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2007.09.07 (Fri)

西洋かぶれの売国奴たち

台風9号は、関東直撃しただけにあちこちに被害がでたようで
被害にあわれた方達に心よりお見舞い申し上げます。

幸いボクが今入っているマンスリーマンションは、入り組んだ
細い路地にあるので風も大したことはなかった。

午前中、いっぱいどんよりとした雲に覆われ、
吹き戻しの風も
あったので朝から拙著の加筆に集中した。
これが結構大変で丸1日かかりやんした。

今日、ギンギラギンで書き込んだテーマが
つまり、先の大戦で日本が負けたのは、
陸軍、海軍の売国奴たちが祖国をソ連と米英に
売り渡したのが最大の要因だった。ーということでやんす。

今は化けの皮がはげてしまったのですが、
当時、共産主義革命を果たしたソ連邦は世界各国の
エリート層にとって希望の星でした。
アメリカのルーズベルトだって日本の近衛だって
親ソ派だったんですぜ。

日本の一部の陸軍上層部もスターリンに
シンパシーを感じていた。

一方、海軍エリートたちはイギリスやアメリカ留学組が、
指導層だった。英米を師と仰ぐスマートな彼らは、
泥臭い陸軍を嫌ったし、
なにより、大のヒットラー嫌いだった。

陸軍は統制派(東条英機)と
皇道派(荒木貞夫陸軍大臣)の
2派が血で血を洗う内ゲバを繰り返しておりやした。

皇道派の青年将校が天皇中心の国家改造を求めて
起こした2・26事件は、

老臣を惨殺されて激怒した天皇が決起部隊の
「原隊復帰」の奉勅命令をだして終息し失敗した。

東北の貧しい農村出身が多かった
青年将校たちの決起にかける思いは純粋でした。

天皇を頂いて昭和維新を成し遂げるのだ、とする
理想がその天皇によって裏切られ、彼らの恨みは、
さぞや大きかったでございましょう…。

皇道派(どちらかというと情緒派)のこの失敗で
以後は統制派(エリート官僚)の
憲兵(関東憲兵隊司令官)
・調査(軍事調査委員長)畑出身の
東条がリーダーとなって国家総動員法、
大政翼賛会へと陰鬱な時代へ
突入していくのでございます。

勝つべき戦争を敗戦に至らせたのは、戦争を知らず
武士道精神を侮蔑し、西洋かぶれした
偏差値エリートたちが
愚かな指揮をとったからでごんす。

そこには西郷隆盛も東郷平八郎もいなかったし、
それに、ああ、あの天才軍略家・石原莞爾が
東条に嫌われ追放されていなかったのごぜーます。

ペーパーテストだけは出来たものの
戦争の素人集団の軍指導部が兵隊を手ごまのように
ガダルカナルやインパールへ追いやり餓死させたのだぎゃ。

そもそも、当時の日本には陸軍上層部にソ連の赤色革命、
共産主義を崇拝するグループがいたこと、
更には、海軍上層部に英米崇拝派がおり、
陸軍、海軍はお互いを憎悪していた。

陸軍ソ連シンパは、たとえ破れても
日本で共産党革命を起こし、
ソ連を引き入れ日本を共産国家にするという
売国思想を持っておりやした。

一方、ヒットラー嫌いの英米シンパの海軍上層部は、
3国同盟をした陸軍に従うのを嫌悪して、
敢えてだまし討ちの真珠湾攻撃をしてアメリカを激怒、
参戦させようと企図していた。

海軍上層部は初戦、大暴れしてアメリカとの
休戦和平を図ろうと甘い見通しをしていた。
どうせ負ける戦争ならアメリカの属国に
なる方がマシだとも考えていた。


日本の軍隊上層部に人類の理想とも言える
共産主義国家ソ連、または
民主主義の文明国米英に負けることによって
日本の再生を図る、という
「負けるが勝ち」という亡国思想が一部にあった。

さらに信じられないことに陸軍と海軍の意思疎通を図る
ことが出来なかった。
それは統帥権というオバカな変態権があったからだ。

つまり陸軍と海軍の統帥権はそれぞれ
軍令部(海軍)と参謀本部(陸軍)に分かれ、
独立して天皇に属していたので
両軍に意思の疎通がなかったばかりか、
お互いに天皇にゴマをすり、おいしい話ばかりを
進言していたため“天ちゃん”(軍高官らはこう呼んでいた)
もより美味そうな作戦にGOサインを出した。

これじゃ~勝てるワケないやね。


そもそもアメリカ国民の97パーセントが欧州戦線への
派遣に反対していた。
アメリカが参戦しなければイギリスは破れる。

真珠湾攻撃ってなオモロイ作戦があるぞ、
なんて悪魔のささやきを日本海軍の
英米チルドレンたちに
示唆したのはチャーチルでごんす。

まさに海軍の真珠湾攻撃はルーズベルトを狂喜させた。

「リメンバーパールハーバー!」この手法は、
あのニューヨーク9/11同時多発テロでブッシュが
「これは戦争であるぞよ!」として一気にイラク戦争へ
突っ込んでいったのと同じである。
常に謀略は繰り返されるでごんす。


当時、世界最強の艦隊を油の一滴も得られない
真珠湾攻撃などに使わず、
インド洋、アラビア海方面に向かわせて
シーレーンを確保すれば、
アジアの植民地解放も油田も確保出来たのに…、
オジサンたちはバカだった。

日本の鉄壁の防衛ラインとしてはまず、
サイパン島の要塞化を図る。
小笠原諸島から硫黄島、サイパン島まで
1線となった島々を要塞化する。

世界一の戦艦大和、武蔵、航空母艦に
これまた世界1の零戦を搭載して
マリアナ諸島以西の南太平洋、南シナ海、
インド洋を遊弋させときゃ~これぞ無敵艦隊だぎゃな。

陸軍もスターリンの謀略に乗せられて
蒋介石、毛沢東、北洋軍閥の
三つ巴の支那内乱という泥沼にはまり込んで
戦線を拡大しちまった。

日本軍が支那との泥沼に入り込んだきっかけとなった
張作霖の爆殺は、関東軍の謀略だ、というのが
流布していたが、今日、ソ連邦崩壊後の情報公開で
ソ連特務機関の仕業だったというのが判明しやんした。

スターリンは共産主義シンパの
ルーズベルトのホワイトハウスと
ハル国務長官の国務省に
127名のスパイを送り込んでいたのですぞ。

有名な「ハルノート」作成にも彼らスパイが関っていた。
恐るべしは、スターリンの謀略戦…。

そしてスターリンが作った
フランケンシュタインが中国でごんす。

今、またアメリカで慰安婦問題や南京虐殺事件等が
浮上してきやした。

これは、戦後60年を経て日本人にかけた
「ボクラ日本人が悪うございましただ」とする
自虐史観の洗脳が解けてきて自主独立機運の
高まりから、今また新たな強力な洗脳麻酔が
必要となったからなんですよ。

勿論、アメリカに於けるチャイナロビーの活動もある。
なにより見逃せないのは、アメリカの巨大資本が
中国マーケットをより重要視しているということで
ごぜ~ますだ。

アメリカはジェノサイドたる日本の各都市民間人爆撃と
原爆投下で殺戮した罪を同数のシナ人を
日本軍が虐殺したという虚構の南京大虐殺の
プロパガンダで相殺しようと、
今また世界中に喧伝しようとしておりまする。

「原爆投下もしようがない」とする負け犬国家・日本…。

戦後もず~っと欧米かぶれの偏差値エリートの
皆さんは、せっせせっせとアメリカの
「年次改革要望書」に書かれていることないこと
ご主人アメリカ様に貢いで参りました。

彼ら所謂、亡国の国際派エリートは、
いわばコスモポリタンですな。

日本など、どうなっても彼らコスモポリタンたちは
グローバル社会でより高い地位と収入が得られる
ワケです。


一方、残念なのが先の郵政民営化に
叛旗を翻した日本を愛する愛国派の皆さん…。

ご承知のように、お歴々、映画やテレビの時代劇で
見かける昔の悪代官のようなご面相をしております。

ミーハーおばちゃん等、女性主導のこの時代、
どうも分が悪うございまする。

でも、彼らこそ日本を愛している
愛国者なんです。

ボカ~、古き良き日本をぶっ壊した
一見、カッコイイ小泉、竹中コンビより
泥臭いこれらオッチャンたちの方が好き~!



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テーマ : 歴史 - ジャンル : 政治・経済

タグ : 大戦で日本が負けたのは 戦後60年 日本 戦争

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2005.04.22 (Fri)

チャコ戦争とテレレ

もう20年も前になるだろうか?

パラグアイの秘境・グランチャコ
(国土の半分以上を占める北西部ボリビア寄り
半潅木地帯)開発熱がたぎったことがある。

JICA(旧・国際協力事業団)の肝煎りで日本大使館や
各日系社会幹部らとパラグアイ空軍の提供してくれた
DC3型機に乗ってチャコ奥地へ入った。

本紙もチャコに入植していたYさんなどにインタビューすると
ともにチャコレポートを連載してチャコ開発の機運を盛り上げた。

JICAもチャコに何度かミッションを送り土壌調査や
環境調査等を調べるとともにパラグアイ河からの運河を
引く可能性等についても盛んに調査を進めた。

しかし、チャコ開発ブームはいつの間にか潮が引くように消えてしまった。

世界的な自然環境保護の機運と89年のクーデターで
ストロエスネル大統領が倒され、
あのいつも笑みを浮かべた慈顔のサマニエゴ将軍も逝った。

その後、あのラ・ヘレンサ周辺の移住地がどうなったのか
定かではない。

チャコはいつまでも“畏敬のグランチャコ”として、
そっとそのままにしておくのが
一番いいのかもしれない。

チャコ戦争の最大の激戦地
ボケロン戦跡
アスンシオンの西北方約360キロメートルに位置する
ボケロンは、ボリビアとのチャコ戦争の最大の激戦地であった。

パラグアイは、海への出口を求めてウルグアイの内紛に
手を突っ込んだがためにブラジル、アルゼンチンの介入を招き
3国戦争で大敗を喫した。

同じ内陸国のボリビアも同様に海への出口を求めて
1883年、チリとの戦争で敗れた。

太平洋への厚い壁に阻まれたボリビアは、
パラグアイ川を利用することを思いついた。

パラグアイはあの壊滅的な3国戦争の傷痕から
立ち直れない状態だった。

ボリビアはパラグアイ川から南下し、河川港を作る計画を立てた。

当時、アメリカの石油メジャーはボリビア・チャコ地方の
石油採掘権を得た。ボリビア政府と石油メジャーの思惑が一致した。

どちらもパラグアイ川を利用して大西洋への“川の道”を
確保しようとした。
1920年代後半からボリビアはチャコ北部へ侵食を始めた。

パラグアイは切歯扼腕(せっしやくわん・
歯がみをし腕を握り締めて悔しがること)したが、
未だ彼らの侵入を阻止するだけの軍隊を編成することは出来なかった。

そもそも当時、旧宗主国たるスペイン、ポルトガルから
独立した各国の国境はあいまいなままであった。

特にチャコ地方は隔絶された不毛地帯であったため尚更、
不明確なまま推移した。

こうした状況下、ボリビアはチャコにせっせと植民政策を進めた。

戦争による解決しかないと判断したパラグアイ政府は
フランスに士官を派遣し訓練を受けさせるとともに
砲艦2隻をイタリアから購入した。

ボリビアは植民政策を進めると同時に
ピルコマヨ川沿いのバビリアン(BALLIVIAN)と
グアチャリャ(GUACHALLA)に要塞を建設した。

これに対してパラグアイも各所に要塞を建設した。

1927年、ソルプレッサ(SORPRESO)要塞が
ボリビア軍に攻撃され、数名のパラグアイ兵が死亡した。

この事件を契機にパ国内の世論が沸騰した。
また、当時の野党コロラド党、与党のリベラル党の一部
パラグアイ共産党は、政府の弱腰を非難した。

遂にエウセビオ・アジャラ大統領は戦争を決意し、
エスティガリビア大佐(戦争終結後、リベラル党・大統領になる)を
チャコ戦争の最高司令官に任命
 
ボケロンの戦い
1932年9月9日、パラグアイ軍はボケロンのポイ島
(ISLA POI)に軍隊を終結し、ボリビアとの事実上の戦争を開始。

20日間の激しい攻防戦の末、ボケロン要塞を奪取した。

この勝利は、パラグアイ国民の戦意を著しく高揚した。

余勢をかったパラグアイ軍は、トレド(TOLEDO)、
コラレス(CORRALES)等、敵の駐屯地を次々攻略した。

そして、1932年5月10日、
パラグアイ政府は正式にボリビアに宣戦を布告した。

戦前、ボリビア軍(5万7000)は、
ドイツ人将校ハンス・クンズから訓練を受け、戦車、火炎放射器、
戦闘機などの近代装備を持っていた。

これに対してパラグアイ軍は、約4万5000。
数の上で劣るとはいうものの先の3国戦争で証明された天才的な
戦闘能力と自己犠牲の精神があった。

ボケロン陥落を知ったボリビア国民はドイツ人将校
ハンズ・クンズをボリビア軍の指揮官にするように
ダニエル・サラマンカ大統領に要請した。

 
ボリビア軍の指揮権を一任されたクンズは、
「3カ月以内にチャコ全域を支配下に治める」と、大統領に豪語した。

クンズ指揮官のボリビア軍は戦車、火炎放射器、戦闘機で
パラグアイ軍に襲いかかった。

しかし、ボケロンでボリビア軍を撃破したパラグアイ軍の
戦意は高く敵部隊を迎撃して打ち破った。

ナナワ(NANOWE)からゴンドラ(GONDRA)へ、
さらにサマクライ(SAMAKLAY)方面に敗走する
ボリビア軍2個師団をパラグアイ軍は追撃した。

そして、ボリビア軍は1933年11月11日、
カンポビア(CAMPO VIA)の戦いで破れ、降伏した。

この勝利でパラグアイ軍は、敵兵士8000人を捕虜にし、
大砲20門、トラック60台、他多くの武器を手中にした。

その後、クンズ指揮官は指揮権を剥奪され
失意のうちにドイツに帰国した。

これ以降、一進一退を繰り返しながらもパラグアイ軍は
優勢裡に戦いを進め、1935年4月5日、
パラピティ川(PARAPITI)を渡りサンタクルスまで侵入し、
チャラグア(CHARAGUA)を占領した。

しかし、これがパラグアイ軍の限度であった。

死力を尽くした両国とも疲弊の極みに達して
既に戦う力はなくなっていた。

かくして米国、ブラジル、アルゼンチン、ペルーなどの
調停によって1935年6月12日、平和議定書が調印された。

こうして改めてチャコ戦争の経緯を眺めてみると、
戦争前、ボリビア軍はアスンシオンからわずか
200数十キロメートルの地域まで迫っていたわけである。

あの亡国の危機にさらされた3国戦争からわずか60年で
再び国運を左右するチャコ戦争を戦わざるを得なかった
数奇な運命を担ったパラグアイに深い同情を覚えざるをを得ない。

チャコ戦争に於けるボケロンの戦いはパラグアイ国民の
愛国心を奮い立たせた“天王山の戦い”という
大きな意義を占めている。

先年、ツアーで訪れたボケロン戦跡には小さな自然湧水池がある。
この池がこの地域で唯一の“命の水”であった。 

ドロ水の本当に小さな小さな池であった。
パラグアイ兵士たちは、喉の乾きに耐え兼ねてこのドロ水を
マテ茶に入れて飲んだ所、誰一人腹痛を起こさなかった。

夏、マテ茶を冷水で飲む「テレレ」は、
この時のチャコ戦争が始まりだという。

パラグアイ兵士たちはジェルバ・マテのお陰で
チャコ戦争に勝ったのだと信じている…。

     mate.jpg



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テーマ : パラグアイ - ジャンル : 海外情報

タグ : パラグアイ ボリビア 戦争 マテ茶

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