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2006.01.20 (Fri)

移住初期の日系新聞

ガリ版刷りの邦字新聞草創期

さて、日系メディア史である。

パラグアイ移住は、戦前、ラ・コルメナの
1936年(昭和11年)に始まった。

本格的な日本人移住は、戦後1953年(昭和28年)、
チャベス移住地から再開された。

ただ、この項を書くに当たって最初に以下のことを
お断りしておきたい。

移住初期時代の邦字新聞の詳しい創刊日など、関係者が既に世を
去ったり、またパラグアイに居住していないなどの状況から
正確な日時を特定出来ないことと記述に誤りがある恐れがある。

正確な事実が判明次第、その都度、加筆、修正していくことを
ご了解願うとともに、もし、当時の状況をご存じの
読者がおられたら、その都度ご教示願いたい。

今、判明している限りでは、パラグアイ初の邦字新聞は、
1958年、の「パラグアイ新聞」(月1回ガリ版刷)で
社主は、1955年チャベス移住地に入植した石黒氏である。

当時は日本の情報が何もない時代でこの新聞が
エンカルナシオンで発行されるとチャベス、フジ、ラパス、
サンタローサの各単協の農産物出荷帰りのトラックの運転手に
託されてそれぞれの組合に届けられた。
購読者は各組合からめいめい受け取り移住地の情報を知る
唯一の楽しみであった。

しかし、農家経済も苦闘期で購読者は増えず1961年
遂に発行中止となった。

その後、購読者の強い要望もあり同年末頃、
チャベス移住地出身の中村氏が発行を引き継いだ。
同氏は積極的に取材活動を行い1978年まで「パラグアイ新聞」を
月1回ガリ版刷りで発行し続けた。

1962年、日本から新聞人としての
意欲を抱いた奥畑喜代明氏が移住してきた。
奥畑氏はアスンシオンで新聞を発行したいとの意向で
エンカルナシオンの中村氏を訪ねて相談した模様だが
その内容は不明である。

奥畑氏は結局アスンシオンで「週刊パラグアイ」
(旧パラグアイ新報・1963年創刊)の発行を始めた。
ーと言うべきか継続したのかは不明。

従って一時期、中村氏の「パラグアイ新聞」と
アスンシオンの「パラグアイ新報」(?)か、
「週刊パラグアイ」(?)と競合した。
中村氏は1979年、亡くなった。

アスンシオンの「パラグアイ新報」はその後、
「週刊パラグアイ」と名前を変えている。
また、ラジオ放送「ラジオ日系」も併設して放送していた。
お隣のラプラタ報知に掲載された記事によると
1963年8月26日 ラジオ日系 試験放送開始。
 週三回30分番組・日曜日06:30、水・金曜日22:00・
ーでスタートしたようだ。
その後、アスンシオンのRadio Charitasでも放送開始。
一時期はRadioEncarnacionとRadio Charitasの
両局から放送していた模様。
番組内容は、日本のニュース、移住者の消息、民謡、
懐かしのメロディー、日本の流行歌、浪曲、落語など。
土曜日には子供向け番組もあり。
旧姓・山西恵子アナウンサー(現・平岩さん)によると
後半は、毎朝1時間半の日本語放送を行っていたようだ。

ラジオと新聞を精力的に発行していた奥畑氏は、
時の在パラグアイ駐在日本大使を誹謗する記事を書いたことから
国外退去処分を受け、新聞も発行中止し、
1976年日本に帰国した。

この奥畑氏の特筆すべき業績として、
ストロエスネル大統領訪日(1972年4月)
記念出版「パラグアイと日本」を1973年に刊行していることである。

この後、暫く新聞がない状態が続いたが、「週刊パラグアイ」で
奥畑氏と一緒に仕事をしていた村山保親氏が編集長となり
那須捷造氏が代表者となって
週刊「サンデーパラグアイ」の発行を始めた。
ただ、当事者がパラグアイにいないため現時点(06年1/20)
創刊日が不明である。

下記は、週刊パラグアイ新聞の移住30周年特別号である。
ガリ版刷りながら78ページもある。
主幹・編集長の奥畑氏は編集後記で4人のスタッフで
10数万グアラニーの資金と3カ月を費やしたが、収入は
経費の半分にも満たない赤字であると書いている。

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タグ : 新聞

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