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2005.09.24 (Sat)

幻の武道家・福岡庄太郎

パラグアイの日本人社会は
来年7月、移住70周年を迎える。
日本人移住発祥の地、ラ・コルメナに
日本人移住者第1陣が入植したのが1936年。
このラ・コルメナより早くパラグアイに来た
日本人たちがいる。

その内の1人が福岡庄太郎だ。
佐賀県唐津の人でアマゾンで活躍したコンデ・コマこと
前田英世氏らと柔道をやっていた。
その後、ヨーロッパに渡りサーカスに入り、柔道を見せ物に
渡り歩いたそうである。
1908年(明治41年)ブエノス・アイレスに渡り、
その後、ロザリオ市の警察で柔道師範として活躍した。

1916年(大正5年)頃にパラグアイに来て、柔道を
教えたり接骨、マッサージ等を開業。その後、花屋なども
兼業した。

日本人福岡の名前は広く知れ渡っていたようだ。

福岡庄太郎、下が彼
下で膝を組んでいるのが福岡、上が柔術家で有名なコンデ・コマ


コンデ・コマと並ぶ武道家、福岡庄太郎の名前は
これまで歴史の彼方で埋没していたが、約20年前、
青年海外協力隊の大塚真琴隊員がパラグアイに赴任した時、
取り上げて日系ジャーナル紙に掲載したことがある。

fukuok31.jpg

fukuoka21.jpg



以後、再び焦点を当てる人もなかった。
所がこの8月、
立命館大学大学院 社会学研究科
博士後期課程 助手・薮耕太郎さんが新妻明美さんを
伴って福岡庄太郎研究のためわざわざ来パした。

連日、関係資料や関係者などに聞き取り調査をした結果、
いろいろ興味深い新発見があったようだ。


記念すべき移住70周年を前にしてパラグアイの
知られざる武道家・福岡庄太郎が
極彩色で甦りそうだ。




*元青年海外協力隊 大塚真琴さんが調べた「福岡庄太郎」


石井光輝さんから聞いた事は本当だと解った。福岡庄太郎は南米に来る前に,10年間ほどサーカスの芸人をやっていたと、ある日ふと石井さんにもらした事があったというのだ。

  二人の若い武道家が知り合ったのはアメリカであったに違いない。同じ歳で、柔術で身をたてようと決意していた二人は、たちまち意気投合してしまい愉快な放浪の旅に出たのだろう。
 庄太郎がアルゼンティン時代に撮った写真は、白の柔術着に黒帯姿のさっそうとしたものである。

  コンデ・コマは身長164cm、体重64キロ、一方の庄太郎は180cmを越える巨漢だ。二人の写真を見ていて奇妙な事に気がついた。それは、庄太郎はあぐらをかき腕組みをしているのに対してコンデ・コマは身長のの低さを気にして、庄太郎の後ろに椅子に腰掛けて座っているのである。
  庄太郎の逞しく発達した上半身や、太い腕には、これから待ち受けているであろう人生の荒波を,不遜にも無視して、己の路を突っ走ろうという不適な若者の表情すら読みとれる。

  二人が約10年にも及ぶ放浪の生活に別れを告げたのは1913年(大正3)であった。北米から中米、時にはヨーロッパを股にかけて巡り歩いていた二人には、南米大陸こそが最後の自分たちの夢を実現させてくれるのにふさわしい土地だと確信するようになっていた。

  こうして前田光世ことコンデ・コマはアマゾン河へ、福岡庄太郎はラ・ブラタ河へ向かったのであった。二人とも25歳になっていた。酒とバラの日々を送っていた彼らにも、人生と薔薇には棘があることに気がつきだしていた。二人は放浪の旅の最後には別々の道を歩く事に決めていた。それから二人は生涯再び出会うこともなかった。

  ブエノス・アイレスに入った庄太郎はさらにラ・プラタ河を三百キロ遡ったサンタ・フェ州の州都ロサリオという町に落ち着いた。ロサリオの町で庄太郎は警察や軍隊で柔術の指南を行い、町の有力者からも人望があった。彼が34年後、アスンシオンで亡くなった時もロサリオの新聞は『我々にスポーツのなんどかを教えてくれたセンセイショータロ・フクオカが亡くなった』と報じたほどであった。
  しかしこの町に7年間を経った時に思わぬ大病が庄太郎を襲った。日本をでてから15年が経っていた。己の将来のことを考えてみた。もっと落ち着いた土地で家庭を持ち、大地に根をおろした生活をおくろうという気になった。
  ロサリオの町にはには上流のパラグアイ河を下って何艘ものパラグアイの船が出入りしていた。パラグアイ人はアルゼンティン人に比べて素朴で純朴な人間が多かった。故郷の唐津を出てから、色んな土地を歩いてきたが、庄太郎は人とのつき合いをいつも大事にしていた。

  イスパノ・グララニー文化には確かに彼を安心させてくれる何かがあった。彼の決意をアルゼンティン人達に話すと、それも良いだろうという人が何人もいた。
 「だってアスインシオンはマドレ・デ・シウダード(都市の母)と言われる位古くて落ち着いた町なんだよ。三国戦争で人口が激減して、女子供最後まで闘った根性は見上げたもんだよ。ただショウタロ、気をつけなさい。パラグアイでは木の上から女が降ってくる国だからね」
 三国戦争(1867~1870)でパラグアイはアルゼンティン、ウルグアイ、ブラジルを相手に闘ったこの国では130万人いた人口が、終戦時には20万人になり男は1万人を切ってしまっていた。そこで男ひでりの女達は木に上って、男が下を通過するのを待ちかまえたというのである。
(大塚真琴さんのブログより転載)



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タグ : 日本人移住発祥の地 ラ・コルメナ 福岡庄太郎

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2005.07.08 (Fri)

日本人最初の移住地 ラ・コルメナ

ブラジルの2分制限法の成立でブラジルへの日本人の移住は
年、2800人に限定されてしまった。

1934年、日本の拓務省は、ブラジル拓殖組合の
パラグアイ調査報告を受けて
パラグアイへの移住を促進することになった。

1935年、10月、拓務省の武田寛一南米課長、
ブラジル拓殖組合(以後、ブラ拓)の宮坂国人専務らが、
再度パラグアイの調査を行った。そしてパ国政府より
日本人100家族の移住枠を取得した。

翌36年3月、ブラ拓はアスンシオン市に事務所を開設。
3月、矢崎、内田、藤野周平(拓務技師)、笠松尚一(測量技師)らが
ラ・コルメナ一帯を調査した。同地にあるコルメナ富士
(移住者が後に名付けた)山頂に登った一行は予定地の
全体像を見ることが出来、当地を入植地にすることにした。

かくしてパラグアイ最初の日本人入植地、
パラグアリ県ラ・コルメナ(アスンシオンの東南約130km)
の大地主から1万849ヘクタールの土地を購入した。
この土地を400家族の日本人移住者、
1家族に1区画(20ヘクタール)の割当てとして造成にかかった。

ところが、同年4月7日、パ国の政変により登場した
フランコ新政権内に日本人移住に反対するものがあり、
移住業務は一時、頓挫した。

しかし、当事者たちの懸命な努力により
4月29日(天長節・天皇誕生日)に、
移住を認める旨の電話が農務次官から入った。

その日、日本は、天長節の祝日なので
笠松、藤野、内田らブラ拓職員と当時の在パ邦人の
福岡庄太郎(柔道師範)、星田、仲尾ら3家族たちと
事務所2階で東天を拝し、君が代を斉唱し、ビール、
巻寿司で祝賀会を開いていた。

そして5月1日付大統領令をもって、
日本人移民100家族入国許可の法令が公布された。

5月15日、内田初代支配人、酒井、笠松技師らが、
日本人として初めてラ・コルメナの地に第一歩を印した。

この1936年5月15日をもってパラグアイ日本人移住の
歴史的な入植記念日とした。




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タグ : ラ・コルメナ 移住地 ブラジル

20:23  |  日本人移住史  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑
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