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2006.01.28 (Sat)

「パラグアイ新聞」の創刊年?

日本で日系メディア史を研究しているT・Hさんから
次のようなメールが入った。

『以下、T・Hさんのメール』

おはようございます。国会図書館へ行ったついでに
以前見たパラグアイの
新聞を再チェックしました。

1.パラグアイ新聞(El Paraguay)
1961年3月1日 (第61号)から多くの欠号を含み
1975年1月21日(520号)まで
保存されています。

1962年4月11日発行の第100号には
「思えば2年10ヶ月前の三百五十部の
創刊号に初まり〔原文どおり〕今日の八百部の発行になる
道は幾多の苦難の
道を歩んできたものである」とあります。


2.パラグアイ新報社
1)週刊パラグアイ新聞(Semanario El Paraguay)
1967年1月12日(155号)~1973年7月10日(475号) 
まで多くの欠号を含み保存されています。 

編集綱領
一、週刊パラグアイ新聞とラジオ日系は、
世界の平和と民主主義の確立
及び、人類の幸福を念願し、日パ両国同胞の発展に寄与する為、
報道活動を行う。
一、週刊パラグアイ新聞とラジオ日系は、
パ日両国同胞が関心をもつ
真実のニュースを編集し、これを国内外の同胞に迅速、
正確、適切に報道する。
一、週刊パラグアイ新聞とラジオ日系は、
これらの使命を遂行するため圧力に屈せず言論の自由を守る。
(1969年9月19日号)


2)パラグアイ新報
1973年8月14日(479号)から多くの欠号を含み保存。
8月頃にタイトルを変えています。
また、1973年11月20日(493号)と
1974年3月26日(510号)の間に手書きから
和文タイプ文字に変わっています。

3.サンデーパラグアイ
プロアート企画有限会社出版部
1978年6月18日(82号)から1981年9月20日号まで
多くの欠号を含み保存。
五十嵐義一記者が1978年8月31日退社。
古賀公(いさお)記者がこのたび入社(1981/2/8号)、
とあります


1979年新年号には編集綱領が載っています。
「本紙は人権の自由平等を遵守し、報道の公正かつ
中立の立場をわきまえ、日系人社会に寄与する」ことを
基本的綱領として、次の二項を以って編集要綱とする。
一、国際ニュースなど速報を必要とする記事は、
週間でまとめ、解説手法を用いる。
二、家庭につながる教育、文化、健康に重点を置く」

『以上、T・Hさんのメール』
いつも貴重な情報ありがとうございます。



  *ー2年4カ月前に創刊したということになると、
パラグアイ新聞の創刊号は1959年6月、ということになる。
こちらでの情報によると、創刊号は1958年、として書いたが
もう一度、こちらの情報の精度を調べなおす必要がある。



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タグ : パラグアイの邦字紙

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2006.01.26 (Thu)

そして日系ジャーナル

パラグアイの邦字紙

パラグアイの邦字紙は、創刊順に並べると
次の様になる。

1、パラグアイ新聞:社主=チャベスの石黒氏がガリ版刷りで
  1958年~61年、発行中止。
  その後、チャベスの中村氏が1961年、
  再発行して78年迄月1回発行

2、パラグアイ新報社創刊:代表・奥畑喜代明が1963年~
  1976年迄発行。  
3、サンデーパラグアイ:代表・那須捷造、編集長・村山保親で
  197?~198?迄
4、日系ジャーナル社:1980年4月~現在に至る。

日系ジャーナルの発刊は、1980年4月15日号。
今操氏と高倉道男の共同経営でスタートした。
発刊に当たって在パ日本商工会議所の笠松尚一会頭が
祝辞を載せている。

「今般、高倉道男氏と今操両氏が企画した新聞
「日系ジャーナル」の発行を祝します。
両氏は、新聞の発行、経営については経験は少ないようですが
誠意と熱情をもって日夜努力し、社会の公器として
正しい報道をなし、在パラグアイ日系人がは恥かしくない行動の
出来る指針を示す位の勇気と誠実と誇りが必要と痛感します」

また、前原深アスンシオン日本人会・パラグアイ日本人連合会会長も
祝辞の中で、

「ー(中略)ー全パ日系農協協議会の資金導入を軸とした
営農対策運動の成否は、移住地の興亡を賭けた意義を持ち
農業移民としての在パ日系人はまさに、
破滅か発展か栄光か屈辱かという局面に立つと考える。
この時、問題に対する啓蒙、激論喚起の役割を果たす新聞の
必要性を痛感し日系ジャーナルが発刊されることを
喜びとするものであります」

尚、日系ジャーナル創刊号の表紙は日本からはるばる来た
象の花子と子象の修ベエ、ヒロを取り上げている。

タイトルは「花子南米の大地を歩け」ー念願のパラグアイ移住ー
日本の子供たちの夢と希望を背にしてーとなっている。

この象の花子は北海道の動物園にいるときクル病にかかり
殺されそうになった花子を信田修治郎(69歳)さんが引き取り、
以降、暖かい南の方に移動して行く中でマスコミが取り上げて
全国的に有名になり「花子の会」まで出来て1円玉募金活動で
集まった浄財でパラグアイ移住となった。

尚、3月20日に落成式が行われた5500万ドルの費用と
5年の歳月をかけて完成した
アスンシオン新国際空港の記事も掲載されている。

また、この創刊号でプレジデンテ・ストロエスネル市(現エステ市)の
新空港の調印文検討の記事も併せて掲載されている。
この新空港は日本政府が全工事費の80%に当たる
8000万ドルの借款を拠出することになっている。

日系ジャーナルが発刊された時、サンデーパラグアイ新聞も
未だ発行中で同紙の4月4日号には、
「小移住地構想、本格的にスタート」
国際協力事業団57年度予算つくーまず、800町歩を確保かー
との記事が掲載されている。

この小移住地の候補地はアスンシオンから国道2号線の
80kmの地点でア市近郊農家の借地農からの脱却を図るため
JICAとア市近郊営農営農独立期成会が共同で
2年がかりで取り組んできたもの。

また、同紙の4月20日号には、アスンシオン日本人会の
総合運動場と霊園の建設工事が着工したことを報じている。



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