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2006.02.25 (Sat)

アボカドが1個、ボトンと落ちた…。

早朝、森の精気を大口を開けてパクパク吸い込む。
今日も元気だ空気がウマイ…。
ここ数日、肌寒い位涼しい…。

森の恵みを頂く。

きれいなマンゴが一つ落ちていた。
1周目、横目で見過ごす。
2周目、「持って帰ってよ」そのマンゴが言う。

そうだな、仏壇に上げよう。

この時期のマンゴはそろそろ終わりだ。
森の中のマンゴは1カ所にかたまって散乱しているのだが、
その1個はポツンと離れた所にあった。

僕に拾われるのを待っていたようだ。

森の散歩の仕上げにストレッチをする場所がある。
チョッピリ周辺よりモッコリ盛り上がっている。
お気に入りのスポットだ。

その周辺にアボカドが5、6個落ちている。
大きめの3個を拾って木の根元に置く。

深呼吸をしながら残ったアボカドを目につきやすい
小道にさりげなく置いておこうか…と、考えていたら、
ボトンと1個アボカドが落ちてコロコロと小道に転がって
いった。

ありがとう、ありがとう…。


またしてもカジノに愛車が異常反応!

1昨夜、カミさんと大塚真琴さんと喫茶ハバナで
コーヒーを飲んだ。その帰途、
「ここが庶民的なカジノですよ」と車中で案内した。

そのカジノを通り過ぎて2、3分後、シャ~シャ~ッと
エンジンから異音、フッと水温計を見ると針がレッドゾーン!

ヤバッ!

車を止めてボンネットを開けて見るとラジエーターから
シャ~シャ~ッと水蒸気!

何たるコッチャ…?

さっきのカジノ前を通る時、(ちょっと大塚さんを
カジノで遊ばせてやろうか…)と、フト考えただけで
エンジンがカッカッして水温計が跳ね上がるなんて
全くこの間と一緒じゃないか…。

この前もその夜だけラジエーターの水が蒸発、
針が跳ね上がって、後はケロッとなんら異常なし…。

そして今回もその晩だけで翌日以降は正常なんだワ…。

「カジノ ハンターイ!」と
異常反応し過ぎるんだよな、僕の愛車…。

今度、可愛いセニョリータを助手席に乗せたら
一体、どんな反応をするのだろう?

楽しみだ。

この大塚さん、20数年前、当地で青年海外協力隊(5回生)
として図書館の司書をしていた。

オスカル竹村のペンネームでチャコのインディオのことや
メノニータのこと等を書いて日系ジャーナルに
寄稿してくれた。

今、薮さんの執筆で連載している
「パラグアイの武道家・福岡庄太郎」を初めて本紙で
紹介したのが彼だ。

その大塚さん、今、南部ボリビアのポトシ(海抜4070m)
にJICA専門家として単身赴任しており
7、8年振りに来パ。

その彼が「ポトシ通信」を発信している。

先般、届いたメールを紹介しよう。



ポトシ通信
On 2006.2.14, at 06:51 PM, Makoto Otsuka wrote:
 ポトシ通信06.2.14

   ポトシ通信の皆様

   ボリビア南アンデスは12月から雨期に入っています。
低地の東部では35度を超える暑さが続いているようですが、当地ポトシでは毎日雨が降り降り続き、時には霰や雹が降り、町中の人々は厚手の服やポンチョで佇んで、空の色を眺めています。
朝夕は寒くて、スト-ブを焚いています。
1月に大統領選挙が終わり、ボリビア最初の先住民出身のエボ・モレノが就任しました。
国内は不思議に正常です。
この季節はジャヤガイモやソラマメの収穫の季節で、村々にはジャガイモの紫色の花が咲き乱れていて、道行く旅行者をほっとした気分にしてくれます。
私の家庭菜園も大根や小松菜、春菊が成長しています。自宅のシソ、ミツバも少しづつ大きくなっています。
1月から2月にかけ、仕事等で近郊の村々を廻りました。アンデスの村々は、いつ訪れても大きな発見があります。
今回のポトシ通信は、先駆的な日本移民苅畠権六さんと彼の家族、伝説の歌手、マルチ-タ・レオン、アルゼンティン最初の市評議会議長に選ばれたコルネリオ・サベドラの生まれ故郷の訪問記が中心です。

  彼はアルゼンティン共和国の最初の大統領なのかどうか、長い間疑問に思っていたことをオツユの村で確認したくなったのです。

   最後に、ピルコマ-ヨ河上流とユユチャの最新の情報も書きます。

   げんざい、念願のホ-ムペ-ジ『ポトシへの道』も最終校正に入っております。3月中にはお届けできると思われます。乞うご期待のほどを。
   

■■■■■■■■ ボリヴィア国鉱山環境研究プロジェクト
■■■■■■■   業務調整員  大塚 真琴
■■■■■■    otsuka@cotapnet.com.bo 724-01045 (携帯電話)
■■■■■ a/c JICA-CIMA , Av. Arce Esq.Villason,  Potosi, 
Rep. de BOLIVIA
■■■■    ボリヴィア共和国ポトシ市ト-マス・フリアス大学鉱山学部3階
■■ URL http://www.jica-cima.org.bo(プロジェクト)、
■■   http://www.geocities.co.jp/NatureLand-Sky/8951/ (窓からカリブが見える) ■■   http://moscar.hp.infoseek.co.jp/index.html (南米の風の色)■■ http://mo19516428.hp.infoseek.co.jp/panamanokaze.htm(カリビアン・ノニ)< 06.1.20ラパス004.jpg><06.1.20ラパス018.jpg><06.1.20ラパス087.jpg>



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タグ : ボリビア JICA

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2005.04.22 (Fri)

チャコ戦争とテレレ

もう20年も前になるだろうか?

パラグアイの秘境・グランチャコ
(国土の半分以上を占める北西部ボリビア寄り
半潅木地帯)開発熱がたぎったことがある。

JICA(旧・国際協力事業団)の肝煎りで日本大使館や
各日系社会幹部らとパラグアイ空軍の提供してくれた
DC3型機に乗ってチャコ奥地へ入った。

本紙もチャコに入植していたYさんなどにインタビューすると
ともにチャコレポートを連載してチャコ開発の機運を盛り上げた。

JICAもチャコに何度かミッションを送り土壌調査や
環境調査等を調べるとともにパラグアイ河からの運河を
引く可能性等についても盛んに調査を進めた。

しかし、チャコ開発ブームはいつの間にか潮が引くように消えてしまった。

世界的な自然環境保護の機運と89年のクーデターで
ストロエスネル大統領が倒され、
あのいつも笑みを浮かべた慈顔のサマニエゴ将軍も逝った。

その後、あのラ・ヘレンサ周辺の移住地がどうなったのか
定かではない。

チャコはいつまでも“畏敬のグランチャコ”として、
そっとそのままにしておくのが
一番いいのかもしれない。

チャコ戦争の最大の激戦地
ボケロン戦跡
アスンシオンの西北方約360キロメートルに位置する
ボケロンは、ボリビアとのチャコ戦争の最大の激戦地であった。

パラグアイは、海への出口を求めてウルグアイの内紛に
手を突っ込んだがためにブラジル、アルゼンチンの介入を招き
3国戦争で大敗を喫した。

同じ内陸国のボリビアも同様に海への出口を求めて
1883年、チリとの戦争で敗れた。

太平洋への厚い壁に阻まれたボリビアは、
パラグアイ川を利用することを思いついた。

パラグアイはあの壊滅的な3国戦争の傷痕から
立ち直れない状態だった。

ボリビアはパラグアイ川から南下し、河川港を作る計画を立てた。

当時、アメリカの石油メジャーはボリビア・チャコ地方の
石油採掘権を得た。ボリビア政府と石油メジャーの思惑が一致した。

どちらもパラグアイ川を利用して大西洋への“川の道”を
確保しようとした。
1920年代後半からボリビアはチャコ北部へ侵食を始めた。

パラグアイは切歯扼腕(せっしやくわん・
歯がみをし腕を握り締めて悔しがること)したが、
未だ彼らの侵入を阻止するだけの軍隊を編成することは出来なかった。

そもそも当時、旧宗主国たるスペイン、ポルトガルから
独立した各国の国境はあいまいなままであった。

特にチャコ地方は隔絶された不毛地帯であったため尚更、
不明確なまま推移した。

こうした状況下、ボリビアはチャコにせっせと植民政策を進めた。

戦争による解決しかないと判断したパラグアイ政府は
フランスに士官を派遣し訓練を受けさせるとともに
砲艦2隻をイタリアから購入した。

ボリビアは植民政策を進めると同時に
ピルコマヨ川沿いのバビリアン(BALLIVIAN)と
グアチャリャ(GUACHALLA)に要塞を建設した。

これに対してパラグアイも各所に要塞を建設した。

1927年、ソルプレッサ(SORPRESO)要塞が
ボリビア軍に攻撃され、数名のパラグアイ兵が死亡した。

この事件を契機にパ国内の世論が沸騰した。
また、当時の野党コロラド党、与党のリベラル党の一部
パラグアイ共産党は、政府の弱腰を非難した。

遂にエウセビオ・アジャラ大統領は戦争を決意し、
エスティガリビア大佐(戦争終結後、リベラル党・大統領になる)を
チャコ戦争の最高司令官に任命
 
ボケロンの戦い
1932年9月9日、パラグアイ軍はボケロンのポイ島
(ISLA POI)に軍隊を終結し、ボリビアとの事実上の戦争を開始。

20日間の激しい攻防戦の末、ボケロン要塞を奪取した。

この勝利は、パラグアイ国民の戦意を著しく高揚した。

余勢をかったパラグアイ軍は、トレド(TOLEDO)、
コラレス(CORRALES)等、敵の駐屯地を次々攻略した。

そして、1932年5月10日、
パラグアイ政府は正式にボリビアに宣戦を布告した。

戦前、ボリビア軍(5万7000)は、
ドイツ人将校ハンス・クンズから訓練を受け、戦車、火炎放射器、
戦闘機などの近代装備を持っていた。

これに対してパラグアイ軍は、約4万5000。
数の上で劣るとはいうものの先の3国戦争で証明された天才的な
戦闘能力と自己犠牲の精神があった。

ボケロン陥落を知ったボリビア国民はドイツ人将校
ハンズ・クンズをボリビア軍の指揮官にするように
ダニエル・サラマンカ大統領に要請した。

 
ボリビア軍の指揮権を一任されたクンズは、
「3カ月以内にチャコ全域を支配下に治める」と、大統領に豪語した。

クンズ指揮官のボリビア軍は戦車、火炎放射器、戦闘機で
パラグアイ軍に襲いかかった。

しかし、ボケロンでボリビア軍を撃破したパラグアイ軍の
戦意は高く敵部隊を迎撃して打ち破った。

ナナワ(NANOWE)からゴンドラ(GONDRA)へ、
さらにサマクライ(SAMAKLAY)方面に敗走する
ボリビア軍2個師団をパラグアイ軍は追撃した。

そして、ボリビア軍は1933年11月11日、
カンポビア(CAMPO VIA)の戦いで破れ、降伏した。

この勝利でパラグアイ軍は、敵兵士8000人を捕虜にし、
大砲20門、トラック60台、他多くの武器を手中にした。

その後、クンズ指揮官は指揮権を剥奪され
失意のうちにドイツに帰国した。

これ以降、一進一退を繰り返しながらもパラグアイ軍は
優勢裡に戦いを進め、1935年4月5日、
パラピティ川(PARAPITI)を渡りサンタクルスまで侵入し、
チャラグア(CHARAGUA)を占領した。

しかし、これがパラグアイ軍の限度であった。

死力を尽くした両国とも疲弊の極みに達して
既に戦う力はなくなっていた。

かくして米国、ブラジル、アルゼンチン、ペルーなどの
調停によって1935年6月12日、平和議定書が調印された。

こうして改めてチャコ戦争の経緯を眺めてみると、
戦争前、ボリビア軍はアスンシオンからわずか
200数十キロメートルの地域まで迫っていたわけである。

あの亡国の危機にさらされた3国戦争からわずか60年で
再び国運を左右するチャコ戦争を戦わざるを得なかった
数奇な運命を担ったパラグアイに深い同情を覚えざるをを得ない。

チャコ戦争に於けるボケロンの戦いはパラグアイ国民の
愛国心を奮い立たせた“天王山の戦い”という
大きな意義を占めている。

先年、ツアーで訪れたボケロン戦跡には小さな自然湧水池がある。
この池がこの地域で唯一の“命の水”であった。 

ドロ水の本当に小さな小さな池であった。
パラグアイ兵士たちは、喉の乾きに耐え兼ねてこのドロ水を
マテ茶に入れて飲んだ所、誰一人腹痛を起こさなかった。

夏、マテ茶を冷水で飲む「テレレ」は、
この時のチャコ戦争が始まりだという。

パラグアイ兵士たちはジェルバ・マテのお陰で
チャコ戦争に勝ったのだと信じている…。

     mate.jpg



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テーマ : パラグアイ - ジャンル : 海外情報

タグ : パラグアイ ボリビア 戦争 マテ茶

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