼りにする日本は、
「海外にいるのでだめだ」と蹴られています。
現在、ある方はこの問題を裁判で提訴中です。
最高裁の判決迄10年かかると言われています。
被爆者の平均年齢は70歳になります。
10年は待てません。 この伝統ある強力な
世界日系人協会の力で日本の政治家を動かして
見捨てられている数少ない海外の被爆者を助けて下さい。
お願いします。        
  
  米国原爆被爆者協会               
  名誉会長  岩本完二


この嘆願書は2000年5月、東京で行われた
第41回世界日系人大会で取り上げられたものである。


バンクーバー“パウエル祭“


当地でもバンクーバー日報の武田冴子社長が北原の
次期衆議院選挙出馬の意向を歓迎し協力を快諾してくれた。
ここバンクーバーは、日本との
「ワーキングホリデー制度」(1年間働きながら勉強出来る)
があるため、日本からの若者が大勢やって来ている。
同新聞社もそれらの若者がバイトで仕事をしている。
「新聞編集もホームページなども若い人たちの
新しい感覚でパソコンを駆使しているのでとても助かります」
と武田社長。
同紙は広告欄に仕事紹介のページが沢山ある。
日本から来た若者たちが現地で仕事を探すために
新しい読者になると言うわけだ。
60歳前だろうか、小柄な身体ながらエネルギッシュに
飛び回る武田社長は反骨精神の固まりのような人だ。
「現地のチャイニーズの広告代金の取り立てが
一番むずかしいですよ。ほとんどの人が何だかんだ
文句をつけて払いませんからね。彼等を見ていると
南京大虐殺なんてホントカネ?と疑問に思いますよ」
と首をひねる。
同紙は構造的不況業種と言われる海外日系新聞の中では、
数少ない元気のいい新聞社である。
購読者が次々高齢化して後続の新しい日本人が来ない
南米の北原から見れば誠に羨ましい限りだ。
南米でも日本とのワーキングホリデー制度を導入したいと
北原はつくづく思った。

ここで北原は元パラグアイ移住者の松本家族と
十数年ぶりに再会した。 松本家族は十数年前、
パラグアイから日本に1家全員引き上げて郷里四国で
スーパーを経営していた。
松本の年老いた両親が亡くなったのを契機に
たまたま旅行で訪れたバンクーバーがすっかり気に入って、
スーパーを売り払いまたしても一家あげて
バンクーバーに再移住したという人だ。
バンクーバーでは日本食レストランをやっている。
「ここは素晴らしい所ですよ」
とバンクーバーの生活を堪能している夫妻に北原は、
何故日本から再移住したのか聞いてみた。
「田舎の姻戚関係がすっかり煩わしくなりましてね」
北原も何となく分かる気がした。
一旦、日本から根っこを引っこ抜くと世界中
どこでも生活出来る。
その最初の根っこを抜くのが大変なのだ。
地縁血縁様々なしがらみから解放されて見知らぬ外国で
生活すると、日本の特に田舎のねっとりまつわり
つくような人間関係は我慢出来ないものだ。
北原も今さら日本で生活出来ないだろう。
ーと思いながら国政選挙に出ようというのだから
矛盾も甚だしい、と苦笑いした。

戦前、カナダを目指した日本人移住者たちは、
まず、太平洋岸のバンクーバーに上陸の第一歩を記した。
8月4日、5日の2日間、戦前日本人の
中心地オッペンハイマー公園で日本人祭り
「パウエル祭」が開催された。
パウエルとはその公園に面した通りの名前である。
移民100周年を契機に2世たちが中心になって
始めたこの祭りは今年で25年になる。
北原もその公園に出かけた。たこ焼き、焼そば、
イカ焼き、トウモロコシ…と祭りの定番が各屋台に
そろっている。中央広場では落ちくぼんだ目を
より怒らせてカナダ人の古武道師範が
柔術の演舞を行っている。居合い抜き、少林寺拳法などの
演舞が次々披露される。 殆どが青い目のカナダ人だ。
この2日間、煙るような霧雨が降った。
残念ながらこの旧日本人街には今、日本人は住んでいない。
今ではこの周辺も段々スラム化し、残っているのは、
仏教会の西本願寺、それに日本語学校だ。
この日本語学校も過去、何度もさびれたこの地から
他に移転の話が何度もあったようである。
しかし、敢てこの地に学校を存続させた。
そのわけを聞いた北原に日本語学校の責任者は
次の様に語った。
「戦前からの大勢の卒業生たちが、カナダ中にいます。
卒業生たちの学校の思い出はこのオッペンハイマーの
日本人街とともにあるのです。カナダの日本人たちも
あの大戦中、アメリカと同じように財産を没収され
強制収容されました。そして青年たちはカナダに忠誠を
誓って対日本との戦いに立ち上がり、カナダ兵士として
戦場に赴いたのです。この学校にはその貴重な重い歴史が
刻み込まれています。学校がよその地に移転したら
次の世代に伝える何ものも消えてしまうのです」

パウエル祭の前日、北原は武田社長に連れられて
オッペンハイマー公園隣の仏教会を訪ねた。
境内では明日の祭りの準備に門徒の人たちが
忙しく働いていた。
ここの住職はバンクーバー歴30余年だという。
北原は武田社長とともに薄暗いお堂に案内された。
来意を告げて如何に今の日本がだらしないか、
海外の日系人、日本人の人権が無視されているかを
説明した。住職も昨今の日本のありように
一言あるようで大いに賛同した。
「日本の救世主になるかも知れませんね…」
ポツリと住職は呟いた。
その言葉に北原も今さらながら身が引き締まった。
記帳を促されて北原は黒々と筆に墨をつけて
「パラグアイ国 北原次郎」と書いた。

国や街にはそれぞれ独特の匂いというか風合いがある。
そしてそこに暮らす人たちもその土地の色合いに
染まっていくようだ。1世移民たちの後を継いだ2世、
3世たちは欧米人たちの中で劣等感、優越感などを
ないまぜにしながら必死に自分達のルーツを探り
やがて納得して「日本」という伝統文化の中に
密かな誇りを見出していく。

「棄民かと嘆きし父の仏壇に 在外選挙の登録証を供う」

どこの国の移民も悲しい匂いが染み付いている。
これは岐阜県県知事賞を受賞したブラジル在住の
寺尾芳子さんの歌だ。

アルゼンチンのブエノスからサンパウロ、ニューヨーク、
サンフランシスコ、バンクーバーと無数の移民たちの
様々な思いがズシリと北原の肩にのしかかり
重い旅となった。
ここバンクーバーで10月18日から21日まで、
北原が会長を務めている世界日系新聞協会の
第28回新聞大会の開催が予定されている。
今回の訪問はその下準備を兼ねてもいた。



ロス 寺岡夫妻との再会



つかみどころのない大都会ロス。ここではリトル東京に
隣接する日本の代表的なホテルに泊まった。
深夜到着した北原は部屋のチャンネルを次々回した。
ーと、なんとエロもエロ、無修正のアダルトビデオが
もろに放映されている。 日本女性の乱交プレー、白人、
黒人、何でもありのエロビデオ。
北原も男だから普通は喜んで観るのだが、この時は
旅の疲れもあり精神的に落ち込んでいた。
汚ならしさを感じて気分が一気に萎えた。
日本のビジネスホテルでもアダルトビデオは観る事は出来る。
但し、普通一般のチャンネルとは別に料金を払って観る
システムになっている。
それをここでは一般チャンネルをカチャカチャ回すだけで
アダルトビデオを観る事が出来るのだ。
宿泊客の中には子供連れの客もいる筈だ。
日本の代表的なホテルも地におちたものだ。

ここロスには、「ノアの方舟」ならぬ泥舟に乗って
パラグアイのイパカライファームで一緒に暮らした
寺岡和人夫妻が住んでいる。
夫人の佳津子さんが「まぁまぁばぁちゃん」の娘である。
主人は北原より7、8歳年下の建築設計士だ。
夫妻は当時、3、4歳の可愛い由利ちゃんを連れて
東京からイパカライファームにやって来た。
寺岡夫妻はファームが崩壊して間もなく
アメリカに再移住した。
今では当地で建築設計事務所を開き、日本向けに
ツーバイフォーの建築資材を輸出するとともに、
日本国内で実際にツーバイフォーの建築も手掛けており
事業も順調のようだ。
北原は寺岡夫妻と一夜、夕食を一緒にした。
案内されたのは、リトル東京に隣接した寿司屋だった。
えらく繁盛している店で、暫く待たされた。
客のほとんどがアメリカ人だ。彼等がカウンターで
寿司をつまみワイワイガヤガヤ飲み食いする様は、
全く日本の寿司屋と変わらない。
北原と寺岡夫妻とは8年振りの再会だった。
8年前、1993年2月26日、寺岡の家に泊まった
北原は、朝のテレビニュースでニューヨークの
世界貿易センタービルが爆破された衝撃的な映像を目にした。
あの時も言い知れぬ因果関係を感じた。
寿司屋での話は尽きなかった。当時の仲間の消息、
お互いの子供たちの事、あの幼かった由利ちゃんが
今秋結婚するという。

ロスで北原は初めてやや疲れを感じた。
胃がもたれるというか、食欲がなくなった。
これまでの人生の中でストレスなど一度も
味わったことがないのが北原の自慢だった。
今回の立候補宣言行脚も天命として愚直にどさ回りを
続けてきたが、初めてすべてが空しく思われた。
疲れているのかも知れない。
これが一般にいうストレスだろうか?
北原は25年前のパラグアイ移住以来、
ハイテンションのボルテージで今日迄突っ走って来たが、
こんな空しい気分、鬱状態になったことは1度もなかった。
ロスで表敬訪問する予定だった現地日系の有力者は
訪日中で会えなかった。
つかみ所のない大都会ロスでは何の収穫もなかった。



「どうぞ、お国で頑張って下さい」




ロスでの鬱状態は、東京に着いた途端、回復した。
8月10日、成田空港着。東京は猛暑が続いていたが、
北原が到着する前に雨が降り、雨上がりの清々しい空気が
北原を出迎えた。 日本でもどさ回りは続いた。
東京、京都、名古屋、熱海、福岡、沖縄、大分…
いろいろな人、団体幹部に会った。
北原は結構、1年に1回は訪日してはいるのだが、
じっくりと日本社会に接触するのは、25年ぶりの
浦島太郎である。
それぞれ然るべき紹介状を持って各界要人に
面会したのだが、所詮、島国日本は、慇懃無礼、建前社会…、
本音は見せない。
紹介状を持ってある党の総務局長に会った際、
「政治のことは我々に任せて下さい。どうぞ、
お国(パラグアイ)で頑張って下さい」とにべもなかった。
帰国子女たちが受けたであろう「拒絶感」を
何度も感じた。
よそ者を排除するという村社会の風習だ。
                      (続く)





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タグ : 新連載 第二の祖国で 日系オバマを

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2009.06.30 (Tue)

新連載  サンパウロからブエノス

18
サンパウロの夜空に飛び交う怒号






7月10日、アスンシオンを発って、サンパウロを訪れた。
北原の出身地である在伯大分県人会の役員会に出席し
「次期衆院選に立候補したい」と述べた後、
当県人会の山本副会長が北原を紹介するため挨拶に立った。
「………!」
山本副会長、立ったまま暫く声が出ない。
北原が見るとウッスラ涙を浮かべている。
感動で喉がつまって声が出ないようだ。
「北原さんはとても苦労した人なんです。
原始林に挑戦した初期開拓者たちや二世の様々な問題も
よく分かっている人です」
山本副会長は、北原の苦闘期、仕事の関係でアスンシオンに
4、5年滞在していたことから北原がパラグアイに
移住してきたいきさつもその後の経緯もよく知っていた。
北原も一瞬、目頭が熱くなった。
「大分には友人親戚も大勢いるから選挙の時は駆け付けるよ」
とブラジリアの日本大使館を退職して今は悠々自適の谷口氏…。

「最初話を聞いた時は気違い沙汰だと思ったよ」と
其邦字紙の岡崎デスク。
じっくり北原の話を聞いた後、
「いけると思うよ」と変わった。
「新聞社としてはドン・キホーテにはなれないんだよな」
と言いながらも
「北原氏はドン・キホーテになると言う。
彼の決意は『さて、お前たちはどうする…?』と
我々に突き付けられた刃である」
と自紙のコラムに書いた理論派の山中編集長。
幸いサンパウロでは地元の邦字紙ブラジル日報と
サンパウロ報知の社会面トップに
「北原氏次期衆院選に出馬表明」と大々的に報じた。
北原は、サンパウロでは地元日系社会の御三家たる
ブラジル日系人協会、ブラジル移住者協会、
ブラジル福祉協会をまず表敬訪問して立候補の
趣旨説明をした。
ついで沖縄を含む九州の各県人会を軒並み訪問。
ほとんどの県人会会長が積極的な支持を表明してくれた。
サンパウロ報知新聞社の入っているビルの7階を
後援会事務所として借りた。
選挙参謀には在外選挙実現に奔走してきた
元移住者協会会長の奥野弥太郎になってもらった。
奥野は昔の東映時代劇に登場する一徹者の古武士的な
雰囲気をもっている。
彼は在外選挙の動向に人一倍関心を持っており、
海外から名乗りを上げた場合の具体的な戦略を持っていた。
あまりに専門的な資料を持っているので思わず北原は
「奥野さんが立候補されたら如何ですか?」と聞いた。
「いや、私はブラジルに帰化していますので…」
ちょっぴり残念そうな気配が見られた。
日系社会に顔の広い事務局長も決まり、パソコン、電話、
机と用意し、半日勤務のアルバイト職員も雇う事にして
事務所オープンは8月1日とした。
北原は、これまで年に何回かサンパウロを訪れ
地元邦字新聞社記者たちとも顔なじみになっていた。
記者、編集者、後援者たちとガルボンブエノの居酒屋で
酒を酌み交わしながらの旗揚げ雑談壮行会が行われた。

「公民党の公認、推薦が先決だ~!」
「どうせ通りゃしないんだから、無所属で立って
政府の外交政策、日系社会に対する無為無策を
ガンガン攻撃しろ!」
「移住者が立候補したって単なる変人、泡沫候補に
終わるんじゃないですか?」
「日本の無党派層の若者たちが目を向けるような
アピールが何か欲しいな」
「公民党の南米支部をサンパウロに作ろう!」
「高崎幹事長とは早稲田柔道部の先輩、
後輩のポン友だって言ってたな~、お前、
絶対に幹事長に紹介状を書けよ!」
「お前じゃ~迫力ないよ~、俺が立候補してやる~」
「ばかやろ~!」「てめぇ~!」
アルコールが回ってくると盃が宙を飛び交い、怒声、
罵倒、取っ組み合いの大狂乱となった。
日系のオカミは目をつり上げ、ブラジル人女店員は
「他の客に迷惑だから出ていってよ~!」
「警察を呼ぶわよ~!」と
金切り声を上げて散々な壮行会となった。


パッションと憂愁の街ブエノスアイレス 


北原がサンパウロを7月18日午後18時の便で
発ってアルゼンチンのブエノスへ着いたのは、
夜21時半だった。
空港の外は寒風が吹いていた。
外でタクシーを待つ間、冷たい南の風が顔や首筋に
突き刺さる。
サンパウロは猥雑な活気がある街だが、
ブエノスアイレスは、南米のパリと言われただけあって
気障でクールなパッションが漲っている。
北原はブエノスには何度も来ているが、来る度に男心を
くすぐるラ・クンパルシータやエル・チョクロ、
ジーラジーラ、カミニートなどのアルゼンチンタンゴの
旋律が身体の内側から蘇り胸が妖しく高鳴る。
恋のためなら命を捨ててもいい、理想のためなら
生命を賭して戦う、という狂気にも似た熱いラテンの血が
暗く淀む憂愁の街ブエノス市内のホテルへタクシーで
向かった。

アルゼンチンで初期移住者の受け入れ業務を行ったのは、
アルゼンチン拓殖組合という団体だった。
その後、移住業務は、世界協力事業団に受け継がれた。
翌夜、その拓殖組合の高田会長が理事を集めて北原の
歓迎会を催した。
高田会長にはサンパウロの関係者から
「北原氏が訪問します。訪問目的は本人から聞いて下さい」
という簡略過ぎるFAXが届いていた。
高田会長は詳しい事は分からないながらも理事を召集した。
北原は、日本で最大のNGO団体である世界緑化協会の
パラグアイ総局の会長をしていた。
このNGOは、30数年にわたりアジア、オセアニアを
中心にマングローブの植林をしたり、農業指導を行っていた。
南米ではブラジル、ウルグアイ、パラグアイに
世界緑化協会インターナショナル総局が数年前に次々出来た。
南米に総局が出来たことで世界緑化協会は、
世界のNGOをランク付けしている国連の関係部局の
カテゴリーAに認定された。
カテゴリーAに認定されている代表的な国際NGOに
赤十字がある。アジアでカテゴリーAになったのは
同協会が初めてだった。
世界緑化協会インターナショナルのそれぞれの総局は
独立採算制で本部からの支援は何もなく各総局が独自に
会員を集めてプロジェクトを計画して活動を進めている。
アルゼンチンでは、このアルゼンチン拓殖組合が
同協会アルゼンチン総局の役割を果たしている。

10数人の錚々たる理事が集まった席で紹介された
北原は、「実は、海外日系人を代表して次の衆議院選挙に
出ようと考えています」
「ん……?」
一瞬、沈黙が場を覆った。
あまりに常識外の発言だったので思考が混乱した様子だった。
北原はなぜ日本の国政選挙に出馬を決意したかという
経緯を説明した。
「日本の人々は全く海外日本人の現状を知らな過ぎる」
「この南米には百数十万もの日本人移民が営々として
築いたそれぞれの土地に日の丸の旗がひらめいている。
これら百数十万もの日系人がかち取ったこれらの土地は
戦車や大砲で奪ったものではない。日本政府は彼等の
心の中にはためいている日の丸を知っているのか!」
「世界中に300万人を超える日系人のパワーと
各国に於ける日系人のステイタスを日本はもっと活用すべきだ」
「やがて来るであろう食糧危機を救うのは世界の
食糧基地南米である。食糧自給率が先進国で最低の日本は
もっと南米の重要性を認識すべきだ」
北原は滔々と自論を披露した。
やがて歓迎会はすき焼きパーティーに代わった。
飲んで食べる内に場も盛り上がり
「積極的に応援しますよ」
「最近の日本はどうなっているのか、情けない」
「海外日本人パワーで日本を叩き直せ!」
「世界日系人連合会を作って日本にプレッシャーを
かけよう!」とブエノスの夜に怪気炎が燃え上がった。

翌日、アルゼンチン報知新聞社を訪ねた北原は、
金城社長と赤城編集長と昼食を共にした。
食事をしながら来意を告げると二人は目を輝かせた。
「いや、ここでも在亜日系有権者会というのがあり、
選挙登録の呼びかけや投票に行くように
啓蒙しているのですが、
『誰に投票していいか分からないし、手続きも面倒だから
棄権する』という人も出ており、我々の運動も暗礁に
乗り上げていたんですよ」
「それはいい、担ぐお神輿が出来てもう一度啓蒙運動に
弾みがつく。平田会長に会ってもらいましょう」
在亜日系有権者会の総務担当理事をやっている
赤城編集長は大喜びをした。
この赤城編集長は、拓大OBで現地ラジオやテレビ等の
コメンテーターとして、また俳優もやっており、
アルゼンチンの映画は勿論、ハリウッド映画にも
ちょくちょく出ている。先般もアンデスの山麓で行われた
チベットを舞台にした映画でチベットの高僧役で出ている。
多彩な熱血漢で現地社会でも名前を知られた人物である。
年齢はもう70歳はとっくに過ぎている筈だがまだまだ
枯れる気配は微塵もない。
毎日アルゼンチン報知の社説に健筆を奮っている。
何でもその事務局は新聞社に置いているとのことだった。
在亜日系有権者会の平田会長は在亜叙勲者会の会長も
務めているアルゼンチン日系社会の長老である。
早速、北原が宿泊しているホテルで会うことになった。
赤城編集長に伴われて来た平田会長は、話を聞くと
「積極的に応援しますよ」と明言した。
同夜は何でもブエノスで開催されるNHKのど自慢大会の
打ち合わせが沖縄県連会館で在亜日系団体連合会の
打ち合わせがあるということで北原は赤城編集長と一緒に
その会合に出た。
寒い夜だった。
会館には既に関係者が2、30人集まっていた。
在亜日系団体連合会の太田会長の許可を得て北原は
参会者に国政選挙出馬の趣旨を手短かに説明した。
大きくうなずく人々を見て北原は確かな手応えを感じた。



ニューヨーク “パンアメリカン日系人大会”



「第11回パンアメリカン日系人大会」が、
7月25日~28日の4日間、ニューヨークの
マンハッタン、ルーズベルトホテルの大会議場と
小会議場で開催された。
パラグアイから北原を含めて17名が出席した。
この大会は北米、中南米の各分野で活躍する二世、
三世のリーダーたちが日系人としてのルーツの確認、
情報交換、結束を呼びかけて始まった。
第1回大会でメキシコのロベルト・橋本氏が会長になった。
同会長は 「居住国の良き市民になろう」
という大会スローガンを提唱し採決された。
本大会は3年ごとに開催国持ち回りで行われてきた。
本大会には、カナダ、北米、中南米、日本から
約400名が参加して「過去を思い起こして
より良い未来を築こう」との大会スローガンの下、
「貿易ビジネス」「日系人問題」「開発プロジェクト」
「医学」の各部門ごとに分科会が行われた。
大会前夜には、「ハドソン河夕陽観賞クルージング」
が行われライトアップされた自由の女神やマンハッタンの
超高層ビル群を心ゆくまで観賞した。
この40数日後の9月11日に、
あの世界貿易センタービルが、木っ端微塵に
破壊されるなど誰が想像出来ただろうか?
この時、ニューヨークは、まだ平和な我が世の春を
謳歌していた。
27日、ニューヨーク在の日本企業代表者で
構成されている「ジャパンクラブ」から代表者のみ
昼食のご招待を受けた。
日本を代表する有名企業の現地トップたちがズラリ居並ぶ
中で昼食懇談会が開かれた。
さすが、ニューヨーク、日本の懐石弁当に引けをとらぬ
立派な弁当が北原たちの前に並べられた。
昼食の前に簡単な挨拶交換があり食事となり、その後、
コーヒータイムで質疑応答が行われた。
最初は差し障りのない経済情勢等についての応答が行われた。
やがてメキシコのロベルト・橋本会長の妹、
マルガリータ・橋本さんが手を上げた。
司会の川田さんが、
「この人はメキシコの田中眞紀子と言われています」
と紹介して皆をどっと笑わせた。
メキシコの眞紀子さんの質問はさすが辛辣だった。
「こちらに進出している日本企業はなぜ優秀な
日系二世三世を抜てきしてリーダーに
取り立てないのですか?」
「いや、どうぞ…」
「いやいや、あなたから答えて下さい」と、
誰がこの回答をするかでもめるジャパンクラブのお歴々…。
「我々日本企業としてはものの考え方や経営理念等で
日本文化をしっかり理解しておられる方でないと……」
何とも歯切れの悪い回答だった。
カチンときた北原が手を挙げた。
「各国の日系人二世、三世には優秀な人材が
輩出しているのに彼等を昇進させないから、
優秀な日系のエリートたちは、アメリカ企業やドイツ、
イタリア企業に就職している。これは日本の進出企業に
とっても日本国内の企業にとっても大変な人材流出です。
そういった日本の閉鎖性を改めない限り日本の飛躍は
ありません。在外選挙権然り、在外原爆被爆者問題然り、
それらの問題を打破したいと思って私は海外日本人を
代表して次期国政選挙に名乗りを上げようと
準備をしています」。
「……」
一瞬、ジャパンクラブの席上にシラ~とした空気が流れた。
昼食会終了後、各社のトップに北原は名刺交換を求めたが、
「いや、名刺をきらせまして……」と逃げる人が2、3名。
北原も(なにも資金カンパなど要求しないよ。バ~カ!)
と苦笑した。
「連中、欧米人には卑屈な位ペコペコするくせに
日系人に対しては、実に横柄なんですよ。
北原さんがガツンとかましてくれたので
スーっとしましたよ」と、国際機関に数十年勤務している
パラグアイの日系二世の川田が帰り際、
そっと北原に語りかけてきた。



サンフランシスコ「海外の被爆者を…」



7月29日、北原はニューヨークから
サンフランシスコに飛んだ。
ケネディ空港の機内で待ちぼうけを食う事4時間。
(アメリカもひどいもんだ) ニューヨーク~
サンフランシスコ6時間。
空港には北米日々新聞社の山本社長が北原を
迎えに来ていた。
サンフランシスコには半世紀以上の歴史を持つ
北米日々新聞社と日米報知社という邦字紙が2社ある。
どちらもいわゆる戦前の移民を対象にスタートした
邦字紙で激変する日系社会の木鐸として米国社会の
抑圧と偏見に敢然と戦った輝かしい実績を誇っている。
当時の新聞人の気骨たるやまさに火を吹くばかりで
多くの名物記者、編集者を輩出している。
しかしながら、時代の変遷に伴い一世は次々世を去り、
日本語を読める二世の購読者も高齢化して行く中で
2社とも厳しい経営を強いられている。
北米日々新聞社の山本社長は前社長の辞任に伴い
数年前、就任したもので本職は西本願寺の開教使である。
日本からの移民はいわゆる元年移民といわれる
ハワイの明治元年の移民が発端となっており、
多くの移民と共に西本願寺の開教使たちも海を
渡ってアメリカへ来た。

70代の山本社長は、如何にもお経と説法が似合う
穏やかな人格者である。
同氏は開教使のかたわらロスの邦字紙、加州タイムスに
軽妙なコラムを長年にわたり掲載しており、
移民の哀感を織りまぜた同コラムは多くのフアンを
持っている。 霧が立ちこめるサンフランシスコは
多くのアメリカ映画の舞台になっており若い女性が
最も憧れる街であろう。
事実、街には短期、長期の留学や観光に訪れた日本女性が
目立つ。両邦字紙ともその手の若い日本女性の
アルバイトが多く働いている。
何も取り立てて有名な観光地もない南米のド田舎
パラグアイの北原としては、若い女性が生き生きと
働いている様子はため息が出る程、羨ましい限りだった。
両社の社長や編集者たちに誘われてカラオケに行った
北原は切ない気持ちを込めて「想い出のサンフランシスコ」
を熱唱した。
北原にとって当地は3度目だった。
ホテルはジャパンタウン前の都ホテルに宿泊した。
こじんまりしたいいホテルだ。
何より目の前に日本レストラン、店が立ち並ぶ
ジャパンタウンが控えているのがいい。
山本社長の案内で当地の日系有力者を表敬訪問して
出馬の趣旨を説明し、協力を求めた。
その中の一人に岩本完二さんがいる。
岩本さんは、北加日米会会長、米国原爆被爆者協会名誉会長だ。
                        (続く)





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2009.06.28 (Sun)

新連載  17 「選挙に出ろ」…だって?



17
「選挙に出ろ」だって…?




密教は景教と仏教の混合



北原は尾張戸神社の啓示以降、毎年、訪日の度、
各地の神社仏閣に参詣するようになった。
それまで様々な宗教書、霊能者などと会ったり
していた北原は、段々、密教に惹かれるようになった。

ある年、北原は、高野山に参詣した。

11月の高野山は既に冬の気配を漂わせていた。
宿坊に泊まった早朝、夢うつつ滔々と高く低く遠い川の
流れにも似たせせらぎのような地鳴りのような音が
聞こえてきた。その不思議な抑揚を持った音につられて
廊下を歩いて行くとそのリズムのようなせせらぎが
本堂から聞こえてくるのが分かった。
声明だった。
大勢の僧侶が朗々と歌うようにお経を上げていた。
美しい響きだった。
大勢によるお経がこんなにも美しい旋律をもって
いることを初めて知った。
声明は仏教に於ける賛美歌だということに気づいた。

午前中、北原は、まぁまぁばあちゃんの紹介状を
持って高野山で最も高名な密教の高僧に面会を求めた。
案内に出た若い僧侶に案内されてお能の舞台のような
板張りの部屋に通された。
「大師がお見えになる迄、恐れ入りますがこの板の間を
磨いて下さい」と乾いた雑巾を1つ渡された。
言われるままに北原は、既に十分磨き込まれた
その板の間を丁寧に丁寧に心を込めて磨いた。

「どこかで修行されたのですか?」
いつの間にか桐井大師が後ろに立っていた。
精魂込めて磨いていたので気がつかなかった。
掃除の仕方を見てその人物の人間度を図るのであろう。
どうやら北原はお眼鏡に叶ったようだ。
曼陀羅図の額を背にして座った太師は、
密教の話を諄々とされた。
北原の密教への習熟度が分かった大師は、
いきなり奥義について触れた。
「顕教(一般仏教)が山に登るためにゆるやかな
坂道をうねうねと曲がりくねった登山道を用意するのと
違って密教には身口意の三密行というものが
大事にされています。身密(身体の働き)、
口密(言葉の働き)、意密(心の働き)ですね。
つまり、聴覚、味覚、嗅覚など五官を総動員して
一気に直線的に頂上を目指します。
従って相当ハイレベルの心根を持っていないと
急峻な崖から転落死します」
「密教には2種類あります。
『如来の秘密』と『衆生の自秘』です」
「如来の秘密」とは、密教は実践的なものが大きな
ウエートを占めているので、体力ができていない
小学生にいきなりオリンピック選手の超難度の技を
教えるわけにはいかない。
「衆生の自秘」とは、本来すべてはオープンになって
いるのだが、それを見る方がそれを読み取れる段階まで
達していないから秘密になっている。
つまり自力で智力、体力を鍛えなければそれらの秘密を
解くことが出来ない。
「もともと密教では、生きとし生けるもの大宇宙の
顕現だから、すべてに仏性がある、としている。
従来、日本の仏教はすべては無である、ということを
強調してきました。だから仏教はどちらかと言えば、
無、即、虚無の世界というイメージが強かったのです。
それに比し密教はこの曼荼羅をみても分かる様に
空なるものの中に秘められた爆発的なエネルギーを
大事にするのです。有名な芸術家がいみじくも
言いましたね。“芸術は爆発だ“と密教も誤解を
恐れずに言えば芸術なんです。
だから人は生まれながらに内包している種子を
人生で花開かせなければいけないんです」

次第に核心的な話を吐露した桐井太師は
奇妙なことを言った。
「ここの密教は元々、景教の分派のようなもの
ですから儀式の最初に十字を切ります」
景教とは中国で栄えた古代東方基督教ではないか…?
ならば、空海は中国で基督教に出会ったというのか?
この東方基督教はアッシリア地域をベースとした
原始基督教からシルクロードを東進して東方に逐次
広まったものであの伝説の「イスラエルの失われた
10部族」ではないかといわれている。
5世紀以後のヨーロッパは、キリスト教の暗黒時代に
入った。 その暗黒のヨーロッパを嫌って、
景教徒たちはシルクロードを東へ東へと発展してきた。
「密教は景教と混合した仏教なんですよ。
密教で行う灌頂(かんじょう)も実はキリスト教の
洗礼式からきたものなのです」
さらに同師は、天台宗の開祖・最澄が中国から
「旧約聖書」を空海は「新約聖書」の漢語訳文を
持ち帰ったとも衝撃的なことを言った。
また、同師は魔事について強調した。
仏は功徳と智慧で人々を救い上げて涅槃に入らせようと
するのだが、魔もまた、同じ様に人々の善根を破壊して
現世の苦しみの世界に漂流させようとする。
人の善根が高くなればなるほど、魔の働きも
また盛んになってくる。
そのような時、魔とがっぷり組み合ってはいけない。
魔、本来、空なるものなので受け流せば自然体で
受け流せば消滅するものだ。―と。

まさに目からうろこ状態になった北原は、
同師から聞いた話の余韻を味わうべく境内を
そぞろ歩いた。
確かに参道境内にある石灯籠にはダビデの星が
刻まれている。さらに景教碑文も建立されていた。
北原は、大師との一期一会の出会いでまさに密教の
秘密を知った。
当地で密教の経文を買い求めた北原は、以降、
祝詞と般若心経と密教の真言を毎朝仏前で唱えるようになった。



「頂上に上れ!」もう一つの霊夢



それから暫くして北原は、またしても霊夢を観た。
前回の無人の銀座のど真ん中で
「俺は政治家になるぞ~!」と絶叫したあの奇妙な夢と
同じ様に夢の中で「これは霊夢だ」とハッキリと
自覚していた。
その夢は、明らかに日本の破局の場面だった。
その破局が大地震によるものか何に起因するものかは
分からなかったが、大勢の人々が山の上の方から
算を乱して駆け降りていた。
北原は逆に山を駆け登りながら、大声で
「頂上へ登れ!」と人々に叫んでいた。
何人かの人々が向きを変えて北原に従い頂上に向かった。
それだけの夢だった。
頂上に何があるか結局その夢では示されなかった。
北原にとって無人の銀座での絶叫と日本の大惨事で
山頂に逃げる霊夢は、何年経っても北原の心奥に
深く刻み込まれたままだった。



“遊びは終わりだ!“
新宿雑踏での啓示!




「天の時」と「地上の時」は、全く異なる。
太古から多くの預言者が「来るべき時」に
ついて語ってきた。 それらの預言の多くが地上の
人々の期待と予想を裏切ってきた。
北原が尾張戸神社の啓示を得、また、高野山で密教の
秘儀を垣間見て平々凡々たる月日が流れた。
北原に新たな啓示が降りてきたのは
2000年のことだった。

あろうことか、その啓示は新宿の雑踏を歩いている
時だった。
「遊びは終わった」ー。
柔らかいインスピレーションというか、
静かな沁みるような湧く「想い」だった。
北原は、毎年10月、世界日系新聞協会の大会・総会に
出席していた。 この協会は、外務省の外郭団体(財)
「世界日系人協会」の傘下にあった。
当然、会長、理事長など主要役員は大使や
外務省OBらが歴任していた。
総会や新聞大会は、日本側事務局主導の総花的な
ものだった。 これに北原は、不満を覚えた。
当時、古い歴史を持つ各国の弱小邦字紙が次々廃刊に
追い込まれていた。
北原は、苦境に追い込まれている各邦字紙の経営改善や
日本国内での広告受注が出来る様に事務局の強化などを
南米各国の邦字紙と結束して改革を訴えた。
壁は厚かった。それに北米の古い伝統を持つ邦字紙の
社長たちが南米組の叛旗に不快感を示した。
北原たちは、3、4年がかりで北米の邦字紙幹部たちを
説得して遂に革命に成功した。

つまり、新聞協会の会長職を大使OBから協会加盟社の
北米の伝統ある新聞社社長に交代させた。
北原が新宿の雑踏を歩いているときに新たな
啓示を受けたのは、北原が世界日系新聞協会3代目の
会長に就任してから2期目の秋のことだった。
北原が3代目会長に就任した翌年、1999年から
海外の日本人も国政選挙の比例代表選挙に限り
投票出来る法案が成立した。

そして2000年、衆議院選挙が行われた。
北原は各政党広告を新聞協会会員社に出稿して
もらうため事務局員と一緒に各政党巡りをした。
永田町のある政党事務所を訪問した時、
「あなたたちの協会は世界を網羅していませんね」と、
広報担当者に言われた。
確かに会員社は一部アジア、オセアニアを
含んでいるものの大部分が南北アメリカに集中しており、
ヨーロッパが含まれていなかった。
これに発奮した北原は、急遽イギリス、ドイツを回り
当地の邦字新聞の加入を図った。
さらにアジアの会員社も増やした。
翌2001年、行われた参議院選挙前、いちゃもんを
つけた政党の広報担当者に(これでどうだ!)と
気負って会員社リストを示して交渉した。
だが、その政党は「費用対効果がない」と
にべもなく断った。

北原は世界日系人大会や世界日系新聞大会などで
浮き彫りになった在外被爆者、二重国籍、日本語教育、
半人前の在外選挙権、ODA等々の様々な問題を
これまで関係官庁や政治家たちに陳情を繰り返してきた。
しかし、近年、その陳情に空しさを感じていた。
北原は、「遊びは終わりだ」という啓示から
何か大きな使命を担わされるのだろうと覚悟をして
日々その意味を考えて過ごした。
参議院選挙後、パラグアイに帰国した北原の胸に
小さな小さなさざ波が時折、押し寄せるようになった。
(オイオイまさか?そんなドン・キホーテ役は
出来ないよ…)
そんなピエロの茶番劇をやれっていうんじゃ
ないだろうな…?
北原は消しても消しても押し寄せてくる
さざ波をいい加減もて余した。

「選挙に立候補しろ!」ーだと…。
確かに昨年から海外在住の日本人たちも国政選挙の
投票権は出来た。だがそれは比例代表のみだ。
何十年も海外で暮らした男が今さら故郷に帰った所で
浦島太郎だ。 とんだお笑いぐさのピエロだ。
「やめろ~」
振払っても振払ってもその思いはあたかも
満ちてくる潮のようにひたひたと寄せてくる。
確かにその波の源流はあった。
ほんの7、8年前まで世界日系新聞協会メンバー社で
経営不振の社は南米組と決まっていた。
ところが、ここ4、5年、北米の社も苦境を
訴えるところが増えてきた。
強引に協会を引っ張ってきたリーダーとしては、
何とか協会メンバー社の経営を立て直したいという
責任感が重くのしかかっていたのも事実だ。
各国各地で数十年もの移民の歴史を刻んできた
伝統ある邦字紙。当地に根を張った信用と
情報ネットワーク。有形無形の財産を持つこれら
邦字紙をムザムザ潰していいのだろうか?
新聞社の灯が消えるということは、
そこの日系社会の活力が殺がれるということだ。
ひいては日本の海外資産を消失することだ。
これまでも海外邦字紙の有効活用を日本の有力者、
関係機関、政治家などに力説してきたが
全く無駄骨だった。
また、昨年、せっかく獲得した在外選挙権だが、
比例代表選挙のみの投票権と登録手続きの煩雑さ、
投票のやりかたなど不合理な点が数多くあった。
それらの高い障壁から登録率、投票率とも惨澹たる
有り様であった。この低登録率、低投票率から
ある政党などは在外選挙不要論を唱える始末だった。
ここは誰か海外日本人代表として立候補して内外の
関心を高め登録率、投票率ともに上げる必要があった。
ーかといって地盤、看板、かばんの何もない男が
名乗りを上げても99%泡沫候補で終わるのがオチだ。
回りを見回してもそんなバカをやるような人はいない。
誰が見たって北原は、政治家とは縁遠い人物であろう。
白を黒と言い張るような腹芸など出来ないし、
善悪合わせ飲むような太っ腹でもない。
誰とでもガハハとざっくばらんに打ち解けるような
性格でもない。どちらかと言えば内省的な人間で
つき合う人間もえり好みする方だ。
まさにこのさざ波にも似た天啓は、北原に
180度の転換を促すものだった。
逃れようはなかった。追いつめられた北原は、
郷里大分の友人と東京の知人に
「次の国政選挙に名乗りを上げようと思う」
とメールで相談した。
郷里の友人は、
「ガチガチの網の中に入り込む余地はない」
と厳しい現状を知らせてきた。
東京の知人は、「大歓迎です」
と無邪気に喜んでくれた。
踏み出す世界は暗黒のブラックホールだ。
まさに25年前のパラグアイ移住を決断した時と同じだ。
ヘタヘタと崩れ落ちるような脱力感にも
似た恐怖に襲われる。
政治の世界は魑魅魍魎の住む別世界―。
昨年の衆議院選挙の当落者データをチェックしてみる。
いずれも二世、三世の世襲議員や有名な名前ばかりだ。
還暦を迎えた今「パラグアイのドン・キホーテと
嘲笑されるのがオチだぞ」
「体力はあるか?」
「気力はあるか?」
「それに資金はどうする?」
「妻にどううちあける?」
「どういう手順、方法で進めるのか?」
「四面楚歌、支援者は?」 七転八倒の逡巡の末、
「立とう!」と遂に北原は決意した。
「ヨッシャーッ!」と覚悟を決めたのはいいが、
北原にとって最大の難関は、如何にして優子に
打ち明けるか?ーだった。
様々な難関をクリアしてきた北原だったが、
優子に新たな苦労を強いるのはさすがに辛かった。
何しろ「パラグアイに行く」と25年前、
打ち明けた時、2人の幼い子供を連れて何も言わず
ついて来てくれた妻である。
打ち明ける場所とタイミングを計った。
ある日、さりげなく彼女のお気に入りの
グランホテル・パラグアイのレストランで昼食をした。
昼食後、プールサイドの椅子でコーヒーを飲みながら
「実は…」と打ち明けた。
長い沈黙があった。
「お金はどうするの?」ポツリと聞いた。
「金は天下の回りもの…」
超楽観主義の人生哲学を滔々と北原は、まくしたてた。
「それにこれは天命だから…」と、新宿での啓示、
それにジワジワと押し寄せてきた思いなどを話した。
「マ、いいか。子供たちも大きくなったし、
最悪の場合、あなたと二人、チャコでインディオ生活か、
隅田川堤防でホームレスでもやるか!」
いつのまにか信じられない程、たくましくなっていた
優子に北原は胸が熱くなった。

OK、人寄せパンダのドン・キホーテ役を
やってやろうじゃないか!
北原は「白い道」を歩く覚悟を改めて噛みしめた。
勝手に国会議員選挙に立候補するとオダを上げた所で
何の効果もない。
北原は早速、パラグアイの日系社会を代表する
日系5団体の推薦状をもらった。
その推薦状を持って各国の日系諸団体の協力を
仰ぐことにした。
まず北原は、隣の国、サンパウロを訪問した。
                     (続く)




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